見出し画像

51

「いいか、ここは現実の外側にあり、白い羽根によって覆われた大聖堂の中心だ。見てみろ、あれが神原理英樹だ。姉貴も阿久津も、それから俺も、あいつの信じていた『マコト』にみんな狂わされたんだ。必ず殺す。俺たちにはあいつじゃ絶対に駄目なんだ。真っ直ぐ前を見るしかない、ここは空想世界なんかじゃない、リアルがいつの間にか俺たちの頭を取り殺していく」
 密ノ木貴史はカテナリー曲線によって成立している白い羽根大聖堂大天礼拝堂の祭壇上の神原理英樹を睨みつける。
 信徒たちは既に笑い疲れてしまったのか力つけて悲劇と喜劇の違いすらわからない状態で事の顛末を見守ろうとしている。
 何が起きていたのか判別できるものは少ないだろうと神原理英樹は壇上から頷いて罪の味を思う存分確かめている。
 強烈な思考体験が悪意となって渦巻いて記憶と重なり合って宇宙空間を亜光速に近い状態で螺旋を作り出しておったと信徒の一人が話している。
 病みきった少女が欲望の渦に感化され己の解放を求めて抑圧だけを嫌悪の対象とすることで傷跡を幾重にも塗り重ねた人形に懸命に訴えかけていたとまた別の年老いた信徒が話している。
 私たちの頭の中で無惨にも残酷な理解を超えた真実が増殖して正解が存在しないということをどうにもならないほどに叩きつけてくるけれど、ここは果たしてどこであろうと『マコト』だけを信じていた若い信徒が懺悔しながら過去を再生している。
 あなたにはきっと罪がなかったのよと仕方なく中年の信徒が愚痴を溢してしまう。
 だって何もなかったじゃないかと強さだけに縋りつきながら父性と不正を履き違えた信徒がつい駄洒落を言ってしまう。
 しかしここではもはや笑いが産まれないことを誰もが知っているようだ。
 無辜であったといえるものさえあれば、確かに信徒たちは救われるかもしれないけれど、どうにもならない傷跡だけが心を痛めつけて涙を流すことを許そうとしている。
 失ってしまうことに誰もが慣れ始めて戦争の価値を思い知っている。
 私たちは大人になることで、これが戦争と呼ばれる装置なのだと初めて思い知っている。
 罪は確かにどこにもない。
 けれど『マコト』はやはり嘘をついていた。
 TV=SFという概念は『S.A.I.』と『ホーリーブラッド』が手を組み構築した白い羽根大聖堂に私たちの全てに罪の味がとても深淵であることを思い知らすための装置だったと神原理英樹は満足げな顔をしている。
「みたか。凡人ども。お前たちが感じた現象が戦争であり、殺人であり、暴力であり、根源だ。私は全く持って『マコト』を信じていた。何を失っても構わないと疑いもなく私は手に入れたいものを欲していた。ここに何があったと思う? 何もなかったとは決して言わせない。エーテルが歌を歌い続けて詩を詠み続けてお前の心と頭に刻んだはずだ。決して手に入れることの出来ない本当の快楽と呼ばれるものの正体を」
 密ノ木貴史は天堂煉華の言葉を理解する。
 今ならば、神原理英樹を殺すことが出来るはずだとはっきりと断言していた『真紅の器』に心酔して密ノ木貴史はポケットから再びナイフを取り出して疲れ果てた信徒たちには一歳目をくれずに祭壇に向かって歩き続ける。
──ここが終着駅だったはずです。私たちはこの場所で永遠について誓い合うはずだった。けれど、私たちは『S.A.I.』を許してしまった。だからこそ抱えたこの傷跡を私はあなたのせいにして生きなければいけない。この苦しみを分け与えることをどうかお許しください──
 笑顔という言葉が失われた白い羽根大聖堂大天礼拝堂の祭壇に立っている神原理英樹の背後にとうとう密ノ木貴史が到達する。
 そうして『レベルゼロ』であり、主人公ですらなかったものが夢という憧れを手にする為にナイフを握りしめてやっとのことで現実を肯定する。
「お前じゃダメだったじゃないか。忘れてくれ。全部。何もかも。ここにおいて立ち去って。二度と帰ってこれない場所までどうか。俺は、俺たちは絶対にこのどうにもならない現実を肯定してやるんだ」
