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15.Courage is knowing what not to fear.

二限の講義を終えたところで担当の萠木蘭助教授が話し掛けてくる。

「佐々木君。梅里さんの話は聞いているわ。もし力添えになれることがあればぜひ。」

「先生から話し掛けてくるなんて珍しいですね。イヤらしいことにしか興味ない先生だと思っていました」

「あら、先生は幅が広いことでも有名なの。研究の為なら選り好みはしないわ」

「お眼鏡に敵うかどうかはともかく梅里の件は今のところ大丈夫です。心遣いは嬉しいけれど自分の問題ですから」

「まるで先生を誘惑しているような発言よ。天然の年上キラーかしら。落ち着いたら食事でもしましょう」

「こちらこそぜひ。物質生命論を紐解くには実践と実験からですね。それはともかくアポトーシスの過剰活性って先生はお詳しいですか」

「あら、例の『白ギャル様』の件かしら。美肌目的で大方裏社会の人間から怪しい魔術薬剤を購入したんじゃないのかな。腸内洗浄をみっちりした後にたっぷり薬剤を飲み干すなんてプレイは専門的すぎるわね」

「先生はそんな所も専門なんですね。けど、じゃあやっぱりなんらかの魔術が絡まなければあり得ないと」

「けど、あなたが思っているよりずっと高等な魔術よ。固有エーテル持ちでもアミノ基を直接操作するなんてあまり聞いたことがないわ。私の研究室へ今度いらっしゃい。ゆっくり授業を行いましょう」

「どんな授業かは聞かないようにしておきます。個人授業だけは受けない方がよさそうですね」

あははとぼくは押しの強い『萠木蘭』助教授にたじろぎながらとりあえず糸口だけでも掴めたことに安堵する。

学食で乖次と待ち合わせをしている。

恋愛工学のプロブロガーは果たしてぼくにどんな扉を示してくれるのだろうか。

「タンパク質由来のアミノ酸を自由に制御。何処かで聞いた気がするわね。興味のない男の話はまるで記憶に残らないわ。悪い癖ね」

あんな騒ぎがあった後だというのに、学食には相変わらず大勢の人が集まっていて、ほとんどのテーブルが埋まっているけれど、ちょうど真ん中あたりで乖次が手を振って居場所を知らせている。

ぼくは列に並んでカウンターで麻婆唐揚げ定食を頼み受け取って乖次のいる席に向かう。

「何か余計なものに憑かれているような顔だな。お疲れ。左が『累文恵』、WebサイトDoppelgängerの管理人で、右が『刃霧氷雨』、多分見たことがあると思うが去年のミスキャンパス。二人とも心理学部で俺の高校時代の旧友だ。隣に座れよ」

相変わらず乖次の周りはぼくとは一段上のレベルだと思われる人間が集まってくる。

というより造形的にみても果たして同じ人間なのだろうか。

完成された形といってしまっていいものかどうかは分からないが、少なくとも『刃霧氷雨』という女性からは明らかにぼくと違う人種であるという自負が伝わってくる。

けれど、当然ながら内面も完成されているのだろう。

彼女からは嘲笑や傲慢といった負の感情があまり伝わってこない。

たぶん、人によってはそれを欺瞞だと捉えてしまうのかもしれない。

「こんにちわ。佐々木和人です。物質生命学科三年で『現代視覚研究部』で乖次と一緒に活動しています」

伝える言葉がないというよりも自分が理解出来ているようなことは何もかも見えているような気がして、つい形式めいた言葉で格式めいた挨拶をしてしまう。

「うふ。まるで宇宙人を見るような話し方。たぶん、私も君と同じように臆病で人との距離の取り方がわからない普通の人間よ。美人は人間じゃないって思っているんでしょ」

ぼくの心を見透かしたように話すので少したじろいでしまう。

けれど、考えてみれば当たり前だなって三秒考えて態度を改める。

勇気を出してくれたことに対して誠実に対応する。

「うわ。確かに。普通に接すればいいのだけどぼくとは違うってどうしても先入観を作ってしまうね。けど、まあ、大きな意味でやっぱり君とぼくは違う環境を生きている。それは間違いないよ」

