見出し画像

37

「くくっ。ぼくの娘がどうやらきちんと成長して帰ってきてくれたらしい。また一つ悟りの境地を携えて大人になってしまったことを嘆くのはぼく位のものかな。天堂煉華。君には『マイナスファクター』が必ず必要になるはずだ。『真紅の器』に巫女になれるものはたった一人。だからもう踏み躙られる道なんて選ばなくていい。さて、大天廊下までは後少し。もう少し君の話の続きを聞かせてくれるかい? 凍子」

「明日への神話に抜け道が用意されていなければ私たちは『カラ=ビ⇨ヤウ』の呼び起こす欺瞞に翻弄されてたどり着けなかったかもしれませんね。このまま曲がりくねった通り道を抜ければ『S.A.I.』が抱える大罪の一つ『憤怒』の間に辿り着けるはずです。答えはいずれ知ることになるでしょうけれど、四月紫衣と選ばれた神子たちの話の続きをまだご所望なのですね」

 黒猫は欠伸をしながらそれでも退屈なんてしていない素振りで三ツ谷凍子に手を振っている。

 天堂煉華は何だかひどく思い詰めた表情で俯いたまま過去と現在の接続点を探そうとしているようだ。


*


「あなたが四月紫衣なのね。私たちの中で一番優秀な人。けれどあなたは決して特別な人じゃないわ。私のようにエーテルも持っていないし、鵺ゑ様の言うことをよく聞いているみたい」

「お姉ちゃんは不完全だから栄作様に相手にされないのよ。神子はとても大事な役目を背負っているわ。産まれた時からそのことを知っているの」

「そう。やっぱり私とは違うのね。嘘をついてもあなたは許されている。だってとても甘い苺の香りがするじゃない」

 茶色くて柔らかそうな四月紫衣から漂う甘い匂いを羨むようにして三ツ谷凍子は鼻腔を膨らませているけれど、母の手を離すのが怖いのか指先を触れ合ったままとても力の強い神子を牽制している。

 『コインロッカーベイビーズ』と呼ばれ運命の歯車によって選ばれた子供達の中でも決してブレることなく自らの役割に忠実であろうとしている四月紫衣はこれから訪れる未来を予見する三ツ谷鵺ゑの耳障りな歯軋りが耳元でずっと鳴り響いていることにもしかしたら気付いていたのかもしれない。

「おぉ。やはり一護殿じゃ。アジア諸国漫遊の旅からもう帰ってきておる。主らも喜べ。彼こそが次期『ZERO』を率いる総帥とまで呼ばれるお方。『ストロベリージャム』は未だ健在じゃよ」

 食堂の入り口には見た目は三十代ほどで若々しく精力に漲り肉体的健康美を維持した男が彼とは逆に線は細いけれど荒々しい暴力的な素養がルックスから見て取れるほどエネルギーに満ち溢れた男がとても親しげに話していて二人とも四月紫衣の方を眺めながらお互いの仕事を褒め称えるようにして立っている。

「婆やがとうとう夢見を正統に発現したと聞いて飛んで帰ってきたところだ。これは土産の『黒い水』。子供達を喜ばせるといい。空は未だ繋がっている。諦めることなんて何一つないはずだ。我々は諸国を解放出来ると信じている」

 東條一護は背中に大きな刀身の剣を背負っていて、綺麗に剃られて精悍な顔つきとたくましい笑顔で黒い薄透明のガラス小瓶に入った粉末を三ツ谷鵺ゑに手渡してささやかな悪意を交換し合う。

三ツ谷鵺ゑとそれから彼女の周りに群がる二十名ほどの子供達の姿の中からたった一人だけ四月紫衣を見つけ出して筋骨隆々とした大きな右手でまだ六歳になったばかりの異能なる子の頭を撫でている。

「君が四月紫衣だね。パンは未だ超人に至らず神の頂きを見据えたまま人を愛そうとしている。ならばこそ、ぼくたちがその座を掬い取ることでガイア全体を導くべきなんだ。ぼくらは自分たちを始祖と呼んでいる」

