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02. Great things are done by a series of small things brought together.

事件があった九月十三日から一ヶ月の間は誰も部室には寄りつかず、何か特別で神聖なものがその場に居座って僕たちを待っているような気がして、だからこそ、逆にそれまでは毎日のように部室に集い、それぞれの描く未来について語っていたぼくらがまるで誰かにそう指示されたようにぴたりと黙り込んで授業などの学生的業務以外にはほとんど会話をすることがなかった。

そうしたかったからというよりも、そうするべきだとそれぞれがそう判断して誰も積極的に連絡を取り合おうともしなかった。

目の前に突然出来てしまった空白に関して触れる必要はきっとなくて、それを大事にしまって誰にも見せたくなかったのかもしれない。

きっと、そのせいで、簡単に気付く綻びのようなものに侵入してきた異物にぼくは全く気付く事が出来なかった。

銀杏並木がすっかり黄色く染まって落ち葉が校舎と校舎の間をひらひらと舞い落ち始めている景色がぼくに時間が過ぎ去ってしまったんだという事実を思い知らせる。

「おはようデござる。和人氏、そろそろ久しぶりに部室に顔を出してみる気はござらんか。誰も集まっていないのかもしれないでござるけれど、なんだかこのままあの場所に行かなくなってしまうのは小生としてもわだかまりが残ってしまうデござる」

そうだよなってとても単純で簡単なことをするべきなのかもしれないと一ヶ月間考える必要のないことを永遠と考え続けていた自分をちょっとだけ戒めるようにちょっとだけ甘い缶コーヒーを口に含みながら白河君の誘いに同意する。

「なんだ、ぼくに付き合ってくれていたのかと思ってた。なんだかあの場所をあの時の時間のまま保存しておきたかったんだ。いいよ、付き合おう。ぼくだってこのままじゃいけないって思っている。先に進むなら早いほうがいいに決まってるよな」

「了解したでござる。今日は確か午前中で授業は終わるデござるな。午後は小生も体育しかないでござるし、サボっても単位は十分足りているデござる。佐々木氏はどうでござるか」

特に授業の予定はないし、梨園がいなくなるまでは三島沙耶と一緒に任意で参加していたコミュニケーション論のゼミもとりあえずは休暇ということで話はついている。

自分の持っているゼミだけで今は精一杯で他の関係を築こうとする余裕を持つ気になれなかったというのが本音だろう。

「わかった。それじゃあ十二時十五分にここに集まろう。ぼくは一限が第三校舎だからまた後で。なんとなく自分からは脚を踏み出しにくかった。誘ってくれてありがとう、白河君。でござる」

高校を卒業したぐらいから彼の語尾のおかしな侍言葉に付き合うこともなくなっていて、彼が狐の獣人になる前のガリガリでヒョロヒョロな出歯のただの根暗野郎であった頃からの口癖はまるでその姿になることを昔から知っていたように現在の姿になった後でもしっくりと馴染んだまま続いているけれど、違和感のようなものを全く感じないのかぼくだけじゃなく他の同級生もすっかり彼のござる言葉を受け入れているようだ。

白河君が運命だと呼び迷わず人間の姿を捨て血の盟約をかわすことで獣人の姿になってしまったきっかけを与えた彼の契約者はいわゆる『魔術回路』持ちと呼ばれる人間で、彼らは六十六年前に起きた世界大戦以前までは、エーテルと呼ばれる微粒子を彼ら特有の遺伝子に起因する肺胞で生成することが出来るため、ぼくら通常の人間では使うことの出来ない魔術という科学とは違う理の物理原則を自由に生成することで政府や軍部を始め社会的に位の高い役職について、極東艦隊『大和』という居住空間一体型巨大宇宙船内部を実効支配していた血族の末裔であり白河君の契約者はその中でも現在まで由緒正しく続く名門家系の子女になる。

