見出し画像

04. Halber Mensch

人間とは思えない奇妙な呻き声をあげなら裏路地に唐突に尻餅をつく白河稔。なんとご丁寧に鼻血まで出ている。

左頬をとても痛そうにさすりながら──絶対殺してやる──などとまるで雑魚キャラのようなセリフを吐いている。

むむむ、けれど、確実にぼくもそれどころではない。

金髪とメガネと長髪というこれまたお約束のようなトリオから一体全体どうやって逃げおおせるべきなのか、足りない頭を総動員しても思い浮かばずつい『少女地獄』を立ち上げてこのトリオを笑わせられる最大限の一発ギャグを教えてくれ! と機械の言葉を話すスマートフォンに助けを求めてしまいそうになる。

「ええい。忌々しいお約束トリオメ! こうなれば仕方がない、我が必殺の宝具、この左手の封印を解く時が来たようだな、フハハハハ! 愚者どもメ、恐怖におののくが良い!」

勢いよく啖呵をきり、少しは隙をみせてくれるかと期待したけれど、長髪も金髪もおそらく参謀役であるメガネですら仰け反る様子どころか怯む様子もぼくの言葉を聞いている様子すらもない。

どころか逆に勘に触りイラつかせてしまったのか金髪は──んだと、こら。舐めてんのか、てめー──と威勢良く啖呵を切りながら脚を踏み出すと思い切り右手を振りかざしぼくの顔面めがけて鉄拳を飛ばしてくる。

右頬に強烈な一撃を食らったぼくは今月でとうとう九十キロを超えた身体ごと左斜め後方に飛ばされる、なんというパンチ力、まさに、あっかん! と初めて顔面に突き刺さった拳の威力を十二分に感じ取る。

ドタガタバタドゴンゴガン。

金髪のそんじょそこらのヤンキーとは明らかに違うパンチ力で、廃墟のように寂れたビルの苔と汚れだらけの灰色の壁際まで飛ばされると、ちょうどその場にあった水色のゴミ箱に突っ込んで中身ごとぶちまけてしまう。

「お、おい。どういうことだよ、なんでこんなところにこんなものがあるんだよ!」

急に取り乱した声で叫ぶ長髪、落ち着けよと冷静さを保とうとるメガネ、そんな彼らを尻目にパッパッと制服についた埃を払いながら立ち上がる白河稔。

頭をブルブルさせてなんとか気を失わず目を覚まそうとするぼく。

ゆっくり目を開けてあたりの状況をようやく理解する。

「えっと。これは君たちがやったのかい。ぼくらもこの水色のポリバケツの中に入っていたものみたいにするってことなのかな」

白河稔は黒縁眼鏡がずれて斜めのまま三人トリオに向かって出来る限り冷静に状況を伝える。

あたり一面にぶち撒けられた二十代後半の男性の生首と思われるもの、左手首、右手首、右上腕、左上腕、右前腕、左前腕、右太腿、左太腿、右の脛、左の脛、右足の甲、左手足の甲、小腸もしくは大腸がはみ出している腹部、臓器が繰り抜かれた胸部の周囲に、心臓、二つの肺、腎臓、脾臓、膵臓、陰茎、それに少し遠くに右耳と左耳、それぞれがバラバラに分解されてしまったまるで映画か何かで使われた作り物のような人間一人分の身体と、そして、ぼくが頭からかぶったどす黒く腐食した人間の血液が、雑居ビルの隙間の薄暗い路地裏にばら撒かれ、今まで生きてきた時間の中で見たことすらない光景がその場に居合わせたぼくら五人の目の前に拡がっているという事実を目の当たりにさせる。

血の抜け切ったどす黒く皮膚の濁った生首の隣には白地に23と黒のインクで書かれた画用紙が血で汚れたまま地面に落ちていて誰かのなんらかの意志を伝えようとしている。

白河稔は、とくに慌てる様子もなくただ単純におそらく数時間前まで現実に存在していた男性がばらばらに解体されて転がっている現状をゆっくりと見渡すようにして、いぶかしむようにしてトリオの参謀役である眼鏡を睨みつける。

「くっ。違う。俺たちじゃない。なんにせよ、このままでは俺たちもなにかしらの被害をこうむる可能性があるな。おい、亮太、とりあえずこいつらを片付けてくれ、あとのことは俺が、考える」

