見出し画像

76

「どうとくのじかん」第二部が終了すると、ぼくと那森弥美は『フラクタルスリー』での精神同化現象から離脱してこのあと行われるもう一つの学園名物であるキャンプファイヤーの為に第一グラウンドへと移動する。彼女の左腕に刻まれた五十の術式は消え去っていて、心なしか笑顔が呼び戻されていることに気付くけれど、ぼくは決して感情を表に出さないようにしながら那森弥美の左手を握り締めて全校生徒が大ホールを退出する流れの中に入っていく。
「やっぱり他の生徒、特に魔術科でもエーテル耐性の低い生徒には軽い虚脱症状があるみたいだね。先生たちが忙しそうだ。外に出てみて分かったけれど、重力が一時的になくなっていたんじゃないかな。あれほど、大規模な魔術が行われたのだとしたら何も影響が出ないのはおかしい。普通科、魔術か共々それぞれ能力の低い人たちにはかなり負担があっただろう。けれど、『職員会議』からすれば生徒の自主性を育む為ぐらいに考えているのかもしれない。記憶に消えない傷跡が刻まれた可能性だってあるはずなのにね」
「ようやく君は他の人のことを気にすることが出来るようになったんだね。私がもし君とは違う意見を選んでいたとしても悲しみに溺れるのはそんなに沢山いたわけじゃない。覇王も白き魔女もそれからひかりさんもみんな最善を尽くしている。悪を成そうとしたのは君だけかもしれない。ねぇ、ボードレールにかぶれているわけじゃないんだよね?」
「成長を知ることだと捉えているのなら君はぼくのことをやっぱり何も理解出来ていない。通じ合えるのはエーテルが存在するからだし、君が嘘をついていたとしても本当のことを言っていたとしても伝えないという手段を選び取れるのはきっとお互いの勇気だけなんだ。だって最初に話したことが君にとって不整合な問題だったとしても、それは単に君がぼくを知ろうとしなかっただけかもしれないだろ。だから、大人か子供かどうかが今回の件を判断する材料にはならないはずだね」
「『悪の華』を最初に読んだのは中学生の時だった。感銘を受けたし、私も特別だって確かに思えた。他の人とは違う存在になりたいんだったら誰よりも美しく悪を成せばいい。例え、その為に誰かを犠牲にしたとしても、秘訣だけはとても簡単だった。けど、私は大人だって自覚する度に自分以外の人間を大切にすることが社会に出たら必要なんだって思い込むようになった。君は私からその枷を奪い去ってくれたのかな。自由でありたいって考えることが人間と動物の違いなのだとしたら、私はもしかしたらほんの少しだけ自分らしく生きれたかもしれない」
「まだ答えは分からない。きっとこれからたくさんのことを知って君とぼくが何を考えていたのかを知ることになるんだろう。成長するからじゃない。ただ物事には始まりと終わりがある。君が永遠を信じているように、ぼくはぼく自身の選択を正しいと考えている。何も変わらないことより、失っていく事実のことを思い続けているんだ」
 クスクスと笑って傍を通り過ぎたクラスメイトの声が気になってぼくは思わず顔を伏せてしまう。那森弥美も彼らと同じようにぼくのことを笑っているようだけど繋いでいる手に力を込めて何も言いたくないってことだけを伝えてくる。私はきっと君とは違う。大切にしているものも、手に入れたい夢も、それからきっと君のことをどう思っているのかも違うと思う。それは言葉にするととても難しくて、儚げで、簡単に消えて無くなってしまうものだから私は君の声を聞くのがとても好きなんです。だから、ぼくには君の言葉は何もかも嘘に聞こえてしまう。たった一つだって本当のことは何も教えてくれないし、どんなに願ったとしても思い通りにすらなってくれない。叶えたい願望のことを打ち明けるのがとても怖いし、だとしたら傷つけてしまう方がずっと簡単でどんなに思考を巡らせたとしても辿り着けない袋小路にばかり案内しようとする。だから、本当に何がしたいのかなんていつだって分からない。誰かに教えてもらったほうがずっと楽で、そういう瞬間のことをいつまでも心待ちにしている。逃げ出すことだけは自由で大好きだって叫んでしまいたくなることを恥ずかしいとすら思っている。ちゃんと手触りは感じているみたいだ。指先は冷たくて体温が感じられない。手のひらは何故か暖かくて傍にいることを本当だってどうやら信じられている。ぼくはどうやら試練を乗り越えたようだ。だとしたら、もう一つだけやらなければいけないことがある。魔術番号6475番『詩は夢に置き換えられたまま幻想だけにしがみつく』に必要な触媒はインクだけだ。制服の右ポケットに手を突っ込んでみると、一本だけボールペンが入っている。手にとって感触を確かめてから取り出して那森弥美の方を振り向くと、彼女もぼくと同じように左手にボールペンを握っていて大切な儀式に必要な黒いインクがしっかりと整っていることに安堵する。