見下されたくないという思いからちょっとだけ強気になりすぎるぼくを宥めるように『累文恵』が合いの手をいれる。

「おっとー。喧嘩はそこまで。ブサイク対美人の仁義なき戦いは学祭にでもとっておこう。けれど、佐々木君。君が卑屈になるのはおかしいな。それは権威主義だよ!」

乖次が呆れたように溜息を漏らして累をちょっとだけ戒めようとする。

「『メンタルバーナー』。そうやってお前は昔から火種を落として人の嫌な面を覗こうとする。何にでもネタにしようとする殊勝な心掛けなら今は抑えてくれるか」

「うわ。でた。別れた後もお前は私が言うことを聞くと思っているんでしょ。ねえ、賢さってなんだと思う?」

ぼくは麻婆唐揚げ定食をスプーンで掬い口にする。『刃霧氷雨』がカレーライスを厚くてエロティックな唇に運んでスプーンで口の中に運ぶ。

ミスキャンパスというだけあって一挙手一投足がすべての美人の行動だと言わざるを得ない。

さぞかし小さな頃から見た目を褒められ続けてきたのだろう。

「ぼくは臨機応変さを十二分に活かす経験と知識だと思っています」

『刃霧氷雨』が完璧な仕草を乱してコップの水を呑み、ごくりと音を立てる。

「君は調和というものを無視しているんでしょ。多分今は文恵と乖次君がコミュニケーションを取っている」

「和人は分かっているから大丈夫だ。『現代視覚研究部』は、まぁ、そういうところなんだよ」

「まあ、それなら私たちも同じ。距離を取り合っている。乖次とはそれなりの時間があるけど、彼とは初めて。私たちは彼のように見た目で判断はしたくないなぁって思って」

とても難しい話を『累文恵』は話し出す。

けれど、『メンタルバーナー』にとっては些細なとっかかりもネタに繋がるんだろうか。

というより明らかに揶揄われているんだろうという認識を逆に利用してみるが、さすがプロブロガーとミスキャンパス。

ぼくの攻撃などまったく通じずに簡単にいなされてしまう。

乖次がまるで理解不能な生き物に見えてきてしまう。

「おそらく今お前が思っている通りだ。けれど、人間関係は常に自分が属する集団の一般的価値観に基づいてコミュニケーションが行われる。そういう意味でこれは洗礼みたいなものだと考えてくれれば話は早い」

簡単にいえば、住む世界が違うんだと言いたいのだろうか。

とはいえ、ぼくはこの三日間ほどでぼくを巻き込んでいる異常事態に関してもう少し具体的に現状を把握する必要がある。

「まあ、そうだね。じゃあぼくも変に噛みつくのは辞めるよ。聞きたいのは『白ギャル様』のことと用務員についての記事だ。ぼくらが調べた限り、先日の学生棟の件は過剰なアポトーシス反応だと思う。少なくとも人為的には不可能に近い」

『刃霧氷雨』が俯きながらコーヒーを呑み、『累文恵』が身を乗り出してぼくの用件について意見を述べる。

「あらら。なんだか小難しい言葉を並べたら女の子の気が引けると思ってるタイプかな。そういう男の子の為には彼女は頑張らなかっただろうなぁ」

『累文恵』は今日アップロードしたばかりの記事を見せてくる。

──美肌願望に要注意! 低価格美容グッズの甘い罠! ──

と題されたブログ記事には学生棟に貼られた立入禁止のテープと血痕がついた中庭の風景が写真として貼られていて、美顔マスクが剥がされて顔の皮膚が三ミリほど壊死した後に神経組織が剥き出しになっていく様子のイラストが添えられて、クロコダイル? 新種の麻薬?! と恐怖を煽るような謳い文句とともに無闇矢鱈に安い化粧品に手を出さないようにと締め括られている。

高級化粧品のバナーが貼られて購買意欲を誘導しているあたりにプロブロガーとしての意識の高さが垣間見える。

「さすがは人気ブロガー。情報を手に入れるのが早いな。なぁ、お前は例の用務員がどうなったかは知っているのか」

「うげっ。あの呪いの血文字を残した陰湿野郎。おおかたどっかの闇サイトで人を呪う魔術でも調べたと思っているんだけど」

「頭蓋骨に奇妙な呪印を残してでもあなたに復讐をしたかったって事ですか?」

「なにそれ? あの爺さん、死んじゃったの?」

「それはまだ分からない。けど、お前が言っている呪いの血文字と同じ呪印の施された白骨死体なら知っている」

バンと学食のテーブルを叩いた『累文恵』が『刃霧氷雨』と顔を見合わせて驚いている。

「ねえ、それって本当? だったら私たち思い当たる節があるんだけど。この記事みて」

──二〇一二年度ミスキャンパスに魔の手? 迫り来るストーカーの脅威! ──

と題された記事には非通知からの着信件数が三十件を越す画像が貼られて窓に映る白い影など不可思議な現象に襲われて体重が五キロ減る『刃霧氷雨』の自撮り画像などが並べられている。