少しだけ表情を崩してメガネをクイッと白河君がよくそうするようにお決まりの動作であげながら冷静さを取り戻す参謀役が話し出したので次の突発的な攻撃から身も守る準備をしようと、ぼくは頭から被ったどろどろの血液を拭って視界を出来るだけ良好な状態に保とうとする。

すると、三人組の背後にすらっと背の高いとてもスタイルの良い女子高生の姿を確認する。

「あ。中沢だ」

中沢乃亜、2―C、出席番号二十四、クラスで一、二を争う超絶美人でありながら、戦国時代より受け継がれる中沢流柔術の長女で唯一の跡取り、なぜ、彼女がこんな場所を彷徨っているのだろうかと不審に思ったその瞬間、長髪の膝ががくんと落ちてその場に倒れこんでしまう。

「うわー。こんなところまであいつら来ちゃっているんだ、ガードマンはなにしてるんだろうねー。お。誰かと思ったら佐々木君に、白河君。もしかしてお取り込み中だったかな」

推定バストDカップ、水色のワイシャツを第二ボタンまではだけて谷間を露わにし少しオレンジがかったショートカットヘアで赤いチェックのスカートをかなり短く履きこなし本当に見事としかいいようがない脚線美を見せつけるようにメガネの後ろからゆっくり近づいてくる中沢。

白河稔もさすがに動揺を隠せない。

彼は彼女がとても苦手なのだ。

ぼくはもう一度現実から切り離されてしまったような異常で異様な光景を確かめるように顔の周りの生臭い液体を制服の裾で拭いとる。

「ううう。ひどい! なんだ、こりゃ。そんでなぜか中沢。どうなってるだ、これは」

生首? バラバラ死体? ヤンキートリオにセクシー女子高生? なんだ、これは異世界モノにしてもいきなりハードな展開過ぎて脳味噌が悲鳴をあげている。チート設定の主人公はどこにいったんだ?

「その様子だと、いっぱい喰わされたって感じかな。君が今度の欠陥ってことかな。それで、彼らはお友達? ごめん、一人は先に眠ってもらっちゃった」

この近辺で詰襟といえば、おそらく北高だろう。赤いTシャツの金髪がニヤつきながら威勢よく脅し文句を並べながら中沢希乃亜に近づく素振りを見せるけれど白河君が男らしさを見せようと考えたのか急にいきり立って叫び出す。

「な、中沢さんはこの状況をみてなんとも思わないでござるか!小生はおしっこちびりそうでござる!」

開き直って逆に間抜けな部分を見せてしまったお陰でやっと緊張の糸が解けた白河稔はさっき殴られた左頬をさすりながらへたへたとそのまま地面に座り込むと、隣に寝転がっていた人間の頭部と目が合ってしまい情けなく甲高い声をあげている。

「私は数を数えたりはしないからね。番号付き、多分カテゴリー2かな。えっと、なんていったらいいのかな、地下街の暗殺者、って言えば伝わる?」

聞き覚えは当然ながらある。通称──Subtterreanss──。

最近ニュースを騒がせている連続殺人事件。

犯人は四名から五名の複数犯、社会構造に産まれてしまった歪みを補正する為に行動する静寂を纏う暗殺集団。

運よく警察の手を逃れているのか彼らの犯行は長期に渡って世間を震えあがらせているけれど、数件ほど連続して大手企業の重要な役職の人間ばかりが対象になっている為かどうやら社会的認知度と承認度みたいなものが不随意ながらあがってしまっているとワイドショーのキャスターは言っていて、コンビニでこっそり立ち読みした週刊誌を見た限りだと現場には謎の数字が書かれた紙がかならず落ちてるっていう例の。

彼らは一連の連続した犯行が終わるとピタリと活動を止めて暗闇の中に潜り込み一切の行動が不明になってしまうことでも有名だ。

でも、あれはもっと都心部の人が賑わっている場所で起きるはずで、どうしてこんなベッドタウンの錆びれた繁華街の裏路地なんかで彼らが?

