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06.Sink into The Sin

「借りていたノートを返しておきたいの。今日の放課後時間取れるかしら」

西野ひかりは七星学園第一正門前に水恩寺リリカを登校前に呼び出すと簡単な用事を伝える。彼女のいうノートは水恩寺が知野川とこっそり書きためた合成術式のことを言っているのだろう。悪戯書きみたいなものだろうけど、西野ひかりはとても真剣にノートのことを話していたのでもしかしたら鮪が水族館から消滅してしまったのもそのせいなのかもしれないと西野ひかりに手を振りながら相変わらずバタバタと慌てて水恩寺は自分の出来る限りのことをするべきだと考えて承諾すると、少しだけ遠回りをして魔術科棟へと急いで走り出す。

「今日はずいぶん早い登校だね。それになんだかすごく疲れている。昨日は先に一人で帰ってしまったけど大丈夫だったのかな」

どうやら髪の毛を自分で鋤いたのかとてもアンバランスで切り揃っていないヘアスタイルに変えたことには触れずいつもはぎりぎりに登校してくるはずの弥美に向かってぼくは話し掛ける。季節柄半袖になったワイシャツからはみ出た左腕はその場所だけ誰かの持ち物であるかのように切り傷が無数につけられていて、ともすればその場で壊れてしまいそうな雰囲気を与えていることにおそらくぼく以外は誰も気にとめようとしていない。たぶん腫れ物に触るような気持ちで彼女との距離を保とうとしているのかもしれないけれど、弥美がそれを望んでいるのだろうという返答をぼくは受け取る。

「そう。別に」

素っ気なさにはそれ以上の意図は感じられないけれど、複雑に入り組んでいるような左腕の傷跡の正体がとても難解な合成術式であることをぼくは気付いているのだということを伝える手段がなく彼女の提案を素直に受け入れることにする。たぶんちょっとしたバランスを崩してしまえば術者本人に悟られて第三者の介入に気付かれてしまうだろう。傷跡の深さと三角関数を利用した入射角と反射角のバランス構成から754番の反転術式──迷い道で見つけた人食い兎からの伝言──の変形であると推測する。たぶん相当に高位な術者であることから教員もしくは三年生でも

有数のエーテル使いの仕業だろう。ほんの少しだけ漂う嗅ぎ覚えのある烙印にぼくはまずは弥美の安全を最優先することにしようと最良の選択肢を取ることにする。

「わかったよ。けど。ぼくを舐めちゃだめだ。分解することは簡単。ようは気付かれないように再構成することだけが問題なだけ」

弥美は無言で何も言わず俯きながら左手の傷痕に触れている。左耳を見たら痛々しく赤く腫れていてピアスの数が十六個に増えている。少しだけ嫉妬して息苦しくなりぼくも確かなアイデアが浮かぶまでは無闇な接触は控えなければいけないと肝に銘じる。金獅子は用意周到でぼくのエーテルが少しでも発動する機会を伺いながらすぐ傍にトラップを配置しているのかもしれない。弥美が手渡してくれたものを決して見失わないように学園内に縦横無尽に張り巡らされた結界を瓦解する手段をぼくは必要としているのだということを思い知らされる。

──いにしえ──と誰にも聞こえない声でこっそりと呟いている弥美がちょっとだけ鼻歌を歌っているような気がしたけれどきっと気のせいだろうってぼくはとても気分良く窓の外を眺めて窓の外を這いずり回っている暗闇の痕跡を辿る方法に思索を張り巡らせる。

「本日からこのクラスの魔術数学を担当することになった羽生です。急な話ですが柿元先生は一身上の都合で退職なされました」

青白く痩せ細った羽生という新しい教師が二限の魔術数学IIを受け持つことになり、自己紹介を簡単に済ませた後に∞に関する領域から任意の空間座標(x'y'z)を取り出して周期的に変化しているエーテルのスペクトラム関数と符合する整数Kと同時に存在出来るだけのエーテル値elを求めなさいという例題を方程式を使って黒板に無言で記入していく。突然訪れた変化に生徒たちは驚いている暇もないままただ淡々と入れ替わっただけの教師の顔と数式をぼくらは受け入れるがままチョークが黒板を叩くカツカツという音に耳を澄ませている。