「これさ、私たちは本当に用務員の爺の仕業かと思っていたんだよ。けど、流石に証拠もないのにあれこれ書けないしさ。でも、呪印って? まさか藁人形に釘打つやつが実在するとか?」 

「ぼくらも確信がある訳じゃない。けど、実際に被害のようなものが出ているのなら確実かな。ちょっと変わった魔術が使われている」

「なに? 魔術って? あの手から炎だしたりピアノの音がちょっと良く聞こえたりする例のあれ? あんなやつらなんかの役に立つの?」

「難しいことはお前に話しても仕方がない。事実は事実だしな。ただ、問題はもう少し複雑なんだ」

「こわっ! あいつらって基本ネクラでしょ。同じ人間なんだし、優性人種なんとか関係ないじゃんって思うんだけどさ。なに、そんな気持ち悪いヤツらが実在するんだ?」

『累文恵』は当たり構わず差別的な発言を容赦なく話し出す。

とはいえ、偏見とはいえネクラなやつもぼくらと同じくらいに多いのは確かだ。

ぼくはついポケットに手を突っ込み俯きながらあまり好きではない奴の名前を独り言をいう。

「まぁ九条院みたいなやつは確かに少ないな」

『メンタルバーナー』、『累文恵』の目がキラキラと星形に光出す。

まるで何かの魔法にかかったみたいだ。

「え? なに? 『九条院大河』君のこと知ってるの? あ! そうだね、確か彼もあーなんだった、そう、エーテル持ち! あーいう人なら私も仲良くなりたいなー」

「文恵はこの前の合コンでまったく相手にされなかったんでしょ。医学部首席の超絶エリート。私は彼の取り巻きの眼鏡君がいいなー」

「そ。E2-E4だっけか。少女漫画かよ! って思わず突っ込みそうになったけど確かにイケメン揃い。彼らは呪いとかシチめんどくさいことしなそうじゃん」

『七星学園』二〇一〇年度卒の事実上のトップであった『九条院大河』の名はどうやらこんなことにも知られている。

チルドレ☆ンへ選抜されたのは能力的な問題から『リヴァイアサンのエーテル』水色忌憚だったけれど、名実と共に最高成績を収めていたのは明らかに『九条院大河』だった。

例え、エーテルのほとんどを西野ひかりに奪われてしまったのだとしても。彼はそのまま仲間達と通常の進学コースを選んでいる。

どうやら彼らは卒業後も女子達の注目の的であり続けているらしい。

「まあ。一応同じ高校だしね。確かにあいつは普通科に進学するような中途半端な回路持ちとは違ってた」

「そー。彼は在学中に起業して大成功! 卒業後は超絶お金持ち路線まっしぐら。そのままお医者さんになってもいいのにダヨ。敬うわー。もーかっこよすぎ!」

「私はあそこまで行くと嫌味に見えるけどなぁ。なんだろ、あの普通の人たちがゴミに見えてる感。彼から言わせればだいたいカス。女子として複雑。本当に」

女子達が他校のエリートの話で盛り上がっている様子を乖次はゆっくりと観察している。

この空気に押し流されずに自分を保っているのは流石としか言いようがない。

目的を見失わずに淡々と彼女たちに質問をする。

「それじゃあ具体的な心当たりはお前達にもないんだな。ちなみに一年前のストーカー騒ぎの時が『白ギャル様』っていうのは初めてなのか」

『累文恵』がわざとらしくテンションをあげて話の主導権を握ろうとしていたことに気付かれて嫌悪感を露わにして舌打ちをする。

「あーあれね。けっこうさ、私の読者の間じゃ流行っててさ。合コンとかで話題になるんだよ。他の学校でもチラホラ。なに? それも魔術なんとか?」

「科学的な実験だとしたら結構な金額と時間がかかりそうなんだ。突発的なものと考えるとそういう原因を疑わざるを得ない」

「へー。君はそういうのに詳しいんだ。オカルト? っていうのかな。私のサイトもそういうの取り入れたらもっとPV稼げるかな。今度詳しく教えてよ」

モテない男子への対応を知ってか知らずか、『累文恵』は簡単に好意的な印象の言葉を並べてくる。

「うーん。用務員の気持ちが少しわかったよ。そうやって小さく歪みを入れてくるんだ。積み重なると確かに自分の気持ちが分からなくなる」