もし完全に欲望機械を充足させる装置が存在するのだとしたら人はそれをバベルと呼ぶのかもしれない。

進化の頂きに登り詰めた人間は一つになることだけが正解であるかのように原理主義へと回帰して多様性を捨て去ることが出来るのだと盲信してしまうだろう。

東條一護の傍にいならんだ忌野清司は四月紫衣と同じ目線の高さになるようにしゃがみこんで彼女の瞳の視線を真っ直ぐ捉えながら己が進んできた道の一直線上に彼女がいることを疑おうともしていない。

「器官なき身体を探しているということ? けれど私はただ爆発する知性に戻りたいと考えているだけよ。それなのに、あなたはやっぱり足りないものを見つけようとしているのね」

「それは違うさ。ぼくらはこの国を救いたいだけなんだ。ずっと昔から悪い『病』を植え付けられて真実の思想を見失っているんだ。それに君は大昔のように生贄として捧げられるわけじゃない」

 大人がそうするように四月紫衣は顎に右手を当てて考えたふりをした後に目の前にちらつかされた優しさのことを疑うのをやめて三ツ谷鵺ゑの傍から離れて忌野清司の胸の中へと飛び込んでいく。

「ねぇ、それじゃああなたは私をちゃんと光のあるところに連れて行ってくれるのね。神様なんていなくたっていい。だって私たちが此処から逃げ出すことなんてあらかじめ決められているんだから」

「あぁ、君に愛を誓おう。ぼくの名前は忌野清司。もし本当に世界が変えられるのならば『ZERO』は大衆を泥沼から救い出してくれるはずだ。信じよう、ぼくたち二人が初めて出会った今日この時を」

 とても恥ずかしそうに四月紫衣は忌野清司の胸の中で笑顔を零しながら女であることの優越感に浸りながら虚像と虚妄の差異などもはや重要ではないのかもしれないとして右手に収まっている小さな世界のことを握りしめる。

「ねえ、その人達は悪い人たちのはずでしょ。どうして彼らのことを信じてしまうの。『黒い水』なんて必要ないじゃない。私はさ、エーテルの力を信じたい。だって女の子が特別でいられる時間のことをあなただってきちんと大切にしているのに」

 四月紫衣よりちょっとだけ背の高い三ツ谷凍子は突然現れた忌野清司という男にまるで魂を売り渡してしまったみたいにして気を緩めていることを咎めているけれど、自分の力が既に届かないことを知っているのか声は弱々しく踏み出した脚もそれ以上前に進もうとしてくれないことに苛立っている。

 甘くて色とりどりのお菓子に群がるようにして神子たちもまた我を忘れてとても純度の高い魔法が詰め込まれたガラスの小瓶を目を輝かせながら両親のいない孤児達が集められた『ホーリーブラッド』の孤児院施設の大食堂を嘘っぱちの喜びでいっぱいにしている。

「もう他のことなんてどうだっていい。私は救える未来だけを形にして神様に仕返しをしてやるんだ。あなたが選んでくれたならそれでいいよ、清司さん。此処から連れ出して下さい」

「わかってくれたみたいだね。もしぼくだけだったらもしかしたら残酷な観客達を見過ごすことなんてできなかったかもしれない。『脚本家』の筋書きに従うべきだとぼくはぼくの物語を歩こうとした時に決めたんだ。一緒に行こう。紫衣。ぼく達ならこの醜くて美しい世界を変えられるはずだから」

 忌野清司は立ち上がりまだ六歳になったばかりなのにたくさんの重圧を背負い壊れてしまいそうなほど小さい悪魔と手を繋いでお互いの不確かさを認め合おうとする。

「婆やに礼を言わなくちゃいけないな。父上はぼくのことを利用したいのかもしれない。けれど、なぜ『KAMIKAZE』が翼を奪われてしまったのかをルキアや織姫が思い悩んでいるんだ。雨竜だって例外じゃない。俺たちはもう『ヒダリメ』なんて必要としていないんだ」

 東條一護は十歳の子供らしい表情で大人達に抗議しようとしている三ツ谷凍子の顔をみて苦笑するけれど、もう一度三ツ谷鵺ゑの方をみて寂しそうにすると、忌野清司と見つめ合って大食堂を出て行こうとする。