「もちろん知っているよ。けど、彼らの目的は確か社会に存在している正常な構造を意図的に遮断して遅延をもたらしてしまう壊れた歯車の修正? とかなんとかじゃなかったっけ。だけど、こんな郊外の都市に住んでいる人を粛清したところで何の意味もなさそうだけど」

金髪が"勝手に盛り上がってんじゃねえ"と叫ぶのをなだめるメガネと目を覚ました長

髪。

彼らの焦る様子を見るとどうやら白河稔とぼくのお財布の中身は無事守ることが出来そうだ。

「うん。まぁ。意味はあるよ。多分ウチに来られなかった奴のことだろうな。とにかく見たものはちゃんと返すんだ。カテゴリー2相手じゃ逃げられはしないだろうしさ」

スレンダーでしなやかな腕、筋肉は思ったよりもついている様子はなくきちんと女の子らしい華奢な体を残していて、顔立ちは目鼻立ちがすっきりとしたいかにも美人ですって感じで物騒な言葉がまったく似合わないはずの中沢乃亜、なのになんだか彼女から発せられる異変に対する冷静な状況分析はひどくこの異常な空間に馴染んでいる。

彼女は以前にもこんな場所に来たことがあるんだろうか。

「そうか。こんな錆びれた街に来る意味を君は知っているんだね。Subterranessはもっと腐った牛乳ばかり飲むやつらかと思ってたよ。って、あ」

ぼくらの殺人考察に業を煮やした金髪とメガネが中沢めがけて襲いかかろうとするけれど、中沢はほとんど視界にもなかった彼らの行動をまるで予期していたかのようにゆらりと空気に寄り添うにして身体を傾けて避けてしまうと、首筋をとつんと軽く叩いただけで金髪とメガネはその場にうずくまってしまう。

さすが武道の名門の長女、恐ろしい。

少しだけはだけて見えた胸の谷間にぼくも白河君も思わず視線が釘付けになってしまう。

ほんといろんな意味で恐ろしい。

「瞬殺でござるか。まるでクンフーの達人のような佇まい、弟子入りを志願したくなってしまうデござる」

右手を大げさに振りながら、中沢は鬱陶しそうに白河稔の嘆願を払いのける。

「うわー。やめてよー。そーいうのはガラじゃない。おじいちゃんに嫌っていうほどに、叩き込まれたからその辺の女子高生よりはたしかにね。それで、君たちはどこに行く予定だったの? まさかこの三人とデートってわけでもないんだろうしさ」

ぼくと白河稔はお互いに顔を見合わせてアニメの主人公のような女格闘ヒロインが現実に目の前でいることにちょっとだけ威圧感に気圧されながらも、声を揃えて中沢乃亜の質問に答える。

「チェリブロ! このあとストVを閉店までやるつもり……だったんだけど」

と我に返って眼前に広がってしまった日常が完全に壊れてしまった風景をみて頭を抱える。

というかこれは警察とか呼ぶべきなんじゃないだろうか、突発的な死体の登場に対して過度な反応を失っている自分に気付きちょっとだけ傷つく。

ぼくの体内を駆け巡るマイクロRNAである『phoenix』はもしかしたら感情を抑制する効果もぼくにプレゼントしてきたんだろうか、ありがた迷惑とはこのことだ。

「おーけ。じゃあこの場はとりあえず私に任せてもらっていいかな。私はこのあたりにバイト先があるからさ、警察だとか面倒なことはそこに頼んでおく。あ、これで顔だけは拭いておいたほうがいいね」

中沢乃亜は青い通学鞄からミニタオルを取り出してぼくに投げ渡す。

ちょっとだけ遠慮しながらも顔にまとわりつく不快感に負けて鉄錆の匂いをこそぎ落とす。

その瞬間に一瞬だけ白河稔がクイッと黒縁眼鏡をあげてじろりと中沢乃亜を睨みつけた気がした。

「では小生たちはこれにて失礼するデござる。女子にそのような手間をかけさせるとは男子の風上にもおけないと言いたいところでござるが今回ばかりは背に腹は変えられないでござる。中沢殿のお言葉に甘えておくでござるよ」