「多いに勘違いをするんだ。青少年! それが恋だよ、恋。もっと素直に心開いてよ」

「お前みたいなやつに突っ込んで痛い思いをさせられるのはぼくらの日常だからな」

「あれ。そうか。なら、大丈夫。私も気をつけるよ。時間だけはみんなに平等」

とんとんとんとさりげなく指先で机を叩いているのは『刃霧氷雨』で、ぼくと『累文恵』の会話に割って入るようにして少しだけ真顔になり規則的なリズムを刻んでいる。

「ねえ、そういえば試供品とかいって文恵はあの化粧品受け取ってなかったっけ。私はそんなの怖くて使えないけどさ」

『刃霧氷雨』は文恵のヴィトンのバックを指差して少しだけ高めのトーンで話をする。

机を叩いていた指先で少しだけ濡れてみえる唇に触れていてエロティックに感じる。

「あーそういえば貰うだけ貰ったね。池袋でだっけか。鞄の中に確か私もしまってあるよ。まーさすがに地肌に塗る気にはならんよねぇ」

『累文恵』が鞄の中から取り出したのは『eve』と筆記体で書かれた円形の黒と白のプラスチックケースだった。

「あーソレソレ。というかそんなの普通使う? 本当になに入ってるかわかんないじゃん」

ふふと笑いながら文恵が一緒にバッグに入っていた宣材用のチラシを取り出して机の上に拡げる。

「ほら。これみてみてよ。私も参考にしたくてつい取ってあるんだけど煽り文句がうまいのなんのって。なんだ、こいつは女子の鏡か! みたいな広告ばかりなんだよ。これならあの辺にいる田舎もんならコロッと使うんじゃない? んで、倍高い商品をネットで注文と。いやーちょろいねー」

『累文恵』がプラスチックケースをパカッと蓋を開けて中の真っ白なクリームに『刃霧氷雨』が指先で触れようとした瞬間に誰かが立ち止まり、中年の男性の野太く低い声が頭の上あたりからする。

「師元君か。どうだね、例の件は考えてくれたかな」

声に気付いて見上げると眼鏡をかけた七三分けの五十代の男性が樫の木製の杖をついて立っていて乖次に向かって話し掛けてくる。

「八神教授ですか。珍しいですね。こんな煩いところに脚を運ぶなんて。どういう風の吹き回しですか」

「例の柵君からの誘いでね。昼食に誘ったら母親からのきついいいつけであまり人に奢ってもらうのをよしとしないそうだ。馬鹿げてる、バレはしないと言ったんだが今日のところは私が折れてね。彼のお財布事情に合わせてこんなところまでというわけさ」

哲学科の『八神桐』教授といえば、確か梨園が通っていたゼミの担当教授。

当然ながら乖次のことも知っているというわけか。

『八神桐』教授が杖で指した先には前髪を下ろして細身の性別の曖昧なほどフェティッシュな学生が胸に十字架のチョーカーをかけ両手をテーブルの上で組み宙を見つめている。

少しだけ人がはけ始めた学食とはいえまだ談笑している学生も沢山いるにも関わらず何故か彼のテーブルの周りだけ人が座っていない。

「文化祭が終わってからでもよければまた研究室にお邪魔させて頂きます。『爆発する知性プロジェクト』、あまりいい噂は聞きませんね」

「代わりの効かないものを作る悲劇を君はいくつ知っているかな」

表情が一瞬だけ曇らせると、『八神桐』教授は曖昧な挨拶をして十字架のチョーカーをつけた学生のほうへカツカツと杖をつきながら歩いていく。

「うわ。あいつ知ってる。神学科の『柵九郎』じゃん。家が教会だから超絶おぼっちゃま。なんで学食なんか来てるの。何不自由ない生活してるってあいつのセフレだった子から聞いたことあるよ」

「確か乖次君は今も成績優秀な哲学科のエリートさんでしょ。亡くなった彼女さんも」

──ばかっ──と『累文恵』がつい口を滑らせた『刃霧氷雨』を戒める。

一ヶ月前のこととはいえ、さすがに彼女たちが知らない話題ではなさそうだ。

「なのに、なぜ神学科の生徒と親しくする教授から誘いを受けているのかということか。神の発明は人類の最初の哲学的命題といっていい。少なくとも梨園が参加していたゼミはもう少し複合的な学者たちの参加するプロジェクトだったはずだ。学外からの参加者も多い。あの教授はそれぐらいに各方面に力を持っているんだ」

