見出し画像

01.If you can dream it, you can do it.

ゴーンゴーンゴーンゴーン。

黄金のキリスト像が血の涙を流しながら、天井から吊り下げられた麻縄からぶら下がる一個の非存在と成り果ててしまった白いワンピースの汚れ一つないドレスを着た女性を見つめている。

鬱血した紫色の顔は醜く爛れていて、窒息によって充血した眼球が飛び出たまま地面を見つめ、自らの糞便が垂れ流されて淫らに汚れきった赤い絨毯にあった聖性が自身と切り離されてしまったことをまるで嘆いているようで、第一発見者である教会の神父は思わず彼女の死体を前にして胸の前で十字を切り、祈りを捧げてしまった。

曰く──私がもし完全性に辿り着くことの出来た人間であったならば、迷わず口づけをかわして永遠を誓おうとしていたでしょう、そのぐらいに罪と穢れによって全身を覆われた彼女の死体はあまりにも美しかったと──

「梨園が? なんデだよ! 何かの間違いだろ?」

「いや、どうやら間違いでないでござる。今、乖次が教会に駆けつけた警官から事情聴取をうけているらしいでござる。あり得ないと小生も何度も沙耶に確認したでござるよ」

ぼくはまた『アースガルズ』のタチの悪すぎる冗談を狐の獣人である白河君が手伝っているのかと思い、しっかりと狐の顔をした白河君のつぶらな瞳を覗きこんでみるけれど、高校の時から彼は少しも変わらず簡単に嘘がバレテしまう彼の真っ直ぐ過ぎる性格から出てくるような話ではないと理解して思わず本当にどう反応していいかわからない作り話をするなと言いたくて彼のふさふさの毛が生えた身体を覆う襟に白いラインの入ったフレッドペリーの黒いロングのポロシャツを着た大きな肩を掴んでいる両手を離して力を抜く。

彼の言葉が現実なんだと理解してゆっくり身体に酷い毒素を受け入れるようにしていつもと同じように彼を通じて自分自身を取り戻す。

「冗談じゃないってことか。君がぼくに向かってそんな嘘をつく訳がないんだ。でも、だからといってなんで梨園が自殺なんかをするんだ」

「わかっているデござる。第一発見者は教会の神父、乖次はちょうど五限が終わった直後に教会の聖堂で待ち合わせをしようと言われていたはずだと沙耶殿がいっていたでござる」

ぼくは頭を抱えて思い悩む。両手で抱え込んだ空っぽで何一つ入っていない硬くてどうにもならないちっぽけな頭蓋骨をもう三日も洗っていない髪の毛ごとにがっしりと掴んでがりがりと掻き毟る。分からないことが多すぎていっぺんに何一つ処理できないオーバークロックした脳味噌で状況を整理しようとする。

「おい。和人。黙ってみていたら調子に乗りやがって。頭がパンクしそうなのはお前だけだと思っているんだ。狐もあの貧乳野郎だってお前以上に狂ってしまいたくて校舎の窓ガラスでも割ってまわりたい気分なんだよ。お前は一番大切なことを忘れているんじゃないのか」

白河君くんの毛むくじゃらの胸元からひょいと上半身を飛び出させる超合金製のフィギュア、超神合体『アースガルズ』の百分の一スケールの主人公ロボがぼくに話し掛けてくる。メタリックな金属製の玩具みたいな身体を動かしながら相変わらず大袈裟な身振り手振りで言いたいことを好きなだけ言うとやれやれと力を抜いて目からビーム光線を発射する。

「やめろよ、眩しい。何をするんだ、『アースガルズ』。こんな時に悪ふざけなんていい加減にしろよ!」

白河君のむさ苦しそうな胸元で悪態をついている赤い金属の身体のロボットに飛びかかろうとすると、彼はふいっとまたしても白河君の身体の中に潜り込んでしまい、ぼくはそのまま勢いよく金色の毛を隠すように着ている白河君の黒いポロシャツの胸元へ飛び込んでしまう。