ぐいっと白河稔にワイシャツの袖を引っ張られ表通りのほうに誘導されるままぼくらはその場を後にしようとする。

中沢乃亜はまるでこんな環境が日常であるかのように軽くぼくらに手を振り"おつかれー"と不自然な笑顔で見送る。

「ありがとう! なんかごめんだけど、任せていいのならお願いするよ、今回のことは誰にも話さないようにする、なんだかその方が良さそうな気がするし」

すごすごと情けなく立ち去る自分に少しだけ嫌気がさしながらも否応なく中沢乃亜の提案を受け入れると、その場を後にして歩き出したタイミングで白河稔が妙に真剣な声のまま耳元で囁く。

おかしいでござるよ。このあたりってこの奥には廃ビルばかりで何にもないでござる。そもそも中沢はどうしてこんなところにいたでござるか。それにあの死体」

とても訝しげに白河稔は中沢のあのことを疑り深い目つきで振り返りながら後をつけてみようとぼくを誘ってくる。

たしかにこのままあのバラバラ死体を置き去りにして呑気にストVなんてやっていられるか! というのが現実的に考えて十七歳男子高校生の正常な思考だろう、──もちろん! ──とひどく安請け合いしてとりあえず物陰に隠れながら少し離れたところから先ほどまでぼくらがいた奇妙にずれてしまった日常の横たわる場所に平然と立つ中沢のあの様子を伺う。

「ねぇ、やっぱり中沢は前にもあーいう死体を見たことあるのかな。妙に落ち着いている、というかSubterranssのメンバーだったりして? 生首蹴ったぞ! なんて罰当たりなやつでござるか」

中沢のあは溜息をつきながら、路上に放り出された二十代後半の男性の血の気が失せ死後硬直が始まりだした人間の頭部を無造作に右脚で蹴り飛ばすと、苦しみに満ちた表情のまま固まっている肉塊はごろごろと雑居ビルの壁際にまるで自分の居場所を探すようにして転がっていく。

「と、とんでもない女子でござるな。死体に対する畏怖のようなものがまるでござらん。むむ。とりあえずこの路地の奥へと進んでいくようでござる。それにしても中沢は相変わらずけしからん尻をしているデござるな、佐々木氏、そう思わんか」

画用紙に書かれた数字の分だけ切断されて以前に人であった肉塊をまるで路傍の石のように気にかけず中沢乃亜はぼくらが突然の危機にまみえていた場所のさらに奥にある裏路地の暗闇へと吸い込まれていく。

ぼくらも後を追い、廃墟だらけの路地にある用途不明の物陰に隠れながらなんとか察知されないように中沢乃亜の後を追う。

足元も不確かな暗がりをぐんぐん進み、十メートル先の角を右手に曲がるその場所に似つかわしくない青いチェックのスカートと紺のソックス、白いワイシャツという一目で学生とわかる出で立ちは迷いもなく、右手に曲って本当に何もなさそうそうな廃墟ビルの一角へと入り込んで行く。

「見失わないように注意するデござるよ、佐々木氏。小生、ここまできた記憶はあまりないでござるけれど、不自然な看板の怪しいお店がちゃんとあるんでござるな」

赤い看板が怪しく光る『占いの館/とおせんぼ』と入るのにひどく勇気がいりそうな木製のドアのお店が左手にあり、その隣にはR18と黄色い旗印の書かれたいたいけな思春期の高校生二人を明らかに刺激してたまらない店構えの店舗が並ぶ、中沢乃亜はその五メートル先の曲がり角を居並ぶ二つの店舗には見向きもせず進んでいった。

「まさか中沢のバイトって、あの、痴態を惜しげも無く使うアレでござるか。いくらなんでも大人になりすぎではござらんか、あのセクシー女子高生は」

「確かにこんなところで出来るバイトなんて限られているデござるな。なんというか同級生のあらぬ姿を見てしまうのはいくら小生といえども逡巡するデござる。そうでござるか、あの弾けんばかりの肉体が野蛮な野獣どもに。何てことでござるか、先を急ぐデござる」

さっきまでの真剣な表情を少しだけ崩してうっかり鼻の下を伸ばしてしまったぼくらデブとガリのコンビはすっとビルの角に身を潜め、ゆっくりと体を傾けてさらに深遠の向こう側へと消えていった狂喜の肉体の後を覗き込む。