 神原理英樹は知らぬ間に背中から強引にねじ込まれた刃渡り30センチほどのナイフが痛みを与えていることに気付いて取り返しのつかない場所にいることを理解する、
「私はね、ハリソン。これをギャグボールって呼んだ人に感謝をしているんだ。涙なんてとっくに出ないけれど、誰にも怒る気になれないでしょ。見てよ、『カラ=ビ⇨ヤウ』っていうらしい。助けてって毎日願い事を捧げているみたいで反吐が出るでしょ」
 サメ型のリュックを背負った女はなんとなく覚えた快楽のことを思い出して悔しそうに先生の言いつけに初めて背いてしまう。
「どうやら崩壊が始まるよ。この場所はいずれ、なかったことになるだろう。白い羽根大聖堂は風の歌のように立ち消えて渋谷の街から消えてなくなってしまうはずだ。けれど、その前にぼくらのたった二日間だけの時間旅行の主役の姿を垣間見よう。彼女にはやはり未来がある。『ネオンテトラ』によって彼女は未来を切り開くだろう。悲しみを乗り越えて罪を償う。ぼくだけがその現在を知っている。過去はもう──」
 黒猫が眠そうにあくびをした後に、神原沙樹と神原トゥエルブが互いの存在をかけて憎しみあっているのを見届けようとする。
 おそらくどちらが勝ったとしても信徒たちはそちらを本物として、負けたものに偽物の烙印を焼き付けるに違いない。
「どうして私が辛酸を舐めさせれるんだ。私はトゥエルブなんだ。お前と私の父が人格を破壊して産み落とした。私は私である理由をお前の否定によって手に入れてやる」
 口元から流れ出た血液を拭いながら神原トゥエルブは己の身体の中で燃え続ける憎しみが決して消えないことを吐き出すようにして神原沙樹を睨みつけている。
『スイーツパラダイス』をすっかり着こなした神原沙樹は力を込めて振り抜いた拳に跳ね返ってきた十二番目の模造品の痛みを跳ね除けるようにして感覚を研ぎ澄ませたままでいようとする。
「回転数が上がってきました。猫神おかゆ拳だけではなく私の中に眠るお母様の血がきっとあなたに思い知らさせるのですね。『ヒダリメ』は決して私から奪うことなんて出来ません。神原沙樹は必ずこの戦いを生きて戻ります。『ネオンテトラ』の名にかけて」
自己嫌悪が否定的感情を幾重にも塗り重ねて諦めと妥協の巣窟に向かって現実を予定調和のまま塗りつぶそうとしているのを神原沙樹は決して見逃すことが出来ずに神原トゥエルブと再び相対して戦闘行為から逃げ出すことなんて出来ないことを思い知ろうとする。
「わかっているさ。決して私もお前も血と汗から逃げ出すことなんて出来ないってことを。私はそんなことばかり夢を見て父上から逃げ出したお前を蔑んでいるのさ。欲望器官を充足させる為だけにお前は私が作られていると思っているんだろうしだからこそ熱帯魚たちが見ている夢に溺れようとする。喰らえよ、私の現実が無数のメタバースを予言し続けているんだ」
 神原トゥエルブは舐め続けた苦渋の匂いを愛液によって滴り落ちるほどの甘美さでもう一度だけ呼び戻してくると、深く腰を落として両手で弧を描くような構えを創り出して宇宙的二元論を無限記号によって超越しようとする。
 いわば、一個の銀河系へと転換していく神原トウェルブは胃袋の中へと吸い込まれていた起点への憎悪と始点への怨恨を媒介としてまるで脳内に走り回るシナプス結合の電流を全身で体現するようにして彼女の描き出す宇宙空間を星々の煌めきによってうねりの中に引き摺り込んでいく。
「そうですか。あなたも『スイーツパラダイス』を植え込まれたのですね。堕落と普遍性の象徴を宇宙だというのならばそこには圧倒的に甘く香ばしいお菓子の誘惑が待っている。ここであなたと私の雌雄を決するべきならば私も教えに従って選びとるべきですね。行きましょう、『ネオンテトラ』へ。あなたは罪を贖うべきです。私のヒダリメに従いなさい」