「はい。先生。先々週までの三角関数を使ったエーテル反射法則の定理の授業がまだ途中でした。テスト範囲は考慮されますか」

風紀委員の槌木亜美の質問に羽生は無言で右手側の空白の黒板に大きく丸を描いてサインを送る。あまりコミュニケーションのようなものは羽生は得意ではないらしい。槌木は納得したのか手を下げて素直に板書している。羽生の文字は理路整然と整頓されていて乱雑に黒板全体を使って書き込んでいく柿元とは違い丁寧で見易かった。けれど、やはり昨日見た柿元の局部を切り裂かれた絵のことを思い出すととても不安な気分になりチョークが黒板を叩く音だけが鳴り響く教室に染み渡る静寂に包まれていることがまるで狂気と隣り合わせでいるようでとても息苦しく感じてしまった。

「きゃーー!」

沖上千弥が右から二列目前から五番目の席で急に叫び声をあげて左斜め前に座っている宝生院のほうを見ている。周りの生徒がざわつき始めて宝生院に視線が注目している。羽生が振り向いて宝生院に向かってすぐに保健室に行きなさい、保健委員の黒灯が付き添うようにと告げてくる。ぼくは立ち上がり宝生院の席まで向かうと宝生院の机の上は真っ赤に染まり、どうやらカッターナイフで指先を切ってしまったらしい。傍によると、宝生院は赤く染まった左手を右手で抑えるとぼくの目を見て保健室に付き添うように無言で伝えてくる。羽生はぼくの対応を確認するとすぐに黒板の方へ向き直り、視界を染めようとする鮮血に気を取られてしまわないように忌まわしいものから逃れるようにしてチョークが黒板を叩く音に神経を集中し始める。

「痛くはないの。心配しないでね。ただとても派手に血が出てしまう。私のエーテルは感覚を反転させてしまうの。苦痛が快楽に。快楽が苦痛に」

宝生院の言うことを信じるのだとすれば彼女の今の気分を察することは容易い。少しだけ複雑な気分だけれど、まずは保健室に連れて行くしかないだろう。

「それじゃあもしかしたら自分の身体を切り刻みたくなってしまう時があるってことかな」

「そうね。自制するのがやっとなのって伝えたら私の気持ちがわかってもらえるかな」

「けれど、常態では術能が発揮されている訳ではないのだろう?」

「あなたと話してみたかったと言ったらどういう反応をするかしら。黒灯君」

「ぼくに興味があるって素直に受け取ることにする。けれど君の口振りでは異性としてというより言外の意味を少しだけ感じてしまう」

「なぜあなたはクラスメイトの意地悪が通用しないのかな。あなたと話していると、ほとんどの術式が無効化されてしまう」

ぼくは立ち止まって前を歩く宝生院の言葉に惑わされないように注意をする。彼女の左手の出血は既に止まっているようだ。また綻びを見つけてぼくは正しい配置に物事を戻したくな   ってしまう。

「それで君が代表でぼくのところへ来たってわけだ。2-βは結界みたいなものがふとしたきっかけで作動する」

宝生院は振り向いてとても端正な顔立ちをぼくのほうに向けてくる。男子生徒の人気ランキングではいつも上位に彼女は数えられている。

「那森さんと親しそうにしているのが私たちには不思議なの。だから出来るだけ複雑な術式を私たちは用意している」

「君達が仕掛けた術式の僅かな綻びにぼくが反応した途端に記号と配列は分解されている」

「わかっているならいいのよ。私もあまり好きじゃないから。一部の男子と女子がやっていることに苛立ってしまって。あなたならもっと直接的な手段があるはずだから」

保健室について嘱託医の両儀先生が宝生院の傷跡をみてかなり深いことにびっくりしている。壊死した細胞を復旧させる魔術は対価となる触媒がとても高級な場合が多い。エメラルドやサファイアなんてこの学校には用意されていないのよとぼやきながら薬を塗り包帯を撒き、しばらくベッドで休むようにと指示をする。

「宝生院さんならもう大丈夫よ。あなたもクラスに戻りなさい。あまり女の子の悪戯に乗るのはよくないわね。宝生院家は有名な医術家系。あなたの心配することはなに一つないと思うわ」