「おっと。和人氏はいつもと同じで大丈夫でござるよ。一人で勝手に考えて一人で勝手に結論を出す。我侭かもしれないけれど、小生はそういう和人氏の選択がとても好きでござる」

「なんだよ、ぼくはそういうやつか。けど、確かに『アースガルズ』の言う通りだ。白河君、乖次の元へ連れて行ってくれ。沙耶だけに任せておくわけにはいかない、そんな気がする」

ぼくは思わず飛び込んでしまった二メートル近い巨漢の白河君の胸元から離れ、悩むのを辞めて受け入れ難い事件の発生した教会へと向かう。

教会は大学の敷地を出てすぐの場所にあるけれど、毎日決まった時間に鳴らされる鐘の音と共にこの大学の象徴的存在として学生だけではなく、周辺に住んでいる人々にとってはとても大切なシンボルになっている。

そして、もし本当に、とこんな言い方は確かにおかしいかもしれないけれど、梨園が、あの戦争装置の必要性を訴え続けた平和主義者である田上梨園が、自殺という安易で簡単な答えを選んでしまう場所があるのだとしたら、この大学に隣接した聖イグナシオ教会でしかあり得ないのだということもぼくはなんとなく過る嫌な予感と供に受け入れ始めた。

けれど、師元乖次という利己主義の塊であるような男は、ぼくのもう一人の親友は彼女の答えをそんな簡単に受け入れることが出来るだろうか。

「ありがとう。私一人じゃどう慰めていいのか、というよりどういう風に対応してあげればいいのか分からなかったんだ。君なら彼の今の状態を理解できるのかもしれない」

教会の前には立入禁止の為の黄色と黒のテープが貼られ五台ほど止まっているパトカーと緊急搬送用の救急車が止まり、白と赤の車体のバックドアのガラス窓の向こう側には救急隊員と学内の教授と思しき人間が座り発車する寸前で待ち構えていて、ぼくに長年溜め込んだ悩み事を打ち明けるようにして近づいてきた三島沙耶がイグナシオ教会聖堂を指差しながらぼくの胸元に飛び込んで泣きじゃくる。

多分今この瞬間まで溢れ出てしまいそうな感情の暴走を必死で抑えていたのだろうということが痛いほどよく伝わり、ぼくは彼女の肩にそっと手をやり思う存分涙を流すようにと背中をさする。

「乖次は救急車には乗らなかったのか。とは言っても治療も何もないなら彼がついていく必要は確かにないし、乖次らしい冷静な判断だけど、けど、せめてこんな時ぐらいはって俺でも思ってしまうな」

声を裏返らせるように泣きじゃくりながらなんとか目の前で起きていたことを少しずつ受け入れるようにして三島沙耶はぼくの肩に手を起き、いつものように気丈な態度を取り戻そうと深呼吸をしながら顔を上げて涙声のままキリスト像の目の前で一歩も動けずに立ち尽くしている現代視覚研究サークルのメンバーの一人である師元乖次の様子を伝えようとする。

「ううん。多分今回はちょっと違う。彼は君が来るまで必死に梨園の傍から離れようとしなかったんだ。救急隊員や警官や、八神先生のいうことですら全く聞く様子もなくて、手を握ったまま離れようとしなくて、けど、それじゃあ梨園の遺体を壊してしまう、このまま綺麗な身体で見送ってあげようって私が伝えたら、わかったって」

沙耶が泣いたのを見たのはいつ以来だろうって思い出したら、多分四年前の高校生の時の文化祭の夜のことだったんじゃないだろうかってふと記憶の中にしまい込んでいた傷痕みたいなものが映画みたいに頭の中で再生される。