「どうやら私たちは正解を選んだみたいだね。偶然がちゃんと私たちの行く先を照らしてくれている。君がしたいことぐらいはちゃんと分かっているけれど、いつもだったら意地悪をしてしまう。だから今日だけは特別だよ。手のひらに書き込むべき記号と配列を決して口に出しちゃいけない」
「うん。そう。難しく考える必要は、きっと、ないね」
 大ホールから渡り廊下を抜けて魔術科棟に一度戻って、ぼくは右手でボールペンをくるくると回転させながら、とても大切な記号に関する命題に思考を費やして間違いを許容することの出来る配列はないものかと真剣に考えている。手のひらから汗が滲んで伝わっているような気がして少しだけ胸が高鳴って出来たら悟られないようにだけ留意しながらまだかろうじて残っているボールペンのインクの重さのことに気を取られている。那森弥美はどうやらぼくの頭の中をすっかりお見通しのようでぼくが気を取られる誤った記号が思い浮かぶたびに爪を立てて痛みを与えてくるけれど、演算記号の順番を入れ替えようとするとちょっとだけ拗ねた顔をして唇を尖らせて爪先で地面を蹴り飛ばしている。教室には戻らず、下駄箱の方に向かって歩いている途中で那森弥美は口笛を鳴らして詩を口ずさみ始める。
 
連結された多面体
戦争の雨が降る
歪なままで散歩して
ピアノ線みたいに恋をする
曝け出すのは夢の中
抱えた猫には脳の傷
悪意の源注ぎ込み
ピアノ線みたいに恋をする
 
「ねぇ。どうしても駄目だ。力が入らない。悪いことをしたんだって本当に思える。あれは使っちゃ駄目なものなんだね」
「ほら、言ったろ。お前はいつもそうやって私のことを無視する。西野さんから貰ったけど、私だってわかる。けど、ちょっと休めば大丈夫だよ。もうお前は誰にも負けたりしない。旧い魔女が怖いかい?」
 校庭に出ると、前年の『チルドレ☆ンオブフォール』で九条院大河と西野ひかりが契約を交わしたと言われるソメイヨシノ並木の前で、黒髪の知野川琳が凍えながら震えてちょっと小太りの水恩寺梨裏香が慰めている。鼻の下に目立つ傷のある水恩寺梨裏香は高度な魔術錬成の触媒効果が反転した時のみ起こる虚脱症状に苦しむ知野川琳に心の在処を問いかけようとしている。
「お前から盗んだボールペンにどうして『旧い魔女の血』が入り込んでいたのか全然わからない。だから。さっきまで大ホールで起きていたことがまだ現実だって思えない。『猛る暴力と大いなる覇道』ってやつだ。前に図書館で見たことがある。けど、ドーナツみたいに拡がっていた黒い輪っかに白い光が産まれてぶつかり合ったと思ったら太陽と月が同時に空に現れた。ガイアの運動が停止したんだ。だから、ぼくは──」
「あれはね、私が困った時に西野さんがくれたものなの。それなのに、お前ときたらいつの間にか私の机から盗っていったんだろ。さっきの稲妻はお前が何かやったんだろ」
「うん。校舎の壁に恒真式記号を書き込んだ。論理解釈が破綻するように。あれは、真司さんに教わったものだけど、あのボールペンなら零が産まれるんだって思った。けど、ぼくまで喰おうとするとは思わなかった。あいつは情報限界の狭間を切り裂いてこちら側へやってきたんだ」
「あの子は怖いねぇ。人の形をしているのに人じゃないみたいだった。お前じゃ戦えないって思ったんだろ。だから私と手を繋いだりしたんだ。何処かに連れ去られてしまったね」
 二人の会話はどうやらぼくらが大ホール内部で音と光の壮大なショーを魅入られた時に校庭で起きていた出来事のことを言っているらしい。魔術科の先輩たちも普通科の先輩たちもどうやら自分たちの能力を遺憾無く発揮して『ハルカミライ』のことを考えている。黒い眼帯の女子生徒に手渡した設計図面に書き込んだ『F』が意味を持ち解き放たれるのならぼくのしたことは何もかも零になってしまうわけじゃないのかもしれない。那森弥美と繋いだ手から体温を実感してキャンプファイヤーの為に用意された井桁組の傍で横たわっている狐の獣人と小太りの生徒とおそらく三年の横尾深愛先輩を見てぼくは校庭で起きていた壮大な術式の発行儀式の様子を想像する。