例えばちょっとした不満が教室の中を漂っていたとする。悪意や嫉妬や猜疑心が記号としてぼくの視覚の中に現象や物質となって表出し始める。或いは聴覚的な問題として不快さや嫌悪感や疎ましさがいつのまにか侵入してきて黒い箱のようなものにぼくを閉じ込めようと覆い囲んでいる瞬間が存在している。少しだけ位相をずらして空間における座標を反転させたり対位法によって変換させた帯域にエーテル粒子体を分散させて原我と自我を転移させる。すると、教師が気付いて奇異の目線を向けてくる。クラスメイトが舌打ちをして苛立ちや焦りや悲壮感でぼくの意識から離脱しようとする。宝生院はまるでそんな空気感を切り裂くようにして左手の薬指に傷痕をつけていつのまにかぼくの隣に並んで話が出来るように細工をした。

「私は普通科に恋人がいるの。この学園では珍しいことだけれど、幼い頃から私たちはお互いの違いについて話し合ってきたつもり。だからね、たぶんあなたが少しだけ私たちと違うということにも理解があるつもりよ。それに私は宝生院家の血をとても色濃く継承しているから余計にね」

教室に戻った後も宝生院の放った言葉がぼくの頭の中で反響して抜け出す出口を探し続ける。間違い探しをするように教室に張り巡らせた結界と弥美に刻まれている傷痕はシンクロしてぼくが存在している座標に疑問を投げ掛けてきている。ぼくの隣にいるがすぐ傍で暗闇の気配を感じさせている時にだけ金色の狂気は鳴りを潜める。ざわざわと騒がしく放出される供給源からの一体感が分解されてぼくと弥美が違う人間であるということを改めて理解させる。

「大和は戦後、インディペンデンスから政治的独立を獲得していく過程で様々な文化的濃縮度を高めてより強固な民族的繁栄を経済的にも充足させてきたと言える。だから、現代社会において」

その日は一日中クラスメイトが作り出す奇妙な違和感や教師が伝えてくる正常性バイアスに関する勧告もそれほど気にならないまま恐らく宝生院が血液によって示した狂気の発動条件に関する正確な境界線を跨ぐものもいないまま六限の現代社会の授業が淡々と過ぎ去っていく。担当の龍谷の授業は午後の気怠い空気が惰眠によって邪魔されることないように明確な問題意識を芽生えさせるようにぼくら生徒の眠気を除去していく。

「今日は珍しく最後まで授業を受けたような気がする。まっすぐ帰るのもなんだし、ぼくはいつもの場所に行っているよ」

「ん。私もたぶん後でいく」

弥美はこちらになんて顔を向けずに宝生院が心配そうにクラスメイトに囲まれている様子を眺めている。宝生院にとっての日常と弥美にとっての毎日とぼくにとっての放課後にはちょっとずつズレがあってけれど同じ教室で最期まで授業を受けている。伊澤だったらそのことがいたたまれないんだというかもしれない。天宮だったら混ざることを遠慮しているというのかもしれない。ぼくは暗がりが好きなだけなのかもしれないと考えたら宝生院が指を切り裂いてまで話し掛けてきた理由を想像する必要があるのかなと裸電球の灯りで照らされた蒸し暑い暗がりへ今日もまた脚を運ぶ。感覚を共有することの出来るいにしえをぼくはスマートフォンに撮影していたことを思い出してぼくは藁半紙に記号と詩篇を書き入れて不完全で発効されることのない術式を眺めている。ふと気付くと、階段の前に灰色の人型が立っていて、バインダーに挟まれたプリントを持って立っている。どうやら水恩寺の作り出した泥人形のようだ。

──訳あって依頼者の名前を明かすことは出来ないのですがCRASS編入希望の普通科生徒を一時的にこちらでお預かりして欲しいと頼まれて案内しましたのでサインをお願いします──

泥人形の持ってきたファイルを受け取ると後ろに金髪でパーマヘアの女子生徒と黒髪ロングの女子生徒が立っている。確か芹沢美沙を校庭の隅っこで詰問していた二人組だ。CRASSから回覧板が回ってきたということは簡単な術式をもし暗がりの生徒が教えたとしても校則違反になってしまうことを防止する為だろう。阿久津のようなケースは別としてほとんどの場合、魔術科の生徒は人前で合成術式を披露することを嫌がる。それは通報されてしまったら違法行為に当たるケースが多い為もあるけれど、多分、魔術回路そのものが自分自身の内面的問題を転写していることを術者たちが理解しているからだ。