ずっと一緒にいたはずの沙耶はいつでも涙みたいなものとは無縁でぼくには全く弱気なんてものは見せることがなかった。

だから少しだけ真っ赤に腫らした両眼を見てこんな場所でこんな時には似付かわしくない不謹慎な気持ちにほだされそうになり、両手に力を込めて少しだけ突き放す。

「そうか。じゃあ乖次はまだ中にいるんだな。ぼくが代わりにあいつと話すよ。白河くん、沙耶に付き添ってあげてくれ」

ぼくはまた涙が溢れ出ししゃくりかえったままボロボロと泣き崩れてしまった三島沙耶を狐姿の獣人の白河君に預けて十名ほどの警官たちが立入禁止のテープの前で教会に押し寄せて中を覗こうとする学内の生徒や四ツ谷駅周辺の住民たちの交通整理の隙をつくようにして教会の中から一切出てこようとしない師元乖次の元へと向かおうとする。

「こら。だめだよ、中に入っちゃ。今も一人生徒さんが中にいるけど何度言ってもいうことを聞かなくて困ってるんだ」

「わかっています。それはぼくの友人で、運ばれた遺体の知人なんです。ぼくがなんとか説得してみますから中に入れてもらうことは出来ませんか?」

「そういうことか。なら、お願い出来るかな。すまないが、自殺現場はとても汚れる。臭いもだいぶ酷いけれど、現場検証のために作業員も何人か内部に入り込んでいる。早めに連れ出してくれると我々も助かるんだ」

目の前に立ち尽くしていた五十代の白髪の警官が制服に備え付けられたトランシーバーでどこかに連絡を取り、ぼくの入場を許可する為の通信をしている。

後ろを振り返ると沙耶を慰めるように白河君がしゃがみ込んで仕切りに何かを話し掛けている。

しばらくすると、学校の方から金色のショートヘアと黒いVカットのTシャツとブラックジーンズに黒いキャンバス地のオールスターを履いて佐知川ルルが走り寄ってきて真っ直ぐに三島沙耶のもとに駆けつける。

佐知川ルルに気づいた三島沙耶が立ち上がって思わず彼女の胸に飛び込んで安心感からかさっきより一段と大きな声で泣きじゃくる。

ぼくが頼りがいのある友人の登場に少しだけ安心した表情に戻るのを見計らったように目の前の初老の警官がぼくを立入禁止テープが貼られた教会内部へと案内をする。

「ありがとうございます。すぐに連れ出します。彼もきっとまだ現状を受け止め切れていないだけなんだと思います」

教会の敷地内に入ると、すぐ左手の塔にはトレードマークの大きな鐘があり、右手前方には大きな建物が見え、敷地内にでも何人か警官たちが動き回り、どこかと無線で連絡を取り合っている。

中に入ってきたぼくをみて警戒心を強めたけれど、すでに連絡が行き届いているのか右手前方の教会へと案内するように指示をする。

駆け足で急ぐように木製の扉の入り口へと駆けつけて勢いよく扉を開け放つと、中から漂ってきた異臭に思わずぼくは鼻と口を塞ぐ。

天窓と前方の大きなガラス窓から入り込む太陽の光に目が眩んで一瞬だけ赤いカーペットの上で立ち尽くす人の姿をまるで地上に降臨し堕天した神の使者と見間違えるけれど、それがすぐに友人である師元乖次の姿だと理解する。

天井からは麻縄が吊り下げられていて取り外されることがないままポッカリと空いた円の向こう側へと何かを誘うようにして光に照らされたままふらふらと無重力に揺れている。

どうやら異臭の正体は、麻縄の真下にぶち撒かれた体液でそのすぐ目の前で師元乖次はただ黄金色のキリスト像に怒りを捧げるようにして立ち尽くしている。

簡単に話しかけることすら出来ないほどの希薄に包まれた師元乖次には中で現場検証を行おうと待機している検視員たちも手をこまねいているのか木製の椅子の脇で何か相談をしながら彼をしばらく見守ることしかできないのだと諦めた様子で集まっている。