「おそらくは情報限界が物理宇宙の一部を崩壊させたんだ。確かにぼくたちがみた光景はとても美しいものだったけれど、外部で起きていたことはマイクロブラックホールの生成、つまり宇宙創成に匹敵するエネルギー爆発が擬似的に再現されていたはずだ。けれど、どうやらそれだけでは済まなかったらしい」
「どういうことかな。確かに校庭の様子を見るとちょっとだけ大変なことが起きていたっていうのが分かる。一足先にキャンプファイヤーでもやっていたのかなっていう感じ。あの三人はどうしてあんなところで寝ているんだろう」
「話には聞いたことがある。パラレルトラベラー。向こう側の宇宙からやってくる異次元同位体の話。この世界には『写真家』という存在がいて、ぼくたちの宇宙で引き起こされる全てを予言したと言われているね。どうやら同じような現象が引き起こされたらしい。上空に飛んでいるヘリコプターと何か関係があるのかもしれない」
「私たちの意識が重なり合って眠っている間に外ではとんでもないことが起きていたんだね。かなり騒がしいけれど、あそこで目覚めた三人と何か関係があるのかな。校庭に人が集まってきたよ」
 大ホールから退出した生徒たちが続々と第一グラウンドで行われるキャンプファイヤーを楽しみにするようにして、雑談に興じている。井桁組にはまだ火は焚べられておらず、ぼくの推測通り情報限界による空間断裂が起きた証拠が至る所に見受けられる。けれど、東の空へ飛び去っていくヘリの轟音はともかくとして例年通りの一学期末の状況がぼくをどうにか現実へと引き戻してくれる。
「あのさ、手のひらになんて書くのかは決めた? 魔術番号6475番の発行手順はちゃんと覚えていてくれているかな」
「また真司は不安に負けてしまう。けど、それでも考えていることはなんとなく一緒なのはわかったよ。確か、日の入りちょうどに手のひらを重ね合わせるだけでいいんだよね」
「キャンプファイヤーは17時ちょうどからだからあと三十分もすれば先生達が準備を始める。今日の日の入りの時刻は確か、18:58。まだ余裕はあるけれど、ムーンが逃げていった痕跡が問題なんだ。暦通りなら下弦だけれど──」
「ムーンはアポロの影響を受けずに発光している。チルドレ☆ンは月でお餅をついている」
「ロマンチックな妄想に耽るのは構わないけれど、ガイアの自転は停止していた。見えない神様達の悪戯ではなく、列記とした人間達の仕業なんだ。天体に干渉する『いにしえ』の爪痕。チルドレ☆ン達は大騒ぎだっただろうね」
「珍しく神様の存在を肯定している。私たちは確かにパンに作られた模造品だ。君が気にしているのは──」
「もちろんムーンが正常通り運行していたのなら、ある程度予測は出来るし、おそらくSixtoneと呼ばれるガイア天候操作装置はイレギュラーな事態にすら適応する。歯車の動きは一分も乱してはならないはずだからね
「じゃあ──」
「うん。答えはたった一つ。ボールペンのインクはぼくらの本当の気持ちを代弁してくれる」
 七星学園に通っている以上、学校の内部で普通科の生徒と空間を共有することは稀だ。もちろん、社会に出てしまえば、当然ながらエーテルの存在は秘密にされているし、お互いに打ち明けるような関係に進展することも特別な職業に就いていない限りまず遭遇しない。だから、何処かで出会った誰かが魔術使いであるのか、そうではないのかは話題にすらのぼりにくいし、まるで顔馴染みみたいに挨拶をする環境も巷ではありふれている。ぼく達七星学園の生徒は強制的に区分けされる環境に身を置くことで、エーテルという不可視粒子がもたらす差異を体験的に学習していくことになる。これは差別と呼ばれる問題なんだろうか? 身分制度が撤廃されている現代社会において、ぼくがぼくである理由は果たしてこの場所に集まった生徒達全員と共有することが可能なのだろうかと思索を巡らす。
「なぁ、稔。ぼくたちはどのくらい眠っていたんだ。いつの間にか校庭には何も知らない羊の群れが溢れかえっている。黒く染まって抜け出そうとしたのはぼくたちだけか。それと横尾先輩はどうしてあんなにあどけない顔をしている。まるで子供みたいじゃないか」
「うう。まだ電撃が身体中を奔り回った感覚が残っているでござるよ。モラトリアム供を嘲笑うとは小生達も成長したでござるな。夢を見ることを肯定出来る強さを手に入れているでござる。横尾先輩もきっとそうに違いないでござる」