「むむむ。あの廃墟ビルが中沢のバイト先。きっと不逞の輩に脅されてそのようないかがわしいバイトに手を染めているに違いない。ここは小生が一肌脱いで──」

「ズボンのベルトを緩めるのはちょっとだけ待つデござる、白河君。中沢の挙動がおかしいでござるよ」

うっかりチャックまでずり下ろそうとしている白河稔は一体何を期待してしまったのだろう。

そんな彼を尻目に、素人女子生中沢乃亜は左手をドアの左側にかざし、グイッと頭をビルのドアに近づける。

怪しげな青い光でぼんやりと辺りが照らされると、ガチャリと解錠する音が狭い路地に響いて僕らの耳元まで聞こえてくる。

「あそこが入り口でござるか? なんだか妙にセキュリティの厳しそうなビルでござるな。そんなハイテクノロジがこんな雑居ビルにあるとは。でもそのようなバイトならばあるいは」

中沢乃亜がビルに入っていくのを見計らって雑居ビルの入り口までこっそと近づくと灰色の錆び付いたドアの左側には手の平大のモニターのようなものがついた機器があり赤い小さなランプが左上に点灯している。

ドアのちょうど目の高さほどの位置に薄い十字マークを囲む円がうっすらと白く刻まれたガラス装置のようなものがあり、そちらも機器の左上に赤いランプが点灯している。

「うう。せっかくここまで来たのに、ここまででござるか。指紋認証はともかくこれは明らかに虹彩認証のようなものでござるよ。中沢は一体どんなところに出入りしてるデござるか。小生はすっかり臨戦体制だというのに」

意気消沈してしまった白河稔のがっかりと冷めきった表情をみるとぼくはよからぬ考えが頭の中をよぎりそうになり振り払うけれど、やっぱり我慢が出来ずについうっかり白河君に悪辣としたお誘いをしてしまう。

「白河君。ぼくはとてもいけないことを思いついてしまったよ。ここまで来て『チェリブロ』に戻るのもなんだし、この突然閃いた悪巧みに乗ってみる気はござらんか」

「なんと。佐々木氏の悪巧みならば、乗らない手はござらん。どうするつもりでござるか」

クイッと指先でもと来た道を戻ろうと示して白河稔を誘い、スタスタと急ぎ足で先ほどのバラバラ死体が散乱している路地裏まで舞い戻る。

先ほどの変わらぬ日常に狂気がすっかり侵食してしまった光景を見て改めてぼくらの冒険が始まり出していることを肌で感じる。

「その頭部とそれから左手首を持っていくデござる。まだ二つとも腐ってはいない、なんとかなるかもしれないでござるよ」

「佐々木氏の閃きに小生は感服いたしましたぞ。このようなところで足止めを食らい同級生が魔の手に落ちる瞬間を見逃すわけにはいかないでござるからな」

ぼくは黴や苔や得体の知れない染みだらけの灰色の壁際に転がっている半開きの目をした頭部を、右足首と左上腕と大腸がはみ出ている腹部に囲まれて、誰かと手を繋ぐのを待ち望んでいたような左手首を白河くんが拾い、ぼくらは申し合わせたように目を合わせて再び先ほどの雑居ビルの入り口へと急ぎ足で向かう。

初めて触れることになる生命活動の停止した肉体というものの感触を直に感じながら人とは違う道を進んでいるのだとぼくは明らかに確信を深めながら先ほどの錆び付いた鉄製のドアの前に立つ。

「ウギャ。こいつは気持ちよさそうに目を半開きにしていて右眼の虹彩を照合することが難しそうでござるな。白河君、ぼくは人の道を一歩踏み外すことになるけれど、これからもぼくのことは気軽に佐々木氏とそのまま何も変わらず呼んでほしいでござるよ」

そう力強く白河君に伝えたぼくは勢いよく右手の人差し指と親指をすでに血の気の引いてしまった名前も知らない人間の頭部の右の眼孔に突き刺してひどく気色の悪い感触を味わいながらと柔らかい眼球を潰さないように丁寧に優しくそれでも力強くゆっくりと右の眼孔から引き抜こうとする。