魔術とは、現在ぼくらの世界の基本原則になっている科学とは対極に位置する世界の根本原理の一つではあるけれど、一般社会レベルでは大戦以後、『優性人種保護法』などの法規制によって能力を厳しく制限されてしまっている。

特に、白河君が行った血の盟約は契約を交わすことで術者本人の能力を格段に押し上げてしまう一方で、被契約者にはそれ相応の対価が必要になる禁呪中の禁呪であり、もし『優性人種保護法』第十一条──緊急避難時における特例措置──という項目がなければ重罰に処される行為に当たる。

契約以後も白河君と白河君の契約者が無事高校を卒業し、一般生活をぼくらとなんら変わりなく送れている理由は一重に彼の契約者に対する思いと彼の契約者が古代から由緒正しく続く魔術家系による影響力の大きさだと言えるのではないだろうか。

「この大学唯一の獣人が物質生命学科での成績上位者。まあ、内心複雑な連中はたくさんいるだろうな。こんな場所で彼が窮屈さを感じずに生きているってことをぼくは誇らしく思ってしまう」

大学三年も後半を過ぎ、就職組のようにリクルート活動の準備を始める時期でもないぼくにとってそれぞれの授業は単なる知的好奇心を充足させる為の時間にしかならず、およそ一般的な生徒のように気楽に講義を流して時間を潰すというよりは、むしろ積極的に授業の濃度を高めて出来る限り自分の目指したいと考えている環境を創り出す為に利用しようと各々の教授たちとも深く連携を取りながらより深い知識を手に入れようと躍起になっていた。

それは一ヶ月前の悲劇的な事件に囚われず自分を見失わない為にも必要な行為であり、きっとそんな自分を慰める意味でも必要だったのだろう、多分事件前よりほんの少しだけ自分の身体を縛りつけるようにして院生たちの共同研究にも打ち込んでいった。

ぼくの頭の中に住み着いている古代の大魔導師『類』は、彼が魔術によって余剰次元上に保管している魔道具を科学の力によって現世に蘇らせることを望んでいて、ぼくなんかより遥かに出来のいい頭脳であっという間に現代物理学の最先端領域まで彼の知識を拡張してしまうと、決してぼくを甘やかすことなく厳しく指令を下す。

──いいか。俺たち『魔術回路』持ちはお前たちよりほんの少しだけ先の未来を見てお前たちがまだ未解明な科学的事象をエーテルと精霊たちの力を借りて具現化出来る。俺が天界、お前たちの言葉で言えば無意識の領域に渡って大暴れをしていた時代にはまだこの世界では形になっていない技術も存在していたんだ。お前にはより効率的にこの世界の物理法則を深く学習し、俺が持っている魔道具をお前の住んでいる世界に持ち出して欲しいんだ。お前たちは『魔術回路』を眠らせているだけだ。深く学べ。もっと知りたいと考えろ。好奇心に決してブレーキなんてかけるんじゃない──

高校を卒業する祝いだといって、身体と精神に大きな負担をかける実体化魔術を使用してぼくの目の前に現れると、彼は彼が一番最初に手に入れた魔道具だという『永久に光り続ける石』を手渡してくれた。

名前すらつけられていないただの光り輝く石を『類』はぼくに一瞬だけ見せると、古代に重罪を犯した罰から地上には一分間だけ存在を確定させることしか出来ないという呪いによって光を飛び散らせて霧散して消えてしまった。

「それが好きな子にまた会いたいって単純な気持ちからなら手伝えるよって言ったら『類』は大笑いして承諾してくれたんだったな」

午前中の授業は光陰矢の如しという諺の通り、あっという間に時間が過ぎ去ってしまうと、四限のつい二年次に取り損ねた量子物理化学概論の終了間際に窓際の席でボールペンをくるくると回しながらふと大学ノートの端っこに書いた落書きを見つけて包帯によってぐるぐる巻きにされた『類』の似顔絵を見つけた瞬間にぼくと白河君の間に存在する似通った悩みの種を思い浮かべ、つい独り言を呟いてしまった。

