ふりさけ見ればから魏志倭人伝へ

以前、日経朝刊の連載小説、安部龍太郎『ふりさけ見れば』について書いた。ダブル主人公の阿部仲麻呂、吉備真備の活躍と玄宗と楊貴妃、安史の乱、藤原四兄弟、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱などが絡み、読んでいた知人は皆面白かったと言っていた(単行本化されるのは間違いない)。

重要なテーマの一つに『魏略』の倭国に関する条を仲麻呂か真備が読んで日本にその内容を持ち帰る((又は『魏略』そのもの日本に持ち帰る)というのがあった。日本が唐の冊封体制(実際にそうだったかは置いておく)に入るにあたり、大和王権(天皇)の来歴を帰した歴史書=日本書紀(或いは記紀)を正史として提出したが、中国の史書と食い違うので認められないというのが背景。この中国側の史書が『魏略』(の倭国に関する条)である。実際の魏略は散逸(喪失)して部分的=逸文として残っている。

小説では安録山の乱のどさくさで仲麻呂が運良く『魏略』を手に入れ真備が唐から持ち帰った。結局、仲麻呂も真備も中身を見ることは避け、真備から天皇に渡したところで物語は終わっている(流石に日本国の成り立ちに関わるタッチーなマターなので書かなかったのだろう)。但し、唐では以下のように思われていたように推測できる記述がある。あくまでフィクションとして書かれているが、中国の史書と日本書紀を合わせた安部龍太郎氏の解釈のような気がする。

○呉の末裔が北部九州(多分福岡)と南部九州(多分宮崎)にクニを造っていた
○南部九州の人々は訳あって北上。北部九州の人々と共住・並住しようとしたが断られ東へ向かった(東遷、東征)
・・多分、後の大和政権へと繋がる集団であったというのが隠れたストーリー?

さて、弥生時代(~古墳時代)の日本=倭国に書かれたものと言えば『魏志倭人伝』(以下『魏志』)が有名である。邪馬台国(邪馬壹国)の位置情報が二つあり矛盾することから位置論争が江戸期から続いているのは周知のとおり。「九州説(福岡・宮崎・鹿児島など)と大和説」と一口に言われるが、多種・多様な「邪馬台国の謎を解明した」と称する書籍・論考があり、且つ、どれも納得できる証明ができず決着していない。中には「邪馬台国はなかった」という説すらある。文献(木簡)で「邪馬台国」「卑弥呼」など書いたものでも見つかればいいが、その可能姓はないだろうから永遠に決着しないと思っている。この件は自分なりの考えがあるが、それは省略して注意すべき点は以下だと思う。

○『魏志』は先行文書である『魏略』他を元に書かれていると推察される。また、『魏志』より後の文書にも倭国に関する記述がある。従って『魏志』だけ読んで済ませるのはNG
○卑弥呼が邪馬台国の女王だとは限らない。倭国の女王と書いてあるのみ。因みに女王国という用語はよく出て来るが邪馬台国は1ヶ所のみしか出て
こない。
○邪馬台国以外に出て来るクニ、倭国の他に「倭種」とされるクニも合わせて辻褄が合わなければならない。
○歴史書の解釈を裏付けるための考古学はいいが、考古学先行は本末転倒。例えば箸墓古墳を卑弥呼の墓だと比定するのがその典型。

邪馬台国の場所がどこかもさることながら、折角日本の文献がない時代の倭国の習俗・地誌が書かれているので読む価値がある(魏志倭人伝の分量は高が知れている)。万一、邪馬台国の場所が比定されても、意図的な創作も多い記紀との整合性を取るのは無理であろう。

倭国から使いの物が中国に来た時、倭人は自分達のことを「大夫と称す」と書いてある。これは呉の太伯の末裔を意味するようだ。日本の稲作は長江流域から伝わったという説が今最有力なので整合しているような気もするが、倭人「大夫」自称説は中国のでっち上げ記述であるという論争が古来よりある(日本の成立ち、日本人のルーツに関わる大問題?機微な事柄)
<補足:呉の太伯>
周王朝初代武王の曾祖父と言われる古公亶父の息子。伝説上、呉越同舟で有名な「呉」の始祖(元は呉でなく句呉と言った)と考えられている紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。

蛇足①:『魏志』『東夷伝』倭人条では朝鮮半島からの行程の内、対馬、一支(壱岐)、末廬(佐賀の松浦/唐津)、伊都(福岡の糸島/前原)、奴国(福岡県春日市付近)までの場所の比定は異論がない。春日市は子供の頃住んでいたところ。志賀島で見つかった「漢委奴国王」の金印は「漢の倭の奴国王」と読まれ奴国の王に下したという説がある一方、倭国の王向けと言う説もある。倭奴の「奴」は匈奴の「奴」と同じ(上から目線で)下に見た意味と取る立場。因みに志賀島は小学校の臨海学校でいくところだった。

蛇足②:『魏略』『魏志』以外に倭国について書いてある中国の史書は『漢書』地理志、『太平御覧』、『後漢書』、『梁書』、『隋書』など

#創作大賞2023 #エッセイ部門

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