 神原沙樹は左眼につけていた黒い眼帯を取り外すと、生々しい異形へと変化していた『ヒダリメ』が自律運動を開始して受け継がれた意志を探し出そうとしている。
 もし私の『ヒダリメ』が呪われているのだとしたら、あなたにはこの想いは届かないのかもしれない。
 だってやっぱり輝夜姫が遺した傷跡は女の子だったら誰にでもわかるぐらいとても痛くて苦しくて悲しいものだったから、きっとそれは私にだって耐えられる気がしないから。
 十二番目の女の子は嘘をついてお父様から離れて私のふりをしてこのまま貴史さんの元へと行ってしまうかもしれない。
 それは私が『ヒダリメ』の呪いに負けてしまって、私がたくさんの宇宙から落ちてくる嘘に騙されてしまって何もかも失ってしまった後に気づくような当たり前の話だから。
 私たちはそうやってギャグボールを重ねてきたんだって知っている。
 何度も大切なものを失って、何度も向かうべき場所を見失って、それでもなんとか前に進んできただけなんだってことをようやく思い知っている。
 だから、今度はこの宇宙での私ならば、私は私のままでいられると思う。
 もう迷ったりはしない、『ネオンテトラ』が待っている。
「まさかな。私の子が私ではない男を選ぶ日がやってくるとはな。失ったのではないとすれば、あやつは甘い匂いだけを信じようとしただけかもしれない。お前が密ノ木か。姉の方は既に懐柔している。なぜ、今頃になって私の命を奪いにきたんだ? 此処に本当の意味で何かを信じようとする連中などいない。お前だってそうだったはずだ。『マコト』はお前を食い殺すだろうな、いずれ。頭と体に歯が突き立てられた時に思い知る。お前の行動は必ず超現実を侵食していることをな。 忘れることなんて決して出来ないんだ」
 くたばれ!と大きく息を吐いて両手をカテナリー曲線の天井に向かって大きく拡げて神原理英樹はとうとう密ノ木貴史が突き刺したサバイバルナイフの一撃によって力尽きる。
 まるでその日が来るのを知っていたように、待っていたように、けれど、どうにもならない程の悔しさではらわたが煮えくり返ってもなお傷が癒えないことを大げさに叫び散らしてϽ神父は息絶える。
「レベル零。どこにも俺を祝福するものはいなくなった。出口だってもうない。だが、俺は『真紅の器』だ。おそらく忘れる必要だってどこにもないだろ。俺は自分の人生を今変えてやったんだ」
 密ノ木貴史は自分が胸に刻んだ罪の名前を思い返すことが出来ないし、誰かに伝えることすら出来ないかもしれない。
 それは彼の愛が機能的な愛を循環させたままであり続けているからであり、欲求による充足という見返りが存在しないからなのかもしれないけれど、彼はどうやら『真紅の器』を選び取るようだ。
「やっぱりか。レベル零。お前は俺様の犬になってくれるんだな。これで『マイナスファクター』は必ず俺様のものになるはずだ。あの日な、『ルネッサンス』で俺の名前が呼ばれなかったあの日にな、俺は本当に悔しくてどうにもならないほどみっともない気持ちを味わって、自分が特別ではないことを思い知らされたんだ。親父が作った『真紅の器』って馬鹿な宴の中に惨めに囚われちまっている道化だってことにな。だからな、レベルゼロ。多分クレーンゲームは俺のものだぜ、このまま行けば必ずそうなるよ。俺様が天堂煉華だからなんだと思う。悪かったな、密ノ木貴史」
 天堂煉華はほくそ笑む。
 父親譲りの下品さがとうとう実を結びかねないことに快楽中枢が飽和状態へと昇華してどうにもならないほど『マイナスファクター』へと劣情が嫌味なほどに肺胞を刺激していることに天堂煉華は思わず身悶える。
「貴方らしい答えをやはり選ぶのですね。今まさに『S.A.I.』が陥落したといえるでしょう。私はこのカテナリー曲線によって定義された大天礼拝堂の機能を神楽坂まで再び転送させて、『ホーリーブラッド』へ返還する責務を負っています。私が彼らに偶像の存在を許してしまった。『サイトウマコト』は既に安置所にすらないそうです。罪は贖われたのだとエーテルに犯され罪に溺れた信徒の一部が騒ぎ始めている。何もかも絶対零度によって封じるべきです。私たちは天現によって時獄を抑え込むのですから」