終業のチャイムが鳴ると、ぼくはそそくさとノートと教科書と筆記用具をリュックの中に詰め込んで教授への質問の為に教壇周辺に集まる下級生たちの群れを抜けて学生棟三階の南面の一番端っこにある『現代視覚研究部』部室へと急ぎ足で向かう。

「ちょうどぴったりでござるな。さぁ、誰も寄りつかなかったはずだから埃を被っているかもしれないでござる。窓を開け、あの部室に新しい空気を入れ込むとしよう」

学生棟一階に着くと、既に周りから一際浮いている半獣半人の白河君が待ち構えていて周りの学生からの奇異の視線などきにすることなく、ぼくに右手をあげて出迎える。

「なんとなくだけど初心を思い出したところでござるよ。白河君、今日は組み込みを試してみたいハードウェアがあるんだ。名付けて『天才発見くん』。DNAの塩基配列の中に存在する一定の並びが発する特有の信号をキャチすることが出来る優れものだ。何もかも根性。ぼくらの理論が間違っていないことを証明しようぜ」

ガハハと大笑いをして白河君はさも当然だとでもいうように、ぼくと一緒に学生棟の階段をあがる。

いつも部室に立ち寄る時にエレベータを使わない理由はなんとなく気持ちを高める為だって言ったら、乖次と梨園がとても馬鹿にしていたのを思い出す。

「あ、おはよう。久し振りだね。君たち二人がそろそろ来るんじゃないかって思って空気を入れ替えておいたぞ。多分もう少ししたら、ルルも来るんじゃないのかな」

部室の窓際の席で窓を開け、風に当てられて髪をなびかせながら、三島沙耶が手に──※1空像としての世界──という梨園からプレゼントされた本を持ってパイプ椅子に座っている。

「お前は相変わらず気持ち悪いぐらいにぼくらの行動を先読みするな。白河君と二人だけでプログラムに明け暮れようと思っていた気持ちが台無しになってしまったぞ」

「後をついてきているのは君の方だよ、和人。なぜ、小中高だけじゃなく同じ大学まで選んでここにいるのかさっぱり理解出来ない。お前がやりたそうなことはこの子が行った大学の方がよっぽどお似合いなんじゃないのかな」

部室中央の一般的な会議用テーブルの上に薄い週刊誌が置かれていて、三島沙耶が指差している。

よくみると、表紙には黒い眼帯をつけた女性カメラマンの姿が飾られていて、とても見覚えのある同級生の顔だということをすぐに理解して少しだけ動揺する。

「おぉ。芹沢殿は一足先にプロデビューでござるか。一眼レフカメラは高校の時と変わらないモデルでござるな。小生も和人氏と一緒に何度か撮影してもらったことがあるデござるな」

余計なことを言うんじゃないと白河君の肩を叩くと、三島沙耶はハンッと嫌味な顔を晒しながら悪態をつき何も変わっていないなと言う素ぶりで愚痴を言う。

「お前みたいな女々しくていつまでも同じ女の子ことばかり考えているやつだって最初から分かっていたらお前の童貞をもらってやったりなんかしなかったのにナ。私の人生の唯一の汚点だよ、佐々木和人君」

やっぱりこうなるのかと予想通りのいつの日か高校在学中の学校帰りの公園で言われたそっくりそのままの台詞を復唱されたことに苛つく訳にも行かず、ぼくは渋々照れと恥を覆い隠しながら会議用テーブルに置かれた週刊フォトという雑誌を手にとって中身をパラパラとめくる。

巻頭で大々的に特集されている芹沢美沙は黒い眼帯のカメラマンという特異なルックスも合間ってとても期待がかけられているということがよく分かるインタビューになっていた。

「私は解けない知恵の輪のような物語の世界を私の『聞こえない眼』を使って切り取り続けたいと思っています。使命とかそういう難しいことではないけれど、なんとなくそう決められている、そんな気がするんです」