ぼくの姿に気づいた検視員たちが手招きをして軽く頭を下げて、無線で連絡が言っている通りの行動を促そうとする。

左手で口元を抑えるのはなんだか気がひけるような気がして手を顔から離して、彼と同じように何もかも受け入れてしまおうとゆっくりと近づいて工学的な残響音が静かに拡がる教会内部に自分の脚音を大袈裟に立てて全てを受け入れた途端に現れた異様に神聖な雰囲気を穢さないようにしながら立ち尽くしている乖次の背中越しに肩を叩く。

「和人か。俺が駆けつけた時には梨園はこの場所で空でも飛ぶようにして天井からぶら下がっていて、いつも笑っていたあいつの顔が紫色に膨れ上がって全身から血液と体液が噴き出て酷い臭い自体にあいつの言っていたこと全てを置き換えるようにして撒き散らしていた。悪い冗談でもなんでもなく昨日まで、いやさっきまで生きていた梨園が俺の目の前でただの肉の塊に変わっていたんだ」

乖次は後ろを振り返ろうともしないままぼくのことに気付いて自分が見た光景をぼくの脳に移し替えるようにして低く鈍い声がボソボソと話し始める。

生気のようなものが梨園の体液と一緒に抜き取られてしまったのか次の行動が完全に遮断されてしまったように、それ以上は見えない壁のようなものに阻まれてしまい前に進むことができなくなってしまったかのように、身体一つ動かそうとしない。

彼の声も教会に反響した何かの物音が跳ね返ってぼくの鼓膜に届いたように存在感を感じられない。

「とにかくまずはここから出よう、乖次。このままここで立ち尽くしていたってキリストが願い事を叶えてくれる訳じゃない。俺たちが十字架に祈りを捧げている場合じゃないのはお前だってわかっているはずだろう」

かける言葉が見当たらずわざと意図的に彼の心を刺激するようにして異様な緊張感に包まれた教会から少しでも早く抜け出そうと催促する。張り詰めた糸が途切れてしまえば、もしかしたら目の前にいる黒い長髪の男は発狂して暴れだし何もかも壊してしまうのかもしれないと作業員たちも迂闊に近寄ることが出来ず、危うくぼくですらそうやって彼のことを誤解してしまいそうになる。

けれど、近づいてみればみるほど、彼は恐ろしいほどに冷静に状況を分析し続けていて、これから起こることと今まで起きたことを頭の中で組みあげていきながら多分閉じ込められてしまった透明な箱から必死で抜け出そうと思考を重ねているんだとぼくは気付く。

けれど、たぶんこんな時にそんなことを、日常の自分へ舞い戻ろうなんてことをすれば、彼の中で、今、実際に蠢いている発狂しかねない感情の束を制御し切れずに二度と元へは戻って来られないんじゃないだろうかという不安に襲われ、迷わず彼の左手を掴み、おそらく田上梨園の死が固定されたまま癒着してしまった場所から無理矢理引き剥がすようにして彼の手を握り凍りつくような冷たい体温に動揺しながらも木製の扉の入り口の方へ向かう。

乖次はゆらゆらと脚元をふらつかせながらもぼくの強引な行動に連れられて後ろを黙って何も言わず俯いたままついて来る。

途中、現場検証のために入ってきた作業員が何か声をかけようとしていたり、お礼を言おうとしているような気がしたが、ぼくは一秒でも早くその場所から抜け出さなければ彼が壊れてしまいそうで、ずるずると乖次の手を引っ張りながら教会の外のまだ陽が落ちる前の暑さの落ち着いた外の空気に触れさせる。

「すまない。梨園があの場所にいるような気がして動けなかった」

ボソボソとぼくにすら聞こえないような音量で乖次は呟いて少しだけ体勢を立て直しながらもぼくに引き連れられたまま陽が落ちて橙色の空の光に照らされた教会の敷地から逃げ出すように警官と野次馬たちの数が減らない入り口へと向かう。