「おはー。私は瀧川理恵。水恩寺さん? その子に君を紹介されたんだ」

「こんにちわ。米澤恵理奈。二人とも2-B。将来、魔術管理局関係の仕事に就きたくてCRASSの見学お願いしたんだけど、難しそうみたいでさ」

水恩寺の持ってきたプリントはCRASS特別課外学級の百舌さんからの依頼ではなさそうだ。弥美がここのところ素っ気なかった理由が少しだけ想像がついたし、水恩寺が泥人形を使っていることも納得がいく。これはきっと生徒会直属のものだ。魔術科三年の副生徒会長からだとすればぼくは断れる手段を持っていない。推測でしかないけれど、後ろから天宮がやってきて鬱陶しそうな顔のまま二階へあがりいつもみたいに端っこに鞄を枕にして寝転がる。まるでぼくの用心棒を買ってでるみたいに。

「この文面にサインをするとこの場所で普通科では見ることの出来ないものを君たちが見てしまったとしても校則的には何も問題ないことになる。ぼくたちを脅すことだって出来るような話もあるかもしれない」

瀧川と米澤は大声で笑ってお互いに顔を見合わせている。水恩寺の泥人形がプリントにサインをするようにぼくを催促してくる。

「あー。もし君が私たちに何か見せてもいいってものがあったら見せてくれるだけでいいよ」

「そもそもさ、あたしは女子中学生みたいな占いが出来ればいいから。それに、ただって訳じゃないよー」

金髪の女子生徒と黒髪の女子生徒は二人とも同じような言葉を話しながら、小瓶に入ったドロドロとした液体を振りながら近づいてくる。瘴気のようなものが漂って水恩寺の泥人形が力をなくしかけている。ぼくは急いでプリントにサインをすると、おそらく特別な契約魔術が記載されたプリント用紙が泥人形から離れて宙を舞い、体育倉庫の外へと飛び出していく。

「魔女の血。どうやってこんなものを手に入れたんだ。ちょっと待って」

ぼくはかつて毒蜘蛛が入っていた黒い箱の底に69と書き入れて米澤の持っていた魔女の血を置いて蓋をする。旧い黒き魔女が持っているどうにもならない匂いだけはとりあえず抑えることが出来そうだ。

「へー。ただ数字を書き込んだだけなのになにか意味あんの?」

瀧川がぼくの隣に座ってしゃがみ込んでいる。距離感が少しだけ近くて簡単に境界線に割って入ってくることに少しだけ違和感を感じてしまう。

「君達が持ってきたものはぼくら魔術回路持ちにとってはあまり好ましくない臭いをさせるものなんだ。随分昔に嫌な死に方をした魔女の血。君達に通じるように話すのであればエーテルが揺らめいてひどい時は吐き気を催し頭痛も酷くなる」

米澤がぼくの隣に座って黒い箱を開けようとする。ちょっとだけ嫌な空気が漂う感じがしてしまうのでぼくは蓋を押さえて余計なことに巻き込まれないようにする。

「うわ。魔女の呪いがとか言い出すつもりか。けど、まぁ、わかるよ。それ。私たちでもここまで持ってくるの変な気分がしてたし。あの泥人形が余計なものを吸ってくれていたらしいよ」

いにしえと呼ばれる現代では法規制されてしまった類の危険な呪法が存在している。過度の精神干渉や当然ながら傷害罪へ直接或いは間接的に繋がるケース及びエーテルや血液などを吸引して精神負荷を与える術式や都市や空間ごと大規模に巻き込むものなど、法整備以前はかなり個人や社会に悪影響を与えるものが野放しで放置されていたらしい。それは1945年に大和が占領支配という名目で北米機関所有独立機動型超弩級大規模輸送艦『インディペンデンス』主導の元で政治的介入を実行されるまで存在していた高度な魔術も含まれている。魔女と呼ばれる現代では高度な教育を受けたものにしか与えられない称号を持った高位の魔術師の中には自身や他者に強烈な呪いと呼ばれる類の術式をかけることで長期間に渡ってある種の魔術的装置を埋め込むものも存在していた。いにしえと呼ばれる術式の中には術者の死後もそういった装置が働き続けてある一定の効力を発揮するものがあり、それを黒き魔女の血として呼称してぼくら魔術回路持ちのほとんどは忌み嫌いながら生きてきたと言える。死を愛し、腐食と供にあり、腐敗によって永遠を誓う彼らの魔術に現代でも尚苦しめ続けられているものが存在している。暗闇に住まう彼らの名を総じて『ブラックエンド』と言う。