「どうして私じゃダメだったの! お母さんだって私の方がずっと正しいって言ってくれている。紫衣じゃいやだよ。このままじゃ絶対に世界は壊れちゃうんだよ! 行っちゃやだ!」

何も言わずに東條一度は背を向けてとても楽しそうに忌野清司と四月紫衣は手を繋ぎながら会話をして大食堂を出て行ってしまう。

「やはりそうですか。一護様。あなたは私が栄作様を選んだ時も、一周に手込めにされていた時も何も言わずにただあなたの信じる道だけを真っ直ぐに進んでいくだけだった。私のことなんて目もくれずに話をしようともしてくれなかった。私は器官なき身体を作ることが出来ないかもしれない。そう、きっと私はたった一人の愛娘、凍子のことを憎んでいるのでしょう」

 忘れなければいけないことを思い出しながら三ツ谷氷水は泣き崩れて凍子の悲痛な願いが届けられることから耳を塞ごうとしてしまう。

 神子達のはしゃぐ声に耐えかねて三ツ谷鵺ゑが黒い粉末の入ったガラスの小瓶の蓋を開けてしまう。

 大食堂に敗残兵の記憶が充満して甘美な誘惑だけを待ち望んでいたみたいに神子たちが各々に許されている異能力に酔い痴れて阿頼耶識へと至る意識の扉をこじ開けていく。

 彼らにもたらされたのは救済などではなく逃避の果てにだけ存在しているオピオニズムへの一方通行であり、偽りの光を掴もうと空中にばら撒かれた黒い粉末が紛い物の奇跡を呼び込んで純粋さを犯していく。

「やっぱりだ。ぼくはこれがみたかったんだ。ニンゲン。そうでしょ、リエン」

 三歳ぐらいの黒髪の男の子だけが阿片の匂いには惹きつけられずに一歩身を引いて堕落した理性へと堕ちて行ってしまった選ばれし子供達への絶縁状を紐解くようにして笑っていることにはどうやら誰も気付いていない。

 チリン。

 誰もが自分の姿を見失ってしまった孤児達を嘲笑うようにして甲高い鈴の音が響いて大食堂に侵入してきたのかと思うと、いつの間にか背中の折れ曲がった真賀田一周が立っていて歪んだ顔で薄気味の悪い笑顔を浮かべている。

「一護の奴め。なかなか侮れんな。産まれ故郷の満州まで帰って母親の乳房にでもすがりつきに行ったのかと思えばきちんと手柄を持ち帰って父親に媚を売るのを忘れておらん。もしかするとアレがこの近くにきておるのやもしれんな」

 ウヒヒと笑いながら根付鈴を振り子のように揺らしながら真賀田一周がゆっくりと歩み寄ってくるのを見て更なる絶望に飲まれる三ツ谷氷水が悔しそうに唇を噛み締めながら涙がとうに枯れ果てていることを思い知る。

 鈴の音に操られるようにしてヘラヘラと笑いながら『コインロッカーベイビーズ』として選ばれた女の子の一人が三ツ谷氷水の傍まで近寄ってくると、意地の悪い表情で彼女の気丈さを覗き込みながら、それでもまだ自分が身を守る術を持たない幼い子供であることを武器にしてまだ微かに残っていた母性原理を奪い取ろうと三ツ谷氷水の胸の中へと飛び込んで甘えようとする。

「ヒャハハハ。そうじゃ。芥子の匂いが恋しいのなら子宮を求めてみよ。それが神子として産まれたものの運命だと思い知るが良い。はよう、意識を覚醒せんとこのババアが喰ってしまうぞ」

 もはや夢や希望が何処にも落ちていないことを知った三ツ谷氷水は胸の中に飛び込んできた神子の一人を我が子のように思わず抱き締めて暖かさを伝えようとしてしまう。

「そうそう。満州にはもう何もかも忘れさせる魔法なんて残っていなかったよ。父上が母を愛したあの夜の黒い忘れ形見が憎しみと一緒に残されているだけだった。俺はもう迷わん。必ず『ZERO』を復元してやる」