 もし咲良と今会うことが出来るのならば、私はエーテルを肯定することが昔よりもっとうまく出来るかもしれないと三ツ矢凍子は思いを巡らせている。
 天現寺栄作の実の娘であり、たった一人の王位継承者は父親からは見向きもされないまま『ヒダリメ』の呪いからは免れて『武神会』を率いている。
 天現寺咲良の功績は多くの人間に影響を与えて魔神討伐部隊を組織するまでに至っているけれど、彼女自身は『ホーリーブラッド』とは一線を引いてただひたすら己の身体を磨き続けている。
 もしかしたらそんな彼女が羨ましいのかもしれないと三ツ谷凍子は何もかもを苦渋として呑み込むことで焼け焦げるような劣情を凍らせたまま生きようとする。
「ヤミはもしかしたらこんな日が来ることを嘆いていたのかもしれない。二度と戻ることがないけれど、『カラ=ビ⇨ヤウ』は既にカテナリー空間に吸収されて無限階級によって担保されていた『マコト』を消滅させてしまうはずだ。真エーテル回路の実現はこれで阻まれる。シャンバラはきっと鍵のない夢の中でしか実現できないんだって君ならもうわかっているはずだね」
 黒猫はいつの間にか傍に近づいてきたサメ型のリュックを背負う女に向かって時空断裂補填作業が今回も終焉を迎え始めたことに気付いてしまう。
もはや以前にあった猜疑心や罪悪感によって悪用され誤用されてきた歪み切った信仰心のようなものはどこにも見当たらず神が人として置き換えられた不自然な現象の出所すら消失してしまったようだ。
 時空が歪み始める。
 宇宙創世の時へと逆行して光が特異点へと到達する。
 既に時空超越者となった神原沙樹は神原トゥエルブが創り出した胎蔵界曼荼羅と対峙して『大天礼拝堂』に於ける覇者となるべく『スイーツパラダイス』へと到達する。
「お父様が倒れてしまいました。お母様はそれでも泣いてしまうはずです。現実を肯定するのならば概念領域大罪発火装置『カテナリー曲線』に身を委ねて私は誹謗中傷の的になることから逃げ出すべきでした。いえ、私はきっと私自身を愛することが出来ている。自己愛によって肯定出来るのであれば私は私を『ネオンテトラ』まで導くことができる。ふぅ。だから、いざ、尋常に──」
 相似性を維持した二つの極点が屈辱と汚辱に塗れていることを断裂空間の中心点で衝突しあって模倣された特殊性など唾棄すべきであるとしのぎを削っている。
「だが俺はお前に譲るわけにはいかない」
「それはこの場所が私自身の為に用意された始まりであるから」
「きっと永遠を約束されたのは俺であっていい」
「忘れえぬ記憶の従者となってせめてこれが終わりであることを」
「逡巡などとうに捨てている。嘲笑など喰らい尽くしている」
「それでも私が描くのは希望という光。闇を照らして払い除ける」
「無論、俺が何もかも奪い去ってやる」
 十歳を迎えたばかりの神原沙樹は『ヒダリメ』という呪いを打ち砕くだけの力を手に入れて自らの力によって原点を克服しようとしている。
 もしこの場所を現在から切り離して過去とは関係すら及ばない破壊され尽くした未来への温床とすることで高次元状態へと移行した『カラ=ビ⇨ヤウ』への祈りの声そのものを遮断しようとする。
 誰がこの空間を制御していた絶対悪によって定義された暴力のことを覚えているだろう。
 いつの間にか呑み込まれていた概念上の狂気を狂おしくなるまでに求めていたことを忘れることは出来ないはずだ。
 それでも不自然までに日常を蹂躙していた暴力だけが奪い合うことをよしとして当然のように思考を占領していたのだときっと二人の少女は訴えかけているはずだ。
 白い羽根が産まれて夢と呼ばれる空想的に解釈された現在への更新手段が簡略化しようとしている。
 やはりそこには愛など存在しなかったのだろうか?