『累文恵』がじっーと乖次の表情を覗き込んでいる。

ぼくでは伺いしれない部分が彼女には見えているのかもしれない。

「ねえ、教えて。梨園さんの自殺の要因はわかっているの?」

聞きにくい質問を『刃霧氷雨』が『累文恵』を庇うようにして突っ込んでくる。

乖次は立ち上がり、ぼくの肩を叩き学食を離れようとする。

「簡単に答えるのならば、生に飽きたんだろうな。和人、行こう。俺は午前で授業は切り上げる」

「うわ。自分勝手。なんにも変わってない。わかりました、私は用無しですぅ」

今度は逆に『累文恵』が『刃霧氷雨』に頭を叩かれている。

最後の最後に『累文恵』の本音が聞けたような気がするが、乖次は深く関わろうとする気はないようだ。

乖次は『八神桐』教授と『柵九郎』とかいう学生が座っている出口の方へ歩き出すのでぼくは後ろをついていく。

『八神桐』教授の真向かいに座っていた『柵九郎』がじっとりとした目つきでぼくのほうを睨んでいて何か言葉を発してきたけれど、声にならない声のせいかなんと言ったのかはわからなかった。

後ろの方で『累文恵』が少しだけ大きな声で僕らの方に向かって声をあげている。

「私だってな! 努力してるんだ! お前が思うよりずっと! わかってないんだ、そういういつもへこたれそうな私の気持ちを!」

ざわついていた学食が一瞬だけ静まり返る。

ぼくは振り返ろうと思ったけれど後ろを見るのは辞めてまっすぐ前に進む乖次の後ろをついていく。

学食を出ると、ぼくは午後にも一コマ授業が残っているので乖次は十一号学舎を出たところで待っていたルルと一緒に学生棟へ向かい、ぼくは三号学舎へと向かう。

実験室での授業には物質生命学科の友人である『灰谷幸雄』が太った身体に笑顔でぼくを出迎えてきて出来るだけ当たり障りのない会話をしようとする。

この授業では桃枝も一緒だったせいか周りの生徒はぼくにとても気を使いながら顔色を伺っている。きっとのうのうと休みもせず授業に出ているぼくを訝しんでいるのかもしれない。

ジャズ研の『灰谷幸雄』はぼくに向かって文化祭で出す予定の『八門遁甲2』というゲームを題材にした研究発表について白々しく語っていて彼なりの気遣いを誠実にしているようだ。

ぼくは彼のロボット楽器とゲームの融合に関する話を制作中に出来た彼の身体中に出来た痣を見せながらする説明を右耳で聞き流しながら窓の外を眺めると正門付近にリュックを背負った女の人と黒猫がいるのを発見する。

どうやら学校の中を覗いているようだけど、中に入る様子はない。

「先生。この場所ですか。瘴気のようなものが噴き出ているのは」

「そう。こちらに来て君がする最初の仕事だ。断裂した空間を縫い合わせる。マジックテープをハリソンの中に入れておいたよ」

「うっかり道に迷う人が現れてしまうのですね。むーん。この宇宙は世知辛いです」

「あはは。猫が人の言葉を喋るのに戸惑わないのは君ぐらいのものだ。それにしても宇宙マタタビは遊楽堂のマタタビに勝るとも劣らないね」

「先生は珍しくおしゃべりです。私は一人ぼっちでも平気なのですよ」

しばらく正門の前で立ち尽くした後、唐突に動き出し学校の中に入ってきた。

女の人はサメ型のリュックを背負っていて黒猫は優雅にまるで彼女を導くようにして学内に侵入すると窓ガラスから死角になるところまで進んでぼくからは見えなくなってしまった。