「あはは。確かにそうだ。初恋は実らない。ぼくはそんな当たり前のことを知ってしまった。苦しくても失うことを知らなければ大切なものの価値が分からないなんてな。ほら、さっきまでアポロとムーンが同居していたはずなのにいつの間にか消えている。それに──」
「あの奇妙な声を発信する青いワンピースの少女も見当たらないでござる。朧げながらよく訓練された軍人達の作戦行動が目に焼きついているでござるが。自衛隊直属とはとても思えないような特殊な任務に逞しい身体、誰かを守れる強さは傷口が癒えるまできっと手に入らないでござるな。歯痒いでござる。小生達は初めて目にする現象に振り回されてばかりだったでござる」
「あぁ。噂をすれば。芹沢さんだ。話しているのは西野か。あんな暗い顔をするんだな、あいつも。芹沢さんがすごく大人に見えている。なんて遠いんだろう。あの人にぼくは憧れていただけなのかもしれない」
「西野ひかりでござるか。確か、水恩寺から祖母の話を聞かされたと言っていたでござるな。どうやら彼女はキャンプファイヤーには参加しないようでござるよ。引き返していく。KAMIKAZEを憎んでいるでござろう。小生は今なら少しだけ気持ちがわかるでござる」
「そうか。お前は貫くんだな。交わした約束を違えないで生きるつもりなんだ。ぼくには難しい。黒い眼帯で隠された秘密を受け入れることが出来なかった。ぼくの叔父が彼女を壊したんだ」
「みなまでいうまいでござる。小生がご主人殿にダンスを申し込む権利はまだないでござる。なんというか、その──でござる」
「あはは。やっぱり君はぼくの親友だ。さぁ、せっかくだ。何食わぬ顔をして踊ろうぜ。今日のことはきっとずっと覚えている。ぼくと君だけの秘密だ。まあ、あの魔法少女のことはともかくさ、誰か一人ぐらい誘わないと格好つかないぜ、今夜は」
ぼくは魔術科に通う高校二年生で十七歳の誕生日はまだだけれど、おそらく思春期と呼ばれる大人と子供の狭間に産まれる葛藤が芽生える時期を生きている。普通科の生徒達の何気ない会話を耳にする機会なんてそうそうなくて、ぼくは思わず聞き耳を立てて那森弥美に笑われている。そういえば、男の友達というのが少なくて、何かと大切な秘密は彼女に打ち明けていて、出来る限り傷つかない生き方を意図的に選んでいる。そういう性格が災いを呼んでいるのだろうか。教室内では悪戯にぼくに最近仕掛けた術式を構成して挑んでくるクラスメイトが後を絶たないし、いつの間にか意識や行動に制御構造が埋め込まれて制約という条件から解放する為の手順を暗記してきたせいか、自分で言うのもなんだけれど、校内でも有数の知識を学んで実践出来る。当然ながら、ぼくが持っている記号と配列に関する方法論は紛れもなくぼく自身を守る為の武器になっている。誰にもバレないように小さな誤解によって疑念を操り、心に侵入することだって出来てしまう。彼女はそんなぼくの出来心のことをどう思っているのだろうか。人工太陽が西の空に沈んでいき赤く空を染め始めていて、ぼくたちは夜の到来を楽しみに待っている。職員棟から何人か職員が井桁組に向かって笑顔を溢しながら向かってきて、『どうとくのじかん』の最中に見せていた険しい表情とは打って変わってこれから始まるパーティーが筒がなく行われることを彼らも楽しみにしていることが伝わってくる。魔術物理担当の中神は正装と言っても良い魔法使い姿でとんがり帽子に杖を持って、いかにもといった感じで生徒達の声援に応えている。彼女はとても厳しい先生で有名だけれど、きっと今夜だけは彼女が作りだす高等魔術の虜になってぼくたち生徒の心を和ませてくれるだろう。太陽が沈んで夜が訪れれば、何故全国でも有数の進学校である七星学園では魔術科によるエーテルの使用が認められているのかを知ることが出来る。成人を迎えるまでのわずかな間だけ、ぼくたちは本当の自分を曝け出して傷つくことと傷つけられることの価値を手にいれる。二度と訪れることのない大切な時間で私が見つけてしまった見えない自分。ぼくはきっと彼女のことをいつまでも大切に思い続けるに違いない。決して失うことが出来ない記憶の欠片。空を燃え盛る太陽の色が染め上げていくタイミングで魔術物理教師中神の右手に携えた『太陽の吐息』と左手で燃え上がる『耐え忍ぶ業火』が融合され、副生徒会長、三島沙耶の合図で特別登校日、最後の行事であるキャンプファイヤーが始まりだす。吹奏楽部が指揮を取ってフォークダンスの伴奏が次々に演奏されていく。魔術科も普通科も関係なく、中央で燃え上がる炎を中心にしてそれぞれのパートナーと手を取り合って不慣れな足取りとおぼつかない表情や満面の笑みではしゃぐ生徒達の声が沈んでいく太陽を背景にして拡がっていく。寂しさが解消されて、ほんの僅かな時間だけれど、充足という時間が再生される。