「賢明な判断。私たちがもし狙いを定めたら決して逃しはしないもの。黒い血を与えられた私たちは呪いが成就するまで生き続けるわ。きっと貴方なら彼女の血を扱うことが出来るはずよ」

生徒会室にいる黒生夜果里はPCのモニターでaemaethと名付けられたWebサイトを覗き込んでいる。なぜ何の変哲もないWebサイトにデータ化され普遍性を獲得した呪いが宿っているのか彼女はいまだ判別出来ていない。発見された時は既に感染が始まっていた殺人プログラムとでも呼ぶべきコンピュータウィルスは生贄に刻印されることで拡大を防がれている。

「やっぱり普通科の子か。けど。すごい臭い。こんなの先生に見つかったら停学どころか退学もあり得るでしょ」

弥美が階段を登って暗がりへとやって来る。左腕の傷痕から血液が滲み出ていて黒い箱に閉まったはずの魔女の血が干渉するようにして弥美に痛みを与えているようだ。

「痛いってことを素直に話す必要はないけれど、幻肢痛ではなく現実にまで侵食しているんだね。君は16個目のピアスで何を手に入れたの」

瀧川と米澤がまるで物語の中に入ってしまったみたいに弥美の姿に驚いて騒いでいるけれど、金髪の瀧川がすぐに気を取り直して鞄から取り出したハンカチで弥美の血を拭っている。

「君さ、重度のメンヘラってやつ?彼氏に心配されたいにしてもやり過ぎでしょ」

「彼は私に傷がついていくことに興奮しているだけだから。気にすることは全然ないんだ」

「プレイにしても過激過ぎだよ。お互い遠慮ぐらいはしないとさ。これけっこう残る傷だよ」

弥美が他の女の子と話をしていることを見る機会はあまりなかったなとぼくは少しだけ安堵しながら薄れていく魔女の残り香と刻印された傷痕を利用して、そう、たぶん、暗がりから抜け出す方法を考えている。奥で寝転がっている天宮が不機嫌そうな顔を辞めて弥美と瀧川と米澤にそっぽを向いて背中を向ける。やっぱりいつのまにか体育座りをしていた伊澤がこっそり気配を殺す為に何処かで購入した"イレイザー"と呼ばれる違法術式の混入したチューインガムを味が薄まるまで噛みながら普通科二人の生徒をじっとりとした目つきで眺めている。女子たちの笑い声なんてこの場所ではとても珍しくてきっと彼はすこしだけ明るい雰囲気を疑っているんだろう。

「いつも君が最初にぼくに気づくんだね。出来る限り目立たないようにしたつもりなんだけどね」

「学内で出回っているという噂のチューインガム。つまらない授業を抜け出す為に使う生徒たちが増えているらしいね」

ぼくの反応を気にする様子もなく伊澤はガムを口から吐き出して包紙に包んでしまう。瀧川と米澤が驚いて伊澤のほうを指差している。

「ねえ、お前はさっきまでそこにいなかっただろ?」

「それも魔法ってこと? いきなり現れるってことは何かから逃げ出してきたんだな。魔術科のやつらって思ったより普段は不自由に生きてるんだ」

瀧川と米澤のような普通科は多いのだろう。宝生院のように普通科の人間と親しい関係でお互いを理解し合えているなんてことは珍しい。ぼくらはこの暗がりで誰にも見られない場所で自分の力を使用して束の間の充足感を得ている。

「どうだろうね。ほとんどは科学で置き換え可能だし、敢えて外で使う必要なんてないものばかりだよ。まさか怪物どもが責めてきて日常を脅かすなんて漫画やアニメの中の世界にぼくらが住んでいる訳でもないしね」

あははと呆気にとられて瀧川が指を指しながら伊澤を笑っている。けれど、ほんの少しだけ誰かとは違う自分の能力で腕試しをして称賛を得たり自分の形を確認できたらとぼくらは思っているのかもしれない。

「そのチューインガムを売り捌いているのは知野川だろ。やつが考えそうな玩具みたいだ。まぁ、けどそれなら副作用が出るほど酷いものじゃなさそうだな」

げっと誰かが呟いたと思うと天宮の足元あたりから人が現れる。知野川が風のエーテルを使って大気と同化して姿を消していたことがバレたことに驚いて術式を解除してしまったようだ。相変わらず彼の術式は未熟だけれど誰かと契約でも結んだのだろうか。少しだけ精度が高まっている。