「あはは。想いが反転するよ。私からのタクヤへの最後への贈り物。あの子達に永遠は与えてあげない。バイバイ」

 東條一護が『ホーリーブラッド』の寄宿舎を出て捨て台詞を吐いて四月紫衣が夢を叶えて立ち去ろうとしていたその頃に、三ツ谷凍子は黒く塗り潰されていく感情が溺れ始める。

「だめ。おかしい。頭の中が冷たくなってくれない。エーテルが逆流している? あのお兄ちゃん達は私に何をしたの? 助けてよ、お母さん。本当の気持ちが嘘をつきたくないって暴れてる」

 すっかり弛緩して堕落を覚えた穢れを覚えたばかりの子供達の笑い声が耳障りなほど大きくなって三ツ谷凍子を刺激している。

 助けを呼ぼうとしても何処にも寄り添う場所がないんだって思い込みばかりが大きくなっていくことに頭を抱えながら必死で耐えながら目の前の現実に蓋をしてしまおうと三ツ谷凍子は『絶対零度のエーテル』を全身に行き渡らせようとするけれど、煮えたぎる情念が邪魔をして暴走し始める。

「やはりか。ここにおるんじゃな。リエン。どこじゃ。儂にその姿を見せておくれ。もう代わりの身体は見つけてある。お前といつまでも一緒にいてやれるんじゃぞ」

「ダメです、一周。あの方は、栄作様はエーテルなどお許しにならないのです。エーテルではダメなのですよ。魔術回路は私たちを濁らせる。どうしてそんなものを求めようとするのです」

 もう感情を捨て去ってしまった三ツ谷氷水が胸の中で甘えている名前すら分からない女の子の頭を撫でながら目の前で起きている現実から逃げようとしていることに三ツ谷凍子は気付いてしまって歯を食い縛り全身に力を入れて渾身の力を解放するようにして叫び声をあげる。

「いやぁぁぁぁ!」


*


「君の記憶はそこで途絶えているというわけか。俗にいう『聖愛党孤児院施設炎上事件』の顛末を知るものは一人として生き残っていないことになっている。少なくとも記録上はね」

 黒猫が先頭を歩いて『憤怒』の間までの曲がりくねって出口の見えなかった裏通路の前方に赤い光が刺している。

 天堂煉華は自分自身の父親の姿を思い出しながら彼が決して彼女の右の肺胞に産まれた『紅蓮のエーテル』を否定したりしなかったことを噛み締めて並んで歩いている三ツ谷凍子の迷いのない表情を伺っている。

「母は最後まで私ではなくお父様のことだけを見ていました。そのことがわかっていたはずなのに私は自らの力を過信しすぎてしまった。あなたのように何処までも上昇し続ける炎の力を制御することが出来なかった。目が覚めた時には私は決して溶けることのない氷の牢獄の中にいて焼け焦げた無数の神子達の死体と即身仏のように生きたままの姿で見知らぬ子を抱いたまま燃える人影となった母が私を待っていました」

「俺の親父は多分愛なんて知らなかったと思う。だから三ツ谷、お前のことが少しだけ羨ましいけれどその代わり不器用になんとかして俺だけのことを見ようとしてくれていた。だから、だからこそ『真紅の器』は誰にも渡したくないんだ。さぁ、行こう。俺たちは『S.A.I.』を許すことしか出来ないんだ」

「その道は時期尚早だと言いたいけれど、あなたが『マイナスファクター』を手に入れられるのであればあるいは。和人はもうギャグボールの開発を終えているはずです。お父上に会うことだって出来るはずですよ、蓮華」

 黒猫は少しだけ勾配のついた坂道を尻尾を逆立てて威風堂々と歩きながら天堂煉華と三ツ谷凍子のやりとりを上機嫌で聞いている。

「燕はもう飛び立っている。ぼく達の決心もついたみたいだ。それにきっと誰にも負けることのないままぼくの娘だってこの先で新しい『ヒダリメ』を連れて意志を見せてくれるはずだ。『ファティマ』に記された事象はこれで全て揃った。君は確かにその胸に怒りそのものを刻み込んでいる。ぼくがその保証人となろう。過去を呼び起こすんだ、天堂煉華。君の物語がいつ紐解かれていったのかを」

ここから先は

0字

¥ 300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?