インタビューでなぜカメラマンになろうと思ったのですかというシンプルで一見すると彼女自身の否定として受け取られかねない質問に対して、彼女はそう力強く答えていた。

「ルルはともかくとしてやっぱり乖次はまだこの場所には来ていないんだな。そっとおくことしか出来ないと思ってしまったのとやっぱり自分の身を守るのがせいいっぱいであいつとは俺も連絡を取っていないんだ。授業には出ているんだろうか」

ぼくと白河君と佐知川ルルは理工学部物質生命学科、沙耶は総合グローバル学部総合グローバル学科、そして師元乖次と田上梨園は文学部哲学科。

それぞれ、学部と学科の違いはあるけれど、共通の志の元で知り合い、この『現代視覚研究部』の部室を借りてお互いにインスピレーションを与え続けながら目指すべき到達点のようなものを見据えて研究をしている。

とは名ばかりでなんだかやっぱりちょっとだけ気の合う仲間同士で下らない話をしながら朝まで盛り上がり、ぼくたちは青春を共にしてきたと言える。

「哲学科の梨園の友達に乖次のことをそれとなく聞いてみたけれど、やっぱり授業には出ていないみたいだった。連絡をしてみたほうがいいのかなとも思ったけど、私からじゃおかしいかなって思ってさ」

三島沙耶は分厚い本をパタリと閉じて膝の上に置き、妙に気のきく立ち回りを特にアピールするわけでもなくさりげなくぼくに伝える。

白河君は、ぼくのほうをじっと見つめ力強く頷いてぼくが今、したいと考えていることに同意する。

「正直言ってなんて声をかければいいのか分からなかったんだ。乖次なら一人でなんとかなるとタカを括っていたのかもしれない。つい怖くて言い訳ばかりが先に出てしまう」

「わかっているデござる。けれど、おそらく今乖次殿に連絡を取れそうなのは和人氏だけでござろう。今どうしているかだけでも聞いてみてはどうでござろうか」

もう一度だけ白河君はぼくに念を押すと、部室の棚からジャンク品のトランシーバを取り出して、部室に常備されているノートPCを会議用テーブルに置くと自作プログラミングソフトウェアを立ち上げてキーボードをタイピングし始める。

ぼくは出来るだけ脚の震えが三島沙耶に伝わらないようにスマートフォンをジーンズのポケットから取り出して乖次にメールを送る。

【和人@どうしてる? 今日は久しぶりに部室に集まったんだ。いつでもいいから顔を出しに来い。待ってるぞ】

難しい言葉や飾り付けた言葉を用意するのはとても気が引けて何を伝えたらいいのか分からないので、出来る限り何気ない普段通りの連絡を送る。

返事がすぐに返ってくるわけじゃないのはわかっているけれど、すぐに返信がないことにちょっとだけ怯えている様子を三島沙耶は感じ取ったのか部室の入り口近くの冷蔵庫の上に置かれたコーヒーメーカーからサーバを手にとり、『超神合体アースガルズ』と劇画調の黄色いフォントで書かれたマグカップにホットコーヒーを入れぼくの元に持ってくる。

「大丈夫とは言い切れないのは私にも少しだけわかる。けど、乖次だってことを忘れないであげられるならちゃんとまたここに戻ってくると私は思うな。きっと今私たちに出来ることはそれぐらいなんだよ」

三島沙耶のせいっぱいの言葉を聞き流すことも出来ずにとりあえずぼくはマグカップに口をつけて真っ黒で苦い液体をグイッと飲み干す。

カチャリとドアが開いて佐知川ルルが部室に入ってくる。

「なんだかんだ言っても考えることはみんな同じってことね。実は私は昨日も来てみたけど、電気もついていなかったしそのまま帰宅。なんにせよ、久しぶり。こんな言い方はおかしいかもしれないけれど、元気そうでよかった」