「さぁ、そろそろだ。もう伝えたい気持ちは決まったよ。ちょうど炎の周りが空いているからあの場所で発行しよう。不用意な術式の発行は先生達に睨まられる可能性があるけれど、逆に堂々とさえしていれば見過ごされる可能性だってある」
「さすがの真司もみんなの前では悪いことなんて出来ないか。いいよ。その前にジュース取りに行こう。お腹も少し空いちゃったし、あー、そうだな。カレーライスがいいかも」
白い屋根のテントで職員達が用意したジュースやお菓子やフードが配られていて、ダンスに飽きた生徒達が冗談を言い合っている。さっき大ホールで起きていた奇妙な現象のことを忘れたようにして魔術の干渉を受けて気力を奪われていた生徒達ですら笑顔を取り戻している。日没を前にして空から陽の光が失われていく時間はとても貴重で交代で演奏を続ける吹奏楽部の演目に疲れた生徒達が座り込み、キャンプファイヤーの光景を思い出に刻み込んでいる。
「ねぇ、ねぇ、さっきのなんだったのかな。ぱぁーって光がさ、拡がってさ」
「うん。そう。去年のと全然違う。ちょっと疲れちゃった、私」
「わかんない。だって見てただけだしさ。ちゃんと拘束体嵌めてたしさ。うーん」
「あ。やっぱり? 私も。なんか上級生とか騒いでいる人いてさ。あーあの、悠宇魔さんだっけ」
「なんかすごい悔しそうな顔してたよなー。あの人でもあーいう顔するんだって思った」
「どうかな。実際さ、三年の連中の思う壺なんじゃない。結局エーテルってさ」
「うわ。でた。またそういうこという。あのさ、普通に傷つくんだけど、それ」
「違うってそういう意味じゃねーよ。あーいう人と比べてさ、俺たちは──」
「だから、それが傷つくんだろ。何にもかわんねーって思うんだけどな」
「ふん。どうだろうね。私はさ──」
 何人かの生徒が集まって職員達の用意したカレーとそれからいくつかの軽食を食べながら、ウーロン茶やオレンジジュースを呑みながら大ホールで起きていた術式の影響について話し合っている。ザファーストチルドレン筆頭巡音悠宇魔に、普通科始まって以来の天才『グラニューラーヘッド≒記号と配列の魔術師=横尾深愛』、そして『破滅と破壊のブラックエンド』西野ひかりはaemethの感染者であり、ナンバーズのひとり。たった三人が引き起こした未曾有の事件は物言わぬ生徒達に抑圧と圧迫をもたらし、ぼくは彼らの策略を利用して那森弥美を救い出すことに成功した。彼女に与えられた54の傷跡は結局のところaemethそのものを浄化させるまでには至らなかった。だからこそ、ぼくに一抹の不安を過らせたまま時計の針は十八時を回る。もし、『フラクタルスリー』が成功していなければ、まだaemethは那森弥美の体内に残っていることになる。彼女は脳内でアルテミスと会話してヘラクレスとの不完全な融合で干渉したぼくのことを嘲笑っているのかもしれない。
「ねえ、それで大丈夫? 体調悪いって言ってたじゃん。医務室とか行く?」
「うーん。平気。なんかそういうんじゃなくて力が入らないっていうかさ。あのさ──」
「何? お水でも持ってこようか?」
「そうじゃなくて。チルドレンオブフォールでさ、いつも名前張り出される人たちいるでしょ、魔術科の」
「あーうん。彼らは流石に顔ぐらいは知ってる。名前は──まあ、あんまり覚えていないけど」
「あの人たちは私より酷い顔してたよ。生贄がどうとかって騒いでる人もいた」
「あぁ。うん。先生達は結局何も言わなかった。一学期の途中から変だよねってみんな気づいてたはずなのに」
「私たちだってこの学園に入学したことをちゃんと考えなくちゃって思った」
「もしかしたら世の中はこうなってるって」
「そうだね。私もそう思った。きっと犠牲になる人のことは誰も覚えておいてくれない」
「私たちもエーテルはいつか失っちゃう。正しいことだけを選択するべきなんだろうね」