「お疲れ様。沙耶と稔から大体の話は聞いたよ。部室に行くなら私も付き合うよ。簡単な話じゃないってことは私たちならわかっているはずだから」

隣で沙耶はなんとか自分を取り戻そうと必死で涙を抑え込み、佐知川ルルの手を握りながら暴走した感情といくら止めようとしても止めることの叶わない思考に振り回されながらも佐知川ルルの提案に頷き、ぼくに左手を引っ張られたまま項垂れている乖次の様子を見て白河君も同様に頷く。

「分からないことが多過ぎると同時に、ぼくたちなら分かる話があるのは事実で、ぼくはそれを認めたくない。だって、それじゃあ」

白河くんがぼくの肩を叩き、それ以上は言う必要がないんだと脚を急がせる。

警官と野次馬たちの群れと耳に入り込む誰かの意図的な噂話から逃げるようにして学校の敷地内へと戻り、銀杏並木沿いをまっすぐ歩き八号館を右に曲がり、突き当たりの学舎群にある新校舎棟である十一号館のちょうど裏手にある学生会館へ入ると三階の南面の一番左端にあるぼくら『現代視覚研究部』の部室へと五人は引き戸を開けて中に入り、中央の会議用テーブルを囲むように並べられたパイプ椅子の入り口から見て一番奥に、ぼくは乖次の傍に寄り添うように座り、佐知川も沙耶を稔くんと一緒に少し革張りの布がほつれたソファに座らせると、乖次を挟むようにしてぼくの反対側にパイプ椅子を持ってきて力が脱けたまま天井を見あげる乖次の顔を眺めてからぼくに話を始める。

「何から話し始めていいのかわからない。多分ここに集まったみんなが同じ気持ちなんだろうね。だからあまり今日はこうやって一緒にいる方がいい。乖次もそれでいいね」

何かを確かめるように頷いてため息をついて乖次は言葉にならない思いをどうにかして形に変えようとして喘ぐ。

白河君の胸元にこっそりとおさまっていた『アースガルズ』がまるでぼくらの沈黙を破るようにしていつもと同じような悪戯まじりでぼくらに悪意たっぷりの冗談をいう。

「なあ、和人。教会の前には見たこともない奴らの野次馬があんなにたくさん集まっていたな。他人事だと思って後で笑い話にでもするつもりさ。俺にはやっぱりまだ人間の気持ちまでは理解出来ないと思う」

『アースガルズ』が少しだけ寂しい表情になったような気がしてぼくらを彼なりに気遣っているのだろうと機械生命である彼の身体で徐々に大きくなっている心のようなものを感じてしまい、ぼくもどうにかして場の空気に飲み込まれないように学園随一の才女の一人である佐知川ルルと会話を続けようとする。

三島に付き添う白河君と放心状態の乖次はとても何か会話ができるような状態ではないと感じて敢えてぼくはおそらく佐知川が触れたいと思っている話題に乗り、状況を打開しようとする。

「なぁ、お前は梨園が自殺であるかどうかも疑っているってことだよな。確かに彼女の功績は恨みや妬みどころの騒ぎじゃない。だからお前は疑っている」

「私は教会の中に入っていった訳じゃない。だから中で何が起きていたかわからない。けど、あの教会の前には八神先生がいた。多分、見当たらなかったけど萌木先生だっていたはずだ。梨園が参加していたゼミでおかしなことが始まりだしていたのは私達も知っていたはずだから。」

佐知川ルルはぼくと同じ物質生命学科に属し、二年生でありながら上級生の主宰するゼミにも呼ばれて将来の博士号候補であることは間違いなく、だからなのか、学部の違いはあるけれど、こうやって同じサークルに属していた田上梨園とはとても話が合い、在学当初から交際を続けている乖次と同等かきっとそれ以上に梨園のことを理解していたのかもしれない。

哲学科始まって以来の天才と呼ばれていた田上梨園と物質生命学科で最も優秀な成績の佐知川ルル、それから、今、泣き疲れて寝てしまったグローバルコミュニケーション学科の三島沙耶とともにとても親密な関係であったと思う。