佐知川ルルは荒々しくブリーチされた金髪ではなく、黒髪のシャギーショートヘアを左に流し、ちょうど前髪が左眼を隠しサイドを少しだけ短めにカットしたヘアスタイルに変わっていて多分ぼくたちと同じようにこの一ヶ月間たくさんのことを考えて、自分なりの道を自分自身で決めることにしたのだろうと第一印象で部室のメンバーに伝えてくる。

「ルル殿。確か、以前の機能生物科学の実験の途中でDNAの塩基配列のサンプルデータを盗んできたのではゴザランかったか。よければ、小生にもそのデータを貸して頂きたいでござる。今から小生の体毛を抜き、DNA解析するまでは流石に手間がかかってしまうデござる」

「あはは。そもそもお前じゃ人間のDNAとかけ離れてしまっていて参考にならないだろう。いいよ、確かそのパソコンの隠しフォルダの中にしまってあるはずだ。パスワードは……」

「0426。でござるな」

「おー当たり。私のことをよくわかっているな。それと、開発をするつもりならいいものを持ってきたぞ。まぁ、こんな時に、というのは確かにきついかもしれないけど、だからこそ深く潜れる。どうだ、稔」

佐知川ルルはトレードマークの燕児色の革ジャンのジップを下げて裏地を広げてみせると、ナイロンと牛革の縫い目が一箇所だけほつれた場所から細く紙で巻かれた煙草を取り出して白河君に手渡す。

「なんと。ルル殿は相変わらず攻撃的でござるな。うっかりドープに入って涙でも流してしまったら小生の負けでござる」

白河君は佐知川ルルから手渡された紙巻き煙草に火をつけてスゥーと大きく息を吸い込んで五秒間ほど胸を膨らませて呼吸を止めると豪快に白い煙を吐き出して、ぼくに火のついたブルーベリーの香りを手渡そうとする。

「結局こうなるな。まあ、でもそれがぼくたちだ。意識を接合して、無機物と有機物の差異を理解して閉ざされた視覚を解放する。一ヶ月空いたところで誰も忘れてなかったな」

ぼくは独特の香りのする煙草を白河君よりもっと深く体内に取り込んで味と匂いを全身に取り込むようにして出来る限り長く息を止めて一気に身体の中に溜まっていた煙を吐き出して『現代視覚研究部』の部室を白く濁らせる。

三島沙耶は一足先にぼく達のやることに気付いていたのかしっかりと窓を閉めてカーテンで外からの視線を覆い隠そうとしている。

「ふー。少しは遠慮しなさいよ。なんだかんだで、私たちは学校から睨まれているんだしさ」

沙耶の説教じみた相変わらずの発言を軽く聞き流し、手に持った火種を手渡そうと催促するけれど、沙耶は右手を振って拒否の意志を示す。

ルルが沙耶の肩に手を回して彼女を茶化しながら、ぼくから煙草を奪い取りぼくと白河君と同じようにゆっくりと息を吸ってぼくたちが交わした約束を決して忘れないように何もかも呑み込んで息を吐き出す。

さっきよりもっと部室の中が白く濁っていく様子をみて、ぼくとルルは思わず噴き出して笑い合う。

白河君はニヤリと怪しい表情を浮かべるとさっきよりタイピングスピードを早めてノートパソコンの中に描かれる数字と記号の作り出す幻影の中に埋れていこうとする。

白河君の胸元から『アースガルズ』がヒョコリと顔を出してニヤリと超合金で出来た顔に笑いを浮かべたかと思うと勢いよく飛び出して会議用テーブルの上に飛び乗ると、部室の入り口からみて左隅に置かれたアンプを指差して──ミュージックスタート! ──と叫ぶと、アンプの隣に置かれた三十センチほどの小型スピーカーから──※2Jimi Hendrix=Purple Haze──が流れ出す。

渇いたディストーションギターがリズムを刻みだすと、佐知川ルルはヒョイと会議用テーブルの上に腰掛けてとても色気のあるヴォーカルに合わせるようにして、現在ぼくらが開発中の『天才発見君』の基礎的な理論と新しい玩具の魅力をとても楽しそうに話し始める。