 聴覚が鋭敏になっているのは『フラクタルスリー』の影響のはずだ。高位構成術式である一番から十番までの魔術を『フラクタル』と呼び、特殊な条件と環境によって成立させることが出来る。けれど、訓練を積んだものでない限り、対価や後遺症の類は発生する。根源を知ろうとするものに精霊は容赦をしない。抑止力が全ての運命を破壊してしまう。ぼくは普通科の下級生や魔術科の他のクラスの生徒達が騒いでいる様子を全て知っている。キャンプファイヤーの炎を弄ぶようにして魔術物理の中神と見せる高等術式に魅入られている生徒達のように能天気にはなれない。違和感がずっと晴れない。那森弥美はずっと傍にいてくれる。彼女の左腕からは傷跡は完全に消えて無くなったはずだ。どこにも見当たらない。だけど──
「ねぇ。真司君。私たちはね、恋人同士だってちゃんと周りの人たちにも伝わってるかな。いつもだったら仲の良い友達同士ぐらいにしか思われていない感じがしたけど、今日は周りの視線がちょっと違う」
「あはは。弥美が余分なことに囚われなくなってしまったことがきっと原因だよ。もうaemethには縛られなくてもいい。君が誰かの犠牲になって幸せを配る必要なんてなくなったんだ。黒生先輩だって許してくれているよ。その証拠にほら──」
 まさに心身を使い果たしたと言った感じだった巡音悠宇魔先輩は校庭には出てきておらず、彼の左腕である百舌先輩と廓井芒理先輩が黒生先輩と話をしているけれど、彼らの会話まではぼくは拾うことは出来ない。結界によって閉鎖空間として成立していた大ホール内部での出来事ならともかくとして、いくら『フラクタルスリー』が発動状態にあったとしても第一グラウンドのような密閉空間では彼らの交わしている密約条件までは把握することができない。高位の術者である彼ら自身には領域と呼ばれる能力の有効射程が存在している為に、『フラクタルスリー』によってもたらされる領域範囲の知覚認識を共有するまでは至らないというわけだ。けれど、那森弥美に『aemeth』の封印術式を施した張本人である黒生夜果里先輩はどうやら彼女のことを見逃すようだ。思考性ウィルスである『aemeth』がナンバーズを量産していたのは事実だし、七星町で起きていた連続殺人事件の多くがaemeth感染者が引き起こしていた。学園や周辺地域の治安を守れると同時に悠宇魔先輩へ捧げられる生贄のエーテルを『Re:aemeth』としてリプログラミングしていくこと。那森弥美が引き受けた代償をぼくはどうしても許すことが出来なかった。だから、ぼくはきっと彼女の本当の笑顔を取り戻すことが出来るはずだって手のひらに魔術番号6475番『詩は夢に置き換えられたまま幻想だけにしがみつく』に必要な形而上に存在している記号と配列のパラドックスに関する短いなラブソングをボールペンのインクで書き込む。
「18;55。後三分後に、陽が沈む。必要な手順はちゃんと踏んだはずだし、準備も万端だ。キャンプファイヤーにまた火が焚べられた。燃え盛る炎の前であれば、ぼくたちはきっと嘘がつけない。急ごう。最後に必要なのはたった一つだけ。お互いの右手のひらを重ね合わせるだけだ。君の身体に魔術抗体を発生させて、『aemeth』を含む概念系病原菌の類の感染を防ぐことが出来る。君はもう二度と誰かに利用なんてされなくて済む。エーテルは意志を侵食するんだ」
「わかった。私がしたことが君を傷つけてしまったことは謝ろう。失ってしまうぐらいなら縛り付けてもらったほうがずっと正しいと考えていた私が愚かだったのかもしれない。代償を求めてしまうのなら、私は何も手に入れられなくたっていいって信じていた。私はもう二度と本当のことを知ろうとは思わないよ」
「君自身をもう責める必要がないだけだ。ぼくがどうなるのかは関係がないよ。だから安心していい。後二分。心の準備はもういいかい?」
「うん、了解。私もきちんと書き込んだ。君に言葉は伝えなくていい。秘密にしているだけで発行される。口を閉じよう。私は君にとって大切な瞬間だけを閉じ込めてしまえる」
 ぼくたち二人の姿を見て魔術物理教師の中神が井桁組に炎を放り込む。勢いを増したキャンプファイヤーが周りを取り囲んで踊っている七星学園の生徒たちの顔を照らしている。顔が火照って頬を赤く染めている。踊りながら手を握って鼓動が高鳴っていることの区別がつかなくなって心臓の音が相手に聞こえてしまいそうで気恥ずかしくなるけれど、吹奏楽部の演奏する金管楽器の音色が感情を昂らせているのを感じ取る。ぼくと那森弥美は顔を見合わせてしっかりとお互いの考えていることを確認すると、瞳の中に反射している自分の姿を見つけて答えを確信へと変える。息を吸って胸を膨らませてこれから訪れる未来のことを少しだけ考えた後に打ち消して18;58ちょうどに黒灯真司と那森弥美は右手のひらを重ね合わせて『詩は夢に置き換えられたまま幻想だけにしがみつく』を発行する。
