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中国の姓名から史記へ

嘗ての朝鮮と日本において貴族や高官が扱う公的な文書、日記、或いは教養として読むべき書籍(漢籍)は漢字であり、長い間漢字文化圏であったとはよく知られる。朝鮮は15世紀にハングルを「発明」し今では漢字を使用することも希(中央日報などの新聞名は漢字?)で漢字を読める人も少なくなっていると聞く。漢字文化の一番の名残は、姓名は中国式のものを持っている程度か。よく知られているように韓国(&北朝鮮)では同姓が多い(トップは金で約4人に1人がそうである)。ほぼ大半の人が姓:1文字、名:2文字である。2文字の姓を持つ人もいるが0.1%未満。私が覚えているのは皇甫(ファンボ)だけである(韓流歴史ドラマに登場)。

日本は万葉仮名、平仮名(外国由来は片仮名)を編み出し、或いは漢文訓読や借字を使うなど工夫をしてきたものの、ハングルとは違い元を辿れば漢字由来である。一方姓名は中国の影響はないと行ってよく、朝鮮のような姓の集中もなく幸いだった思う。蛇足ながら、日本の教養人は戦前までは漢詩を作れた人も多い。明治・対象を生きた夏目漱石の漢詩も最新の高校の漢文の教科書に載っている。

中国は姓:1文字、名:2文字、又は姓:1文字、名:1文字が殆どで、現在は前者が多いようだ。昔は違ったのかもしれない。漢詩の杜甫・李白・王維、更には項羽、劉邦、曹操、劉備、孫権、王莽、蘇軾、韓信、荊軻などを連想するからである。最も中国は諱、字があるので、もしかして混同があるかも知れない(孔子は、氏は孔、諱は丘、字は仲尼、とややこしい。尚、正式名としては諱を使う。会話では字を使うのが通例である。例:司馬懿の仲達、項羽の籍)。

姓については朝鮮のような極度の集中はないもののある程度はある。王と李がずっとツートップだと思う。
https://www.mps.gov.cn/n2254314/n6409334/c7726021/content.html
中国の2文の姓は、率は僅かであるものの存在する。日本でよく知られるのは司馬、欧陽、公孫などであろうか。2文字姓の場合、上のグラフのようの名は1文字にして全体で3文字にするケースが殆どだろう。司馬遷、司馬懿(司馬仲達)、欧陽脩、公孫龍など。恥ずかし乍ら、欧陽脩は「欧陽・脩」ではなく「欧・陽脩」だと長い間思っていたことがある。

上のURLの情報は中国政府のものなので簡体である。よってぱっと見て漢字が分からないものが色々あると思う。例えば、人数が3位の張、5位の陳は多分日本人でも分かると思うが、4位の劉は分からないかも知れない。台湾は繁体なので北京語ができずとも大凡の意味が分かって良かった(出張時の経験)。

さて、司馬遷に触れたところで、『史記』に絡めた些細な事柄を幾つか書きたい。
中国の王史としては、①三皇時代(伏羲・神農・女媧、異説あり)、②五帝時代(日本では堯と舜が有名)、③夏王朝の時代、④殷王朝以降の時代、⑤周王朝以降の時代となる。①と②は神話の世界と考えてよい。「夏」が実在したか説が別れ(中国政府はあったとするスタンス)、遺跡で確実にあったとされるのは「殷」(商)である。史記(「本紀」)は②からスタート。

①暴君の代表「桀紂」=「夏桀殷紂」
桀は夏王朝の最後の帝。有力氏族を討った際、末喜という美女を捕らえて妃とした。桀は末喜に溺れて政治を省みず、酒を満たした池に船を浮かべ肉山脯林(にくざんほりん)と呼ばれる肉を山のように盛る豪華な宴会を催したりして国力は衰えたとされる。

紂は殷の最後の王(周に滅ぼされる)。こちらは日本で桀より有名で、愛姫である妲己の歓心を買うため言われるが儘に日夜酒色に耽り、民を虐げたとされる。「酒池肉林」の由来としてよく知られ、史記の記述に「酒をもって池と為し、肉を掛けて林と為し、男女をして倮ら(裸)ならしめ(中略)、長夜の飲をなす。」とある。前出の肉山脯林と似たようなものである。酒池肉林の肉は肉欲を意味しないが、そのように受け取る向きも多い。

その他では、周(西周)を滅亡に導いた幽王の愛妃「笑わない女」の褒姒(ほうじ)のエピーソードは有名かも知れない。周知のとおり、中国の史書には「傾城傾国」の美女が沢山出てくる。尚、「中華」とは黄河流域・中原を指し、「周」の時代に確立したという説が多い(孔子は周を礼賛)。

②諸子百家と韓非子
子供のころ、集団で夏休みラジオ体操をやっていた。そのNHKラジオ放送の前後で番組は忘れたが『論語』ことを語るものがあった。ちゃんと聞いたことは一度もないけれど、講師が「孔子先生はこのように言われています」的トークをしていたと記憶。「子」とは「先生」という意味なので「孔先生先生は・・」とトートロジーになる(子供の頃はそれが分からなかった)。

諸子百家として史記には老子、荘子、孔子、孟子、荀子、孫子、韓非などが出てくる。韓非は、その書物を見て始皇帝が大絶賛した(史記に「この著者に会い交遊できれば死んでも本望である」と始皇帝が言ったと記載)といわれる。『韓非子』は近代まで日本でよく読まれていた漢藉である。韓非子は人の意味と著作の意味の双方で使われることもある。本人の姓は韓、名は非なので、元々は韓子(韓先生)だったのだが、唐の有名詩人、韓愈を韓子とするため、後に韓非子(=韓非先生)となった。司馬遷は韓非と書いているよう人物としては韓非、書物として『韓非子』するのが習いのようだ。韓非は兄弟弟子の李斯の讒言で悲運の死を遂げたことでも知られる。
『韓非子』が出展の日本でも知られる熟語に以下のようなものがある。
          矛盾 逆鱗 信賞必罰 唯々諾々
熟語としてはあまり使われないが、「株を守る」で有名な守株もある。北原白秋の詩で知られる日本の童謡「待ちぼうけ」の題材である(守株待兔)。童謡と書いたけれど元は日本が満州に進出していた時の当地の唱歌らしい。
<補足>
上述の諸子してあげた人物の内、孔子だけが「世家」に書かれ、後の人物は「列伝」に書かれている(孔子の弟子も「仲尼弟子列伝」として記載)。
また、以前書いたよう孫子は孫武と孫臏の二人が出ている。日本で流布している「孫氏の兵法」は孫武のものとされている(孫臏は孫武の子孫)。

全部読んではいないものの、史記を見ると司馬遷は老子を最も高く評価しているように見える。道教と老荘思想は同じではないが、後者はTAO(道)という宗教というより哲学として欧米等で人気があり、聖書の次ぎに多くの国で翻訳本が出ていると何かに書いてあった。

⓷劉邦の名「邦」
『史記』には劉邦という名前は出てこない。劉氏であったことは分かるけれど「邦」という名前は出てこないからである。史記には「沛公」「漢王」「高祖」として書かれている。劉邦の「邦」という(多分)諱の初出は後代の後漢時代とされる。但し、邦は恐らく本当の諱ようだ。項羽が劉邦を討ち取る機会を逃した「鴻門之会」は日本でも大人気。しかし、内容は司馬遷の脚色がかなり入っているだろうとされる。日本で人気な背景は昔も今も高校漢文教科書に出てくるからだろうか(最新の筑摩書房『高校漢文』で確認)。

④李陵と司馬遷
李陵が近代以前から日本で有名だったか情報を持ち合