ぼくはルルのしゃがれたハスキーボイスがいつものようにノリ始めたのを確かめるとリュックの中から銀色のノートPCを取り出して昨日の夜自宅でどうしても手を動かしたくなり組み込みでおいたプログラムの続きを記述し始める。

沙耶は冷蔵庫の上の戸棚からチョコレートクッキーを取り出すと皿に盛りテーブルの上に置き、パクリと一口だけ口にしてさっきまで座っていた窓際のパイプ椅子に腰掛けると縫製がほつれて痛んだ黒いソファの方を向いて誰も座っていないことにほんの少しだけ悲しい笑顔を浮かべると手元に置かれたマグカップのコーヒーを口にしてさっきまで読み進めていた本の世界に没入する。

ホログラフィック理論について書かれた田上梨園から三島沙耶への贈り物は部室を満たしていく白い煙に混じってちょうど一ヶ月前の午後二時に教会の神父によって発見された梨園の姿をもう一度だけ写像してくれるような気がしたのか沙耶はゆっくりと一つ一つ丁寧に本に書かれた理論を体内の細胞一つ一つに取り込むようにして感じ取る。

三島沙耶の鼓膜に届く音が立体的な形になって振動していてどうしても何かを一生懸命置き去りにしようとする三人分の笑い声が言葉として届く前に滲んでしまい、うまく本の中に入り込んでいけない。

意味と意味が切り離されて独立したまま届くたびに、孤独を伝えようとする文節同士が三島沙耶に寄り添おうと近付いてくる。

どうしていいのか分からず、パラパラとページを思わずめくってしまい、知ってはいけないこと、知る必要のなかったことが記憶に残ろうとする前に、三島沙耶の視覚に空気が滲んでしまうような刺激を与えてくると、部室のカーテンを締め切ったガラス窓の向こう側から誰かがなんの変哲もない奇妙な猜疑心を混入させようと企んでいるのを感じる。

なんとなく三百六十五ページ目をふと開くと、金色の縁取りがされた白い封筒に手書きで見覚えのある文字で──沙耶へ──と書かれているのを発見して思わず息を呑み、聞こえていたはずの笑い声がすっかり彼女の周囲からいなくなっていることに気付く。

もしかしたら、特別なお願いが教会の黄金のキリスト像に届いて祈りが具現化して本の中に現れたのかと思い、怖くて不安になり、恐る恐る右手の指先を伸ばし、そっとコットンで出来た白い封筒の手触りを確かめる。

迷いがどこかへ行ってしまわないように頼りになる灯りが欲しくて、顔をあげて会議用テーブルの向こう側でノートPCに向き合ってまるでここではないどこかと一人きりの世界に閉じこもったまま通信しているような姿を見つめ直し、自分がどこにも動いていないのだということをもう一度だけ確認して、思い切って白い封筒を手に取り、中から折り畳まれた便箋を取り出す。

──おはよう。それとも、こんにちは、かな。私がもしあなたの傍で時間を過ごしてあげられない時に寂しい思いをしないようにと私の大切な記憶の一部をプレゼントすることにしました。沙耶がたった一人でこの本を読んでいるのだとしたら、思わず私にメールをしたり電話をかけたりしないようにきちんと最後まで読んでくださいね。私からあなたに届けられる精一杯の気持ちをこの小さな便箋の中に閉じ込めてみたのです。ちゃんと伝わっているでしょうか。