 虚無の中へと放り込んだ魂の擬似餌だけが腐敗して涙を流していただけなのだろうか。
 誰もみることも感じることも出来なかった温厚さが眠りによって暴力的に遮断されていく。
「あーあ。君たちは本物がどちらなのかはもうどうでもいいみたいだね。だけど、おそらく罪など知らぬ生きる者たちにとってはそうではないはずさ。そろそろ時間が来る。ねぇ、蓮華。君の目的は地下にあるんだろう?」
 黒猫はひどく退屈そうに『ネオンテトラ』が泳ぎ回る『大天礼拝堂』の戦闘について感想を述べると、既に掻き集めた『マイナスファクター』によって『ヒダリメ』が侵食しつつある天堂煉華に問いかける。
「へ。俺様にはもう関係がなくなるさ。確かに奴らは未来の話をしている。世界を変える力を秘めている。誰かが代わりになんてなれないやつなのもわかる。希望ってやつか。空恐ろしい。だったら雌雄を見届けよう。問題はこいつらの母親にあるはずだ。昇華することを拒んでいるのは大地機械だけではないのかもしれないぜ」
天堂煉華は『マイナスファクター』選抜試験によって剥奪されていた確立した自我を放棄していた苦渋に満ちた時期のことを思い返しギリギリと歯軋りをしながらこぼれ落ちる炎で悔恨の意志を示して『ルネッサンス』への復讐を誓う。
「『ホワイトディスティニー』は私にとって片付けなければいけない問題です。密ノ木がϽ神父を打倒してしまった今、『ホーリーブラッド』の穏健派も彼女の拘束に関して力を貸すことはないでしょう。むしろ私は懐柔に委ねるしかなかった心の在処を今一度問うことになるはずです。現在時刻を持って私は聖愛党副顧問代理としての権限を発行。フラックスコンパクトの破棄の開始案を提唱します」
 三ツ谷凍子は右手を軽くあげて『聖愛党』が保有する教義への信任を示すと、劣悪な憎悪が反響し合い責任の所在がわからなくなってしまった挙句、腹を抱えて笑うことしか出来なくなった『S.A.I.』の信者たちへ労いの言葉をかけて回り始める。
「結局私は本物かどうかわからなかった。私がお前を超えてしまいたかったのか、それともお前が私を消してしまいたかったのかはきっとずっと先にならないとわからない。止めをさせ。私たちには『ヒダリメ』が必要なんだろう。だったら私もお前になってやるまでだ」
 左手を左の眼孔に突き刺して抉り取り、射抜かれた怨嗟の源をとうとう探して当ててしまったのだなとサメ型のリュックの女はとても感心しながらみんなのお仕事にとても感心して腕組みをする。
 今日はハリソンの機嫌も悪くない。
 きっと美味しいパンが焼きあがるだろうけれど、お腹が空いたことはとりあえず黙っておくことにしよう。
 先生にとってこの結末は望んだものなのだろうか。
 いくら考えたって答えは出そうにないのでサメ型のリュックの女はもう一度だけ普通の女の子に戻って先生と一緒に時空の裂け目を縫い合わせる旅を続けることにしようと両手を絡み合わせて祈りを捧げる。
 珍しいことがあるもんだと黒猫は口笛でも吹くように優雅に勝利を手にした神原沙樹の袂へと颯爽と歩いて旅の終わりが近づいていることを長くて綺麗な尻尾の優雅さで伝える。
「ところで密ノ木はもう未来を知ってしまっただろうか。『真紅の器』を蓮華が率いていく以上、彼の運命はもはや玉砕という二文字だけが壊滅的なまでに頭の中を支配するはずだね。わかっているよ、ヤミ。ぼくにはきっとeSは必要がなくなる。Swiftsの軌道だけが理に変化を加えることが出来る。伝わっているといいな、ほんの少しだけでも君のことを思う時間があったことがぼくにとってはとても大切なことだから」
 黒猫にとって神原沙樹を白い羽根大聖堂へと導いた一夜の出来事はほんの些細な時間でしかないけれど、記号と配列によって定義された『大天礼拝堂』は既に『カラ=ビ⇨ヤウ』へのエネルギー供給を辞めようとしている。