裏側に張り付いている視神経が引き剥がされるのを嫌がるようにして意固地に眼球との別離に抵抗しているのを感じながらビリリビリリミシミシメキメキキと今まで聞いたことのない音と感触を右手の人差し指と親指でしっかりと掴み取ってちょっとだけ力を強めて勢いよく死体となってしまった頭部から右眼球を引き摺り出す。

「小生と佐々木氏はこれからも永遠に友人として関係を続けていく所存。一切の迷いなく勇気ある蛮行を行った佐々木氏に敬意を払うでござる」

びしっと両足のつま先を揃えて背筋を伸ばし、丁寧にしっかりと敬礼をぼくに捧げてくる白河君。正気を失いかけたとしてもきっと彼がいればぼくはちゃんと帰ってこれると理解する。

「ありがとう、白河君、とにかくチャックはちゃんと締めてベルトも元どおりにしよう。なんとか潰してしまうことなく右眼を引き抜けたでござるよ。早速彼の右目と左手を借りて新しい世界の扉を開けてみるデござる」

白河君は、冷たくなってしまった名も知らぬ左手をドアの左側の機器に、ぼくは引き抜いた右眼をドアの中ほどに設置された機器にかざすと、ゆっくりと淡い青色の光が点灯し”ガチャリ”と解錠される音が真っ暗な路地裏に響いて機器の左上の赤い小さなランプが青いランプに切り替わる。

「まさかの大当たりでござるな。佐々木氏の閃きはいつもぼくらの冒険をワクワクする方向に導いてくれるデござる。ささ、ドアノブに手をかけて中沢を追いかけるとしましょう」

ぼくは手にしたぶよぶよとした眼球をワイシャツの左胸のポケットに入れると、銀色のドアノブに手をかけて右側にゆっくりと回し前方に向かってドアを押し込む。

地下へと続く階段が目の前に広がっていて小さな灯りのついたダウンライトが一メートル感覚で階段を淡く照らしている。

よく耳を澄ませると何か歓声のようなものが奥の方から聞こえてきてぼくら二人は吸い込まれるように地下へと続く階段に脚を踏み入れる。

「地下、へ続いている、ということはとなりの鍵のかかった灰色のドアが本来の入り口かな、白河君。セキュリティの厳しさが何か新しい世界が近づく匂いを感じさせるデござるよ。あ! 誰か来た!」

青い帽子と青い制服のすらっとした男が暗闇の向こう側からぼんやりと姿を浮かび上がらせる。

ぼくらに気付いたのか少しだけ右側に身体を寄せて道を開けようとする。

「第三試合が始まるところです。今夜のメインアクト、とお伝えしなくても、ご存知ですよね」

すれ違いざまに制服の男はぼくらにそう告げると階段の上まであがっていく。

彼の顔には鼻下から左頬にかけて大きな傷跡があり覚醒しているのかわからない光の消えた瞳孔がなんだか少しだけぼくらに恐怖を想起させる。

「なにか怪しい雰囲気の男、でござるな。それにしてもメインアクトとは。先を急ぐデござるよ」

一段一段淡い光が規則的に等間隔で照らされている階段を降りていくとドアの向こう側から大きな歓声が漏れ出している。

「このドアの向こう側。今回は虹彩認証のみ、さっそく右眼をかざしてみるデござるよ、白河君」

右眼をかざすと短い電子音が三度なり、ドア中央の電子機器の赤いランプが青いランプに切り替わると、解錠された重厚な扉のロックが外れる。

分厚い扉をゆっくり引いてみると一斉に大勢が騒ぐ声が目の前に拡がって、ぼくらがきたことを歓迎しているのかと錯覚させるほど大きく響き渡り鼓膜を振動させる。

「なんと。佐々木氏。小生は夢でも見ているデござるか、こんな廃墟ビルの地下に大勢の老若男女が集まり熱狂しているデござる、中央のアレはもしかしてリングでござるか」

社会階級も性別も国籍すらもバラバラな人々がどこから集まってきたかわからないけれど、ざっと二百人ほどの男女が中央に向かってグルリと取り囲み何かに熱狂している。

吹き抜けになっている上部を見渡すと二階席のようなところには仮面をつけ正装をしたいかにもお金持ちといった人々が談笑しながらやはり中央付近を眺めている。

「無理矢理でも掻き分けて中を覗いてみよう。それにしても中沢はどこにいるデござるか」

汗臭さと絶叫で密集した人混みを掻き分けていくと、やっとのことで中央のリングが見えてきてリングに立っている青いチェックのミニスカートに素足、黒いTシャツに着替えた中沢を発見する、彼女はどうやら出場者のようだ。