「なんで真司さんにバレちゃうの? 一生懸命考えたつもりなんだけどな」

突然二人も暗がりに現れたことに瀧川と米澤がびっくりしながらも顔を見合わせてまるで遊園地にでもきてアトラクションを楽しんでいるような気分で笑っている。天宮は相変わらずそっぽを向いて寝転びながらたぶんぼくらの会話に耳を傾けている。

「──凪によって届けられる虫の知らせ──は温度や輝度なんかも計算に入れて初めて効果を十二分に発揮する。簡単そうに見えてとても複雑で難解な術式だよ」

「へー! いいこと聞いちゃった。後で試してみよ! 真司さんは相変わらずすごいね!」

不健康そうな表情の知野川が珍しく明るい顔をして自由を手に入れて空でも飛ぶみたいに両手を広げて階段を降りていく。向上心という点では知野川はとても優秀な魔術師でいつも傍にいる水恩寺と仲が良いのも頷ける。未熟ではあるけれど沢山のことを学ぼうとどうやら努力を重ねているようだ。

「ねぇ、あれも魔術科の誰か?また誰か増えてるよ。あの子ずっと泣いてるんだけど」

瀧川が指差したあたりに身長150cmにも満たない女の子がいて俯きながらしくしくと涙を流して立ち尽くしている。ぼくは直感で危険なものだと判断して急いで立ち上がり、女の子と反対側にある金属棚から藁半紙を取り出した後、少しだけ迷ってさっきしまってしまった旧い魔女の血を箱から取り出す。一気に暗がりに魔女の瘴気が漂ってとても嫌な空気で満たされるけれど、女の子の泣く声が徐々に大きくなって明らかに瀧川、米澤だけではなく伊澤の様子もおかしい。天宮がばっと起き上がり遅れて何かを感じ取ったのかあたりを見回して女の子の存在に気付いたようだ。酷く不快なものが暗闇をまとって現れて実体化しようとぼくらの感覚の中に忍び込んでいる。見てはいけないもの、聞いてはいけないもの、あってはならないものが暗がりに出現して感覚を強制的に拡張しようと襲い掛かってくる。

「さて、お手並拝見と行きましょう。件のウィルスはこうやって街の中に現れて人の悪意を呼び覚ましてきたの。あなた達の中からナンバーズなんてものが産まれてしまいそうな時、黒灯真司君、君はそうやって何も知らない顔を突き通せるかしら」

黒生夜果里は右手の人差し指で左腕の手首を軽く切り裂くようになぞった後に軽く息を吹きかける。

「血が止まらないね。やっぱり先輩が怒ってるんだ。私なんかが見ちゃいけない光を見ようとしたせいかな」

弥美の左腕からまた血が流れている。ぼくは急いで藁半紙に術式を書き込んでいき──溢れでた思いを繋ぎ止めるだけの小さな野望──を反転させるための準備を整えていく。

「なんなの。急に慌て出したりして。あの女の子慰めてあげた方がいいんじゃない?それにすごく寒い」

米澤が半袖のワイシャツからはみ出た白い肌を抱き抱えるようにして両手で自分の体の身体を包み込んで震えている。どうやら他の連中もこの季節ではあり得ない冷気のようなものがこの場所に訪れていることに気づき始めたようだ。はぁと一息をついて瀧川と米澤が持ち込んだ旧い魔女の血の入った小瓶の蓋を開けようとする。

「気付いたんだね。出来たら藁半紙を囲むようにしてぼくの周りに集まって。これ以上、泣いている声に意識を傾けてはいけない。出来るだけ無視をするんだ」

伊澤と天宮が立ち上がり、ぼくの方に近づいてくる。弥美が二人に声を掛けてから茶色いソファの上に置いてある『エロス』を持って魔法陣を作り出そうとしているぼくらの周りに集まってくる。きっと旧い魔女の血が必要になるはずよと弥美が言っていたことを思い出す。パラパラとめくれた『エロス』の白紙のページに黒い眼帯をつけた女の子とまるで騎士のようにしゃがみ込んで彼女の手の甲に口づけを送る男性の絵が浮かび上がっている。まるでこれから起こることをぼくらに知らせるようにしてぼくは藁半紙に記号と配列のパラドックスに関する短いラブソングを書き込んでいく。

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