「ほら、見て! 流星群だ! 空が明るく光ってるよ!」
わぁぁぁーと突然生徒たちから歓声があがり、皆が空を見上げながら騒ぎ始める。大量の流れ星のような光が夜空を埋め尽くす。空へ向けた一眼レフカメラを構えて流れ落ちる光を捉えようとしている芹沢美沙が一人でいるのを見つけた佐々木和人がいつの日かそうしたように思い切って勇気を出して話し掛ける。
「あれはチルドレ☆ン古代種殲滅部隊第十三小隊の予行演習の光だよね。ネットに落ちてた眉唾モノの情報だけどさ。うん。神様みたいな連中、この学園にいなきゃ実感湧かないけどさ、ほんとにいるんだよね」
「神様たちは私たちに解けない知恵の輪のような物語をたまに送ってくるんだなって私最近よく思うんだ。とても難しい」
「そうかもしれない。いつまでも解けないパズルにどうやってもしがみついてしまう。抜け出せない抜け出したくない毎日の中をずっと過ごしてる。そしていつかぼくらは大人になってしまう」
「私はこの学園を出たら、プロのカメラマンになるんです。私に残された右眼だけで一つ一つ丁寧に世界を確認して切り取って大切にとっておきたいんです」
芹沢美沙はまだ手に入れたばかりのデジタル一眼レフカメラを大事そうに抱えてまるで流れ星のように降り注ぐ古代種殲滅部隊第十三小隊の予行演習の光で埋め尽くされた夜空を眺めながらそう呟く。
「ぼくは何になるのだろう。案外違う形で世界を切り取っているのかもしれない」
「きっと、私たちは自らの力で自ら進むべき道を選び取ることしかできないんだろうね。だからきっとそれはそんなに難しい話ではないのかもしれない」
「いえす、マイロード。この眼はあなたの未来を見つめるために。この手はあなたを守るために。この足はあなたより先にあなたの居場所を見つけるために。そして、この心は──いえ、それはぼくたちがお互いの目的を叶える時まで取っておきましょう」
そうして、佐々木和人は右膝を地面について腰を落とし、芹沢美沙の左手の甲に軽く口づけをする。キャンプファイヤーは最後のフォークダンスに突入していて生徒たちが思い思いに自由な踊りを踊り楽しんでいる。
「ありがとうございます。あなたの気持ちがきちんと伝わりました。とても難しい話をしてしまったけれど、勇気を出してくれました。受け入れてくれたことを素直に喜びたいと思っています。だから、一つだけあなたに願い事を託したいんです。この手紙を大切に持っていてもらえませんか? 貴方なら必ずやり遂げることが出来ると思っています。とても大切な設計図。もし良かったら夢を叶えてください。だから、私は貴方の思いにはきっと応えられません」
 佐々木和人は芹沢美沙からくしゃくしゃになったギャグボールの設計図として手渡されたくしゃくしゃになった折り紙を胸ポケットにしまうと本当に心の底から悔しそうに涙を流す。
「ぼくが間違ってました。本当にごめんなさい。ぼくの叔父がしたことは決して許されることではありません。貴方から未来を奪ったことを本当に心から受け止めていきたいと思います」
泣きじゃくりながら佐々木和人がうずくまる。井桁組に焚べられた炎がさらに勢いをましてぼくと那森弥美の顔を照らして手のひらに書き込まれた形而上に存在している記号と配列のパラドックスに関する短いなラブソングを符合させる。二人の両手から光が発せられると、彼女の口から思っても見なかった言葉が発せられる。
「あはは。やっぱりだ。真司は過ちを冒したりしない。君が感じていた不安がきちんと私にも伝わっている。失ってしまうんだってことをもしかしたら何処かで知っていたのかもしれない。だから──」
 ぼくは思わず下を俯き彼女と呼吸と鼓動と言動から伝わってくる真意を知り那森弥美が手に入れようとしていた本当の答えを『詩は夢に置き換えられたまま幻想だけにしがみつく』によって発行する。
「じゃあやっぱり君は──」
 那森弥美の顔から血の気が失せていく。見返りを求めなかった代償が彼女の全身を覆っていく。引き返すことの出来ない道程を辿っているうちにぼくと彼女は『aemeth』が引き起こす精神汚染によって正常性から逸脱していく。彼女は既に声帯を侵食されていて、二人が共有している記憶の外側から語りかけてくる。