「大丈夫? なんだかものすごく疲れた顔をしているね。仕事のし過ぎなんじゃないのかな」

骨董通りにあるオープンテラスのカフェテリアで黒い眼帯をした芹沢美沙はアイスコーヒーを呑んでいる。

彼女の目の前には青いストライプのスーツを着た男がとても誠実そうな笑顔を浮かべて彼女の様子を伺っている。

「貴方に初めて貰ったプレゼントの一眼レフカメラにリコール対象のパーツが混ざり込んでいたの。だから今修理に出していて代替え機を使っている。だからだと思う」

「そうなんだ。けど、問題はそれだけじゃなさそうだね」

「高校生の時、自分で選んだカメラを使おうと思ったけれどプロの仕事で使うには物足りない性能で、とても良いカメラなのに上手く使ってあげることが出来ない」

芹沢美沙の後ろには竜胆の花が路地とテラスを分ける植栽に掛けられた花壇に植えられていて、少しだけ肌寒い風に小さく揺れている。

「五年前に初めて君と出会った時に君にはまだ迷いが残っていた。今はまるでどこかに預けられてしまったように消えてなくなっている」

一眼レフカメラのレンズをくるくると回しながら芹沢美沙は少しだけ不満げにテーブルに置かれたままのアイスコーヒーのストローに口をつけて喉を潤す。

「ねえ、少し休みたい。こんなお願いはしちゃダメかな」

笑顔を辞めて真剣な顔つきになる男は一眼レフカメラのレンズに触れる彼女の左手に右手を添える。

「時計を気にしないのであればぼくは問題ない。あいにく今日はお互いに休みで時間はたっぷりある」

ふぅーとゆっくり息を吐き、芹沢美沙は一眼レフカメラをカメラバッグの中にしまう。

お互いにほんの少しだけアイスコーヒーが残っていて氷は気温のせいか溶けずにほとんどが残っている。

「ありがとう。少しだけ誰かを気にせず目を閉じたいの」

ぼくはアルコールランプで熱せられフラスコの中で煮沸される有機溶剤の音に耳を澄ませて目を閉じる。

微かな音の変化が鼓膜に届くたびにぼくは記憶の奥底にある思い出を喚起されてイメージが幾重にも浮かびあがる。

悪い記憶と良い記憶が交互に再生されていつのまにか目を閉じていることすら忘れそうになってしまう。

「佐々木君! 大丈夫? 液体がほとんど残ってないよ。これじゃあもう一度やり直しだ。ぼくも手伝おうか」

白衣を着た『灰谷幸雄』がぼくを揺すって光を届けにやってくる。

目の前のフラスコには一メートルほど残っていた液体が熱せられて気化してしまうとガラス容器には空っぽになってしまう。

「大丈夫。ねぇ、アルカロイド系化合物作りたいんだけどどう。あの教授なら目を盗んでいけると思う」

『灰谷幸雄』とは逆隣に立って実験を行なっていた『石川忠志』がおっーとは感心しながら笑顔になってぼくを指差している。

「気を遣い過ぎる必要はなかったな。それだけ元気があれば大丈夫か。バッドトリップへ誘うのはシャクティとして頂けない。さすがにしばらくは自重しろよ」

ぼくは石川の軽口を笑い飛ばして実験の続きに取り掛かる。

他の学生たちもぼくを気にかける様子がなくなっていてみんな真剣に実験を進めている。

「残念。また深淵なるマトリクスの向こう側に行きたくなった時は手伝ってくれよ。ありがとう、石川」

つつがなく授業を終えてぼくは三号学舎をでて中庭方面へ向かう。

中央付近で白髪頭の姫カットをした哲学科の名物教授『福山傘』教授が胡座をかいて座りこみ、周りに学生たちが集まって談笑している。

確か、彼の生命倫理哲学論文は一級品のユーモアを抱えた素晴らしいものだったと乖次が熱弁していたのを思い出す。

「宇野君は卒業後の進路はきまっているのかい。良かったら院に進む気はないかい。君には哲学に最も不要なペシミズムがない。とても素晴らしい」

「いいえ、先生。私は選ばれてしまうんです。哲学的に明確な正解が必ず私を迎えにやって来ます。誘惑しようとしてもそうはいきません」

黒く長い髪で白い花柄のブラウスとデニムのワンピースを着た女の子がとても素直な笑顔を浮かべてそんな話をしている。

彼女の傍にはGibsonのアコースティックギターが寝転んでいて奇妙な形の一つ目の生物の生き物のぬいぐるみが乗っかっている。

ぼくはそのまま中庭を通り抜けて学生棟へ向かう。

出来たら今すぐにでも頭の中を覆っている暗闇を取り払うために原因を見つけ出したいと考えているけれど、今は乖次の案に乗ることしか出来ないのだとぼくは自分の無力さを痛感しながらも脚が止まってしまう前に動き続けようと考える。

もし、誰かの悪意がぼくに追いつこうとしているのならば、それよりもずっと速い速度で動き続けることしか出来ないんだって何故か黒髪の女子学生のアコースティックギターに乗っていた不思議な生物をみてそう考える。

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