「まだ筋繊維の強化なんてものに囚われているのね。大事なのは美しい身体なのよ、いくら力学的に未完成な身体を作り込んでみてもあなたが到底ここに至るのは不可能だわ」

そうやって挑発するようなセリフを放ち、全身をしならせて上段回し蹴りで相対する重量級の筋肉の鎧を纏う男を牽制する中沢。あれは本当に同級生だろうか。

「まさか女子高生が相手とは。悪いけれど骨の二、三本は覚悟してもらおう」

二メートル近い巨漢の浅黒い男がスタンっと軽快なステップでリングマットを蹴り込むと両手を広げ軽率に中沢乃亜のおよそ女子高生とは思えない完成しきった肉体を掴みとろうとする。

「触れさせるものか。この肉体に触ることの出来る相手はもう決まっているのよ」

またまるで空気中を泳ぐようにしてバックステップで後ろに跳ねると、中沢乃亜はそのまま右脚を真上に振り抜いて見事に右脚指先が筋肉男の顎を捉える。

急所を確実に貫く遠心力を利用した脚技の正確な打撃による殴打でそのまま彼はリングに片膝をつき、腰を落とす。

と同時に中沢は──天霞! ──と一閃するように声を放つと、今度は筋肉男の左顳顬めがけて水平に鞭のようにしならせた右脚で中段回し蹴りを打ち込む。

「勝者。赤コーナー! 夢見る機械人形+パーフェクトヴァルキリー=中沢乃亜!」

一斉に盛大な歓声が一つになり、熱狂の渦が地下闘技場全体を包み込んで鼓膜が破れそうなほど大きくなるにつれて、ぼくと白河のるも思わず釣られて両手をあげてガッツポーズをする。その瞬間、聞き覚えのある声が背中越しにぼくらにも試合終了の合図を告げる。

「お前たち、右眼をどこにやった」

気付いたときには目の前は真っ暗で、目眩でくらくらとして起き上がることすらままならず現在自分がどこにいるのかも正確に把握出来なかった。

しばらくの間意識を取り戻すのが精一杯でようやく視界がぼんやりと浮かび上がってくると、白河稔が涎を垂らしながらアスファルトの地面に倒れているのを発見する。

「し、白河君! 大丈夫? 起きて! 死んじゃったりはしてないよね?」

ゆさゆさとひょろひょろの白河稔を揺らして起こしながら辺りを見回すとそこはさっきヤンキートリオに絡まれて、バラバラ死体が無残に転がっていた路地裏だった。

けれど、そこにはもう熱狂に包まれた地下空間に行く前の異様で異常な日常の向こう側は存在していなかった。

「ううう。なんでござるか、中沢のパンツは青かったデござるよ」

呑気なセリフの白河稔に思わず吹き出してしまったぼく。

さっきまで見ていたのは夢? 幻? けれどやはりワイシャツは赤黒く汚れていて左ポケットにいれた眼球はどこかに消え去っていた。

「大丈夫かい? とにかく、目眩が治ったら一旦ぼくらはうちに帰るとしよう、お互い記憶が整理できてから今夜のことは話しようよ、もうすっかり真っ暗だ、またヤンキーたちに囲まれたりしたら今度こそ有り金持っていかれちゃうよ」

白河稔に肩を貸しゆっくりと立ちあがりながらふらふらしている彼を支えて路地裏を抜け出す。

一瞬だけ街の人がぼくらに気付いて振り向き訝しげな目を向けるけれどすぐに元に戻り、夜の繁華街はいつも通り客引きや酔っ払いで溢れ返っていて、泥だらけの男子高校生には誰も見向きもしない。

「笑ってしまうぐらいに不思議な体験だけれど、小生、今日のことは夢だったとは決して思わんデござる。赤黒く変色した生首もぶよぶよの左手首も厳重なセキュリティのビルも、そこに拡がる地下闘技場も同級生の鮮やかすぎる青いパンツの色も、そして凍りつくような突然歓声を遮断した野太い声もすべて現実でござる。佐々木氏、どんなに疑っても小生がその証人でござるよ」