だからこそ、こうやってどうにかして前を向き、目の前にポッカリと空いてしまった黒い穴に引き摺り込まれないようにもしかしたら唐突とも取られかねない彼女の憶測でぼく達の気持ちを現実に呼び戻そうとしているような気がした。

機械生命である『アースガルズ』がぼくたち人間を気遣うようにしてそうしたように。

「よくわかった。けど、やっぱり今ここでそこまで考えるのは危険だと思う。乖次にも伝わっているはずだけど、梨園のことは警察当局がきちんとした捜査報告を出すまでぼくらは慎重になろう。どう転ぶにせよ、やはり僕らにとっては簡単な問題じゃないのは確かだから」

佐知川が強く唇を噛み締めて分かりきっていた事実を当たり前のように思い知らされてしまったような苦い顔をして黙りこむ。

何かをやろうとしても何かを話そうとしてもその度に言葉が宙を舞って消えてしまい、誰も何も言えないまま時間だけが過ぎていく。

それでもこうやって繋がりを感じていられるという事実だけがぼくらがこの場所に留まる理由になっていて、いつの間にか窓ガラスの向こうに見える風景は陽の光が落ちて夜の帳が埋め尽くそうとしていた。

ぼくたちはやはり梨園には追いつくことが出来なかったのだろうか、彼女の頭の中に描かれていた設計図はぼくたちでは届くことがなかったんだろうかとぐるぐると考えたくないことばかりが頭を駆け巡り、頭を思わず掻き毟る。

「たまにお前達を見ていると思うんだ。俺は死ぬことがあるのかなって。機械に偶然宿った生命の偽物は容れ物だけが俺で本当はどこか別の人間が生きていたりするってことなのかな」

佐知川ルルが少しだけ気の抜けたような笑い声を微かにあげて白河君の胸元から飛び出して会議テーブルの上でまるで演説でもするようにして話す十五センチぐらいの身長の『アースガルズ』を見て緊張感でいっぱいになった部室の空気をちょっとだけ弛緩させる。

「あはは。君は科学と魔術の交差した特別な生命体。私たちが大学に通って学んでいることの遥か先の未来を生きる不可思議な記号。私の悪い癖で君を隅から隅まで調べてみたいって邪な気持ちを刺激することはやめて欲しいな」

超合金製の両腕で体全体を守るような格好をして『アースガルズ』は身構える。

なんの言葉も産まれなかった空間に温かみのようなものが戻り始めてちょっとだけ意識が現代視覚研究部の室内に蘇ってきてくれる。

「まあ、そうだな。『ドグラマグラ』。こんな時にぴったりの曲を何かかけてくれ。俺たちだけじゃ何もかもを受け止めきれそうにないんだ。『アースガルズ』が珍しく俺たちに優しくする。おかしな話だろ」

ぼくはスマートフォンを取り出して、電子的な効果音とともに立ち上がる人工知能搭載型検索エンジン『ドグラマグラ』の助けを借りて空白と静寂を埋めるための知識を膨大な量のデータベースの力を借りて再生させようとする。

「どうやら緊急事態って感じみたいね。和人の『phoenix』と接続して、世界中から今ぴったりの曲を検索してみせるわ。私の息子だけに無理をさせておくわけにはいかないもの」

黒髪の少女姿をスマートフォンいっぱいに表示させて、眼球を高速で回転させながらぼくの血液中に微粒子として流れているマイクロRNA型コンピュター『phoenix』とローカルネットワーク接続して、今、この部室にいるぼくと白河稔と師元乖次と三島沙耶と佐知川ルルと『アースガルズ』と、それから多分田上梨園の気持ちとしっかりシンクロする音楽を探し出すと、ぼくのスマートフォンのスピーカーから──※1Adele=Dot,t you remenberが再生し始める。