和人君とあなたの関係はとても羨ましく感じてしまうけれど、きっとあなたにとってはなんでもない普通のことで私が師元ともし二度と会えなくなってしまったらというはしたない情念のようなものとはきっと別の気持ちなんでしょうか。人生の中でとても大切でかけがえのない時間を一緒に過ごしたはずなのに、もしかしたらその時間は訪れないのかもしれないとわかっているはずなのにあなたたち二人はそんなことまるで関係がないって顔をしていつも気楽に冗談を言い合い、溢してしまったお盆の水のことなんて見てもいないってことにとても嫉妬してしまうことがあるんです。そんな気持ちをひた隠しにしている私は嫌な女でしょうか。でも沙耶ならとても明るく軽快に私のつまらないウジウジした気持ちなんて簡単に見透かしてまるで特別なエーテルを使った魔法みたいにそんな私をすっかり元通りにしてくれるに違いありません。だから今もこうして今すぐにでも電話をかけておしゃべりをしたいって気持ちを抑えて、出来るだけあなたの手元にずっと残してもらえそうな手紙を書くことにしています。やっぱり私にとって沙耶はとても大切な人だから。

もしこの手紙を部室で読んでいるのだとしたら、今頃真っ白な煙とちょっと癖のある植物の匂いと和人君お気に入りの音楽を『アースガルズ』が流してくれているのでしょうか。その時、私はまたちょっとだけ苦笑いをしながらもいつも通りソファの上で師元の肩に寄り添って堅苦しくて小難しい与太話をルルの語っている物質生命に関する基礎理論の合間に茶々を入れながら彼らにつられて大笑いをしているのでしょうか。私は出来るだけ思考をクリアに保っておきたいという考えから彼らの誘いに乗ることはないけれど、沙耶みたいにもう少し気軽に受け答えが出来る様になったらいいのにナ、と考えることがあります。私はなんだか沙耶のことを羨んでばかりですね。これは二人だけの秘密だと思って打ち明けますが、師元は一人きりで時折自分の中に閉じこもり、和人君達とは違うお薬を利用していることがあるようです。もちろん私も彼と似た部分があり、頭の中に産まれてくる着想を丁寧に紐解いて概念として摘出したいと考えている時などはやはり誰とも話をせず正確に自分の中にある言葉を拾い集めている時があります。師元はそんな私の状態を察して自然と距離を取り、私の気の済むまで作業に没頭することを許してくれるとても信頼の出来るだけ人(ここは少しだけ惚気ています。羨ましいですか? )だけれど、師元はどうやらそんな折、中南米中の悪い顔をした人々が日夜利用している類の植物から生成された化合物をどこからか手に入れてより深く鋭い思想を手にしようと躍起になっている部分があることを私は知ってしまったのです。けれど、例えば、映画やテレビドラマに出てくるような役者さんたちのように顔面を蒼白させ精神虚脱状態に陥って忘我を露わにするようなことは確かにありません。ほんの少しだけ優しい師元が珍しく乱暴な言葉遣いになったり苛立ちを感じさせることが顕著にあることはあっても、それはとても酷い喧嘩をした次のデートの時のような違和感に近くて、私はちょっとだけ大人になって彼を包み込もうと努力をします。もちろんあまりいい気分ではないけれど、私が論文を書き上げたいと考えている時の錯乱状態に比べればとても可愛いものです。ただ、やはり誰にも打ち明けることが出来ず、彼がもしかしたらとても遠い世界に行ってしまうかもしれないという不安がちょっとずつ大きくなっていることを認めざるを得ません。だから今日はとても長い道程を歩いた後に背中に背負ったリュックからいくつか手渡すべき荷物を手渡すようにして沙耶に分け与えています。とても迷惑なことだって分かってはいるけれど、私の我侭を許して下さいね。師元がもし劣化した普遍性を選択しようとする時が訪れたのならば、私に沙耶の力を貸して下さい。これは『現代視覚研究部』でも特に私にとって大切な沙耶にだけ打ち明ける田上梨園の秘密です。大切に保管してどこにもなくさないように──

──追伸。とても気になる変化が訪れました。個人的に私の研究の成果の一つが形になるのかもしれないと学生の身でありながら傲り昂ぶろうとしている私をいつまでも見守って下さいね。とても長い手紙になってしまったけれど、最後まで読んでくれてありがとう。本当に嬉しいです。あなたといつまでも共にあらんことを。メルキオール、バルタザール、そしてガスパールが永遠なることを。田上梨園──

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