「ご明答。私がaemethだ。不特定多数の人格がプログラムとしてクラウド空間上で輪郭を形成して統合され君に語りかけている。音声情報と対象範囲の心理分析による状況設定は私が開発した合成遺伝子『Rien』をベースに病原菌としてガイアにインストールさせてもらった。不整合な回路を完全に絶滅させることが出来る。『アルターヘブン』の到来はもうすぐそこだよ。全て予定通りだ。何も心配はいらない」
「弥美が何処にいったのかは大体想像がつく。『aemeth』を分析すれば人格が破壊されている箇所が発見出来た。彼女が穴水で犠牲にしてきたもの。それに代償として奪われるはずの舌腱膜を補完するために6475番を発行しなければいけなかった。君たちがどうして彼女にエーテルが存在しながら寄生出来ていたのか理解したよ。確かにぼくの演算に狂いはない」
「私が彼女の体を奪い取っていることにいつ気付いた? 君が私の舌腱膜を奪おうと脅しをかけていた理由もあらかた理解した。だが、この子はまだ使える。君に渡すわけには行かないな。あれを作ったのが君ならば尚更だ」
 キャンプファイヤーが校庭の中央で強く燃え盛り勢いが増し、ぼくと那森弥美、いや『aemeth』と名乗る少女を照らしだす。吹奏楽部の演奏する最後のマイム・マイムに合わせて七星学園の生徒達が同心円状にフォークダンスを踊り、思い思いの時間を過ごす喜びをそれぞれのパートナーと堪能している。
「お前が学園内の幾つかの時間に関与しているのならば、この状況にだって大体察しは尽くさ。『ブラックエンド』では制圧出来なかった。だが、なぜアルテミスを捕食できた? 聖人の干渉能力を甘く見ているのはお前じゃないか」
「さすがは黒灯真司。レベル6に該当する君の知性ならば、私が表面化しなかった理由までおおよそ把握しているということだね。では、質問だ。6475番の反転術式に必要な触媒とは一体なんだ。君ならば、私の創り出した命題を解き明かせる。幻想を絶望に変えるパラドックスを手に入れることが出来るかな」
「那森弥美は合計で14のピアスを左耳に開けている。つまり、彼は喪失の代償として対価を獲得しているはずだ。-6475番の触媒は砂だけれど、彼女の意志は日の入り以前に消失していた可能性がある。つまりは彼女が残した最後のメッセージにお前が暗闇に潜み続けられる理由がある。彼女が校庭に指先で書き残していた言の葉。お前の本当の名前だな」
「推理に無駄がないな、黒灯真司。お前が行き着いた答えから確かにあの子に対する恋慕を感じるよ。私が奪うのは想像力だ。私のサーバーにアクセスした連中がナンバーズと呼ばれるのは彼らが脆弱だからさ。暴力衝動を抑えきることが出来ない。発狂する遺伝子のコピーを私だけが許してあげられる。なぁ、パンはエーテルの存在を肯定できなかったのを知っているか。『スペルマ』さえいれば、Rienは狂気を喰らい続ける。お前なら失うことが出来るか? 肺病が存在を否定した瞬間にあの子はお前に本当の気持ちを告白するだろう」
「だめだ。ぼくは『夜のエーテル』を失わない。君の自由と引き換えにぼくはエーテル存在確率を信じなければいけない。声が届いているのならそれでいい。螺旋構造を貫けば、分離する可能性は存在する」
 左眼を左手で押さえて、ぼくが『夜のエーテル』を発動させようとするけれど、那森弥美と『aemeth』の接合されている箇所を探し出そうとするのと同時に突風が吹き、キャンプファイヤーの炎の勢いが増して、ぼくと那森弥美の距離を遮断してしまう。
「忘れるな。私はお前の傍から離れたりはしない。本当の意味で私を求めてさえくれるのであれば、いずれ会うこともあるだろう。この身体はもらっていく。だから、次は──」
 突風と炎が邪魔をして彼女の最後の言葉が聞き取れず異変に気づいた魔術物理教師の中神がぼくの傍に近づくけれど、炎の向こう側で二人の女子生徒が守るようにして間に入ってくると、とても悲しそうな顔をして那森弥美はマイム・マイムで浮かれる生徒達の輪の中へと消え去ってしまう。
「ヤミ。君がこの答えを選ぶとわかっていたからぼくはギャグボールを創ったんだな。彼なら必ずやり遂げる。絶対に君を救ってやる。例え、時空の向こう側で再会する恋人同士だったとしてもぼくは諦めたりなんてしてやらないぞ」
 掻き消されていく声がぼくはいつの間にか自分のものではない気がして、涙を流して魔術物理教師の中神の心配をよそに人目もはばからず蹲り嗚咽して失ったものの本当の価値を知ろうとする。

ここから先は

3,269字
この記事のみ ¥ 300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?