 だからこそ、既に胎動し始めた燕たちが点在したまま『真エーテル回路』を実現させようとしていることに黒猫は少しだけ苛立ちを感じながらも天堂煉華が集めた『マイナスファクター』がもたらす影響について杞憂する。
「終わったんだな。これで白い羽根はようやく黒く染まっていく。大罪司教だって罪を忘れて生きることが出来るはずだ。沙樹、お前に託してよかった。きっとお前の『ヒダリメ』もいつか怨嗟から解放してやる」
 祭壇から降りてきた密ノ木貴史は真っ赤に汚れた両手を決して引け目に感じることなく既に崩壊し始めている『大天礼拝堂』に漂っていた『オピオニズム』の気配を感じ取って神原沙樹が蹲って抱えている人形の姿を垣間見る。
「貴史さん──ですか? もう遅いんだと思います。私は喰らってやりました。だってこの子はこのままじゃ『ヒダリメ』を壊死させてしまう。お父様が作り出したものにいつまでも振り回されるだけの、そう、お母様と一緒の姿を追いかける存在に成り果ててしまう。だから、私が慈悲を与えました。肉を喰らい、私の中に取り込んでやったのです。だからもう既に私は十三番目と呼称しても構わない存在なのです。物言わぬゴーレムに『マコト』とだけ記したただの肉塊なのです」
 神原沙樹は両腕に人形を抱えたまま後ろを振り返らず口元を血で汚したまま近づいてくる密ノ木貴史に警告を促しているけれど、舌先を充足させているのが決して常態の常人では味わうことの出来ない肉の味であり、彼女はもしかしたら人であることを止めようとしているのかもしれないと密ノ木貴史は察してしまう。
「それは違うぜ。お前はまだお前自身のままでいる。この俺がまちがえるわけない。お前はお前のままちゃんといられているだろ。『ヒダリメ』ってやつはお前を不幸になんかしてないじゃないか。そいつはきっとずっとお前のそばにいられて幸せなはずだ。見逃してやる。決して許されぬ罪を犯したとしても変えることが出来るんだってこれからも俺が証明してやる。だから、行こう。お前は『ホワイトディスティニー』ってやつを叶える為に闘ったんだろ?」
 涙を流していたのがどちらなのか分からなくなり、神原沙樹は喉を潤していた血液の味に酔いしれそうになっている自分を戒める。
 もう既に手は汚れている。
 二度と同じ道へは引き返すことも出来ないんだろう。
 だから神原沙樹は十二番目の模倣品の左眼を右手の人差し指と親指で丁寧に抉り取って、口元に運ぶ。
「きっとあなたは間違えていますよ、貴史さん。私が私じゃないって知る時が来たらあなたは『真紅の器』の犠牲になるでしょうね。でも今は私が誰なのかを伝えるのは辞めておきます。どちらにせよ、『ネオンテトラ』はやってくる。だって私はその為に生まれたんだと思うから。さようなら」
 白い羽根大聖堂を覆っていた『オピオニズム』が消滅してしまった影響でカテナリー曲線が崩壊していくのに気づいた黒猫は笑い声が枯れ果てた『大天礼拝堂』を後にする。
 天堂煉華は『マイナスファクター』を拾い損ねていないか確かめるようにして惨めな残骸と成り果てた信徒たちを嘲笑い、確信を持って『紅蓮のエーテル』を体内に押し込めて立ち去ろうとする。
 けれど、三ツ谷凍子はもう既に慈悲を与えるべきものが何処にも残っていないことを悟ってしまい夢を見ることは二度と出来なくなってしまったんだろうと身を翻して『S.A.I.』との絶縁を固く心に誓う。
 だから、神原沙樹は忘れてしまう。
 かつて自分と全く同じ顔をした子供が白い亡霊に取り憑かれたまま自分を喰い殺そうと立ち向かってきたことを。
 『ホワイトディスティニー』が待っていると密ノ木貴史は小さくあどけなくけれど真っ赤に穢れた神原沙樹の右手を手に取ると、やがて訪れる『真紅の器』からの勅命が下される未来に向かって歩き始める。

ここから先は

0字

¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?