お互いの不安をかき消すようにして、白河稔はたどたどしい口調でぼくを勇気付ける、そうまぎれもない現実、あの声はたぶん階段ですれ違ったガードマンの声だ、右眼? そう、彼はおそらく路地裏のバラバラ死体を片付けに向かったんだろう。

いろんなことが同時に頭の中を駆け巡りまた脳味噌が悲鳴をあげている、なんとなく、本当になんとなくだけど、ふと芹沢さんの眼帯に縫い込まれたナナイロアシッドヤウスデウムシの刺繍が脳内に浮かび上がる。

「ここらでお別れかな、白河君。ストVの勝負はしばらくお預けとしておこう、また明日学校でね!」

駅近くのバス通りの反対車線へ渡る信号あたりでぼくは白河君稔にお別れを告げる、お互いとりあえず歩くのには問題がなさそうだ。

「そうでござるな! また明日、学校で。あんな話誰も信じることはないだろうけれど、とりあえず中沢のことは二人だけの秘密にしておくでござるよ!」

相変わらず出歯の気色の悪い笑顔で手を振ると白河稔はそのまま駅の方へとスタスタと歩いていく。

途中酔っ払いにぶつかられコテンと簡単に吹き飛ばされていたけど、特に問題はなさそうだ。

白河稔が無事起き上がり帰宅するのを確認すると同時に目の前の信号機が赤に変わり、反対側に渡ろうとする人々が脚を停める。

すっと冷たい違和感が襲いかかってくる。

その視線に気付いたのはきっと本当に偶然だったのだろう、ふと二十メートルほど先の向こう側をみると黒縁眼鏡の七三分けがじっとこちら側を見つめているのに気づく。

気のせいかと思ったけれど、確実にぼくに視線を合わせて目を離そうとしない。

信号が青に変わり、向こう側へ渡ろうと歩き始めても男はこちら側に向かいながらじっとぼくから目を離さず、そうして彼との距離がゆっくりと近付いてくると、彼はぼくのすぐ右側をすれ違う瞬間にとても冷静な低めの声でぼくにしか聴こえないようにして耳元で囁く。

「次、我々を見たら必ず突き落としますよ」

気づいた瞬間には首筋にはナイフとアイスピックが立てられて背中にはスタンガンのようなものを当てられていた。

一瞬で、ほんとうに一瞬で、何事もなかったかのように彼らは消えてしまったけれど、確かに冷たい男の声を合図にして僕を凍りついた殺意で取り囲みすぐに解き放つとあっという間に雑踏の中に溶け込みそれ以降姿を追うことはできなかった。

ぼくが開いた世界の扉はまだ目と鼻の先に存在していて確かにまだその中にいる、芹沢さんももしかしたらこの世界のどこかを歩いているのかもしれないとそんなとりとめもないことを考えながら都営バスに乗り込んで血だらけのワイシャツを見る奇異な視線に耐えるようにして家路に着いた。

そういえば机の上に筆箱と芹沢さんからもらった絆創膏を置き忘れたことに気付いて指先のカッターナイフの切り傷が少しだけ疼くのを感じて教室に一人でいる芹沢さんの姿を思い浮かべた。

バス停で声をかけた瞬間の芹沢さんの戸惑う顔が忘れられない。


*


放課後のもう誰もいなくなった夕焼けが落ちて暗くなり始めた教室の教壇の上に、生活指導担当の音楽教師から手渡された訃報のお知らせのプリントを日直の仕事として、芹沢美沙はまとめている。

音楽教師のピアノを聞こうと音楽室の前で本を読んでいたらすっかりこんな時間になってしまったことをとくに不満に感じることなく少しずつ陽の光が消えていく教室を後にする。

芹沢美沙は夜の学校が少しだけ好きかもしれないとそんなことを考えながら、手渡されたプリントの裏に書いた『アンリベルクソン 物質と記憶』に関する覚書をゆっくり反芻して呟く──イマージュの能動的な、いわば離心的な投射──

「ねぇ、あなたは、あなたたちはどうしてそんな風に自分達を投射してしまったのかしら」

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?