多分、そこにいる誰もが何一つ考えることを放棄して、何かを言葉にするのも身体を動かすことも放棄して彼女の歌が部室を満たしていくことだけに身を任せる。

多分、そうして音の隙間のほんの一瞬に乖次が張り詰めていた空気に気を許してしまったのか、途端に大声をあげてしゃくり上げるようにして嗚咽して涙を流して叫び始める。

きっと誰もが、そうしてくれるのを待っていたのかもしれないって思ったらぼく達は引き摺り込まれるように一斉に大声をあげて空いてしまった大きくて黒い穴に決して流されていかないように涙を流し始める。

この場にいないたった一人の女性の声を優しくて柔らかい声が埋めるようにして僕たちにほんの一瞬だけの救いを与えようとする。

決して埋められない答えをほんの少しの時間だけ先送りにして、数分間だけぼくらをこの現実を受け入れられる手助けをしようとする。

乖次の声は誰よりも大きく失ったものを求めてどうにか取り戻そうとして現代視覚研究部の部室に響く。

『アースガルズ』だけが会議用テーブルの上で仁王立ちして、うんうんとぼくらを偉そうに眺めながら目から黒と白のレーザービームを流して場をちょっとだけ和ませようと努力している。

誰もその灯りを見ていられる余裕はなくて、ぼくらは五人で寄り添うように歌に溺れ過ぎてしまわないように感情を爆発させる。

すっかり陽が落ちてしまった学生棟三階の一番南側の端っこの部屋の窓ガラスの向こう側には十一号棟の校舎が見えていて、ちょっとだけ開いたカーテンから小さな光が漏れて僕らのいる部室の方を覗いている。

普段はとても勘の鋭い白河君ならもしかしたら、そんな小さな異変に気付いてぼくたちが飲み込まれてしまう人間が持ちうる狂気と知識の限界に関する物語のことから逃げる術をもっと早く見つけられていたのかもしれない。

けれど、ぼくたちはもうすでにこの部屋を覗いている視線の在処がもたらす悪い神様の実験場への招待状を手渡されていることにどこかできっと気付いていた。

何もかもが遅過ぎてどうにもならないんだってことを思い知らされながら、ぼくは頭の中で黙っていた古い友人が眠りから覚めるのを感じ取る。

超合金製の身体の機械生命である『アースガルズ』を産み出して、どこにでもいるただのオタクでただのデブ野郎だったぼくを危険がいつだって隣り合わせにある世界へと飲み込んだ古代の大魔導師が地下の牢獄から僕の意識と接続して軽口を叩き始める。

──死はいつだってお前と供にある。泣いている暇はないんだ、兄弟。もうすでにお前は自分で掴まなければ切り開くことの出来ない扉の前に立たされている。涙を拭え、鎮魂歌はほんの少しだけで充分だ。友人たちが暗闇の中に閉じ込められてしまう前に立ち上がるとしよう。いつだって俺がそうしてきたように──

『類』の言葉は力強く、ぼくを震い勃たせ、また新しい世界の扉を開けようと図々しく押しかける。

けれど、今日はどうやら彼はぼくに仕事をさせる気はないらしい。

泣き疲れるように眠りに落ちてしまった四人の顔を眺めて思い切り力を込めてぼくは自分の顔を叩きつけて目を覚ます。

パシャリ。

「『聞こえない眼』がまた知らない人がこの宇宙に混ざり込み始めたよって騒いでいる。隠したはずなのに見えない場所に閉じ込めたはずなのに自らの力で這い出てきた神様の悪戯がみんなに挨拶をしたくて仕方がないらしい。抑えきれない劣情を私ならこうやってカメラの中に閉じ込めてしまうのに」

黒い眼帯をした女の子はお気に入りの黒いDNKYの黒いジャケットを白いTシャツの上から羽織ってブルーデニムとスニーカー姿で曼珠沙華をEOS 5Dの中へ逃げられないように閉じ込める。

赤い色は彼女のとてもお気に入りでもしこのRawデータが原因になってどこかで誰かの血が流れたとしても彼女は東綾瀬公園の花壇に咲いたこのとても綺麗な花を撮影するのだろうってどこかの星で誰かが囁いた。

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?