顔をあげろ、田中謙吾
中学校生活の始まりです。
なんとか小学校生活を乗り切り、暁星中学校に進学しました。
あの厳しくて怖い父親が家にも学校にもいる生活です。
学校では田中先生と呼ぶし、なんとも不思議な感じでしたが、自分としては誇らしくて友達に自慢していた覚えがあります。
父のことについては、また違うタイミングで詳しく記事を書かせてください。
中学校からは、父親が率いる暁星中学校サッカー部に入部しました。
中1
田中先生は謙吾にゴールキーパーをやらせようとしていたみたいでが、すでにGK志望が同級生にいたので、変わらずフィールドプレーヤーとして続けました。
ポジションはボランチです。
体力がなくていつも後半途中に交代させられてました。
忘れもしない試合があります。
中1のナイキカップの地区予選。相手は石神井マメックス。
ボランチでスタメン出場した田中謙吾は0-0で迎えた終盤に、胸トラからのボール落ち際、足を振り抜きドライブシュートを放ちます。
綺麗な弧を描いたシュートはバーに当たり、その後キーパーの後頭部に当たってゴールに吸い込まれました。バンバンッて感じです。ミラクルです。
その1点でチームは勝利しグループリーグを通過しました。チームメイトに俺のゴールで予選突破だぞってドヤ顔で騒いでました。
父は大喜びで母に報告していたみたいです。
中学1年の頃は、父の期待もあったせいか試合に使ってもらう機会が多かった気がします。
しばらくして父は体調を崩し入院することになりました。
中2
夏の暑い日の夜に父は亡くなりました。
入院していた父の容態が悪化し、家族皆でタクシーに乗り込み病院へ駆けつけ、父の最期をみました。
脈が無くなったとき、父の目から一滴の涙が流れたことを、今でもはっきり覚えています。
苦しい日々でしたが親戚や友人、先生方にたくさん励まされ支えて頂き、1週間ほど休んだ後に学校生活に戻りました。
同時にサッカー部の練習にも合流し、普段通りの生活に戻りましたが、この頃の記憶が曖昧でほとんど思い出せません。
中3
父が亡くなってからも、変わらずサッカーは続けていましたが、成長痛のような足の痛みや、幼少期に持っていたアトピー性皮膚炎がとても酷くなり、練習は休みがちでした。
汗や日焼けでかぶれたりと本当にキツかったのを覚えています。電車の中で学生にかわいそうだよねーっと目の前で話されたり。ボロボロの肌を隠して生活していましたね。
父の亡くなったストレスや成長に伴うホルモンバランスの崩れからこのような状態になったのだと思います。
中学3年の都大会も、高円の予選も試合会場の外で水係をして中学サッカーを引退しました。
結局公式戦に出れたのは中1のナイキカップの予選が最後でしたね。
同級生たちは引退して間もなく、高校サッカー部の練習に合流をするのですが、僕は休部を申し出ました。
休部という形でしたが、中学でサッカーをやめて高校からは心機一転バレーボール部に入ろうと本気で思っていました。
その理由は、兄がバレーボールをしていたこと、成長期に過度な運動を全くしていなかったせいか身長が急激に伸びたこと、体育館は日陰で肌に優しいこと、でした。
バレーボーラーとして高校時代は輝く!
そんな思いを抱きながら、高校サッカー部で激しく練習をする同級生たちを横目にひとり下校していました。
以上、今回は中学校生活を振り返ってみました。
少しネガティブな記事になってしまいましたが、ありのままの自分の姿を書きました。
今はサッカー選手なので全国大会に行ったとか、選抜に選ばれたとか書きたいのですが、自慢できるのがドライブシュートしかありません。
次回は、どう考えてもサッカー選手から遠すぎる田中謙吾の高校時代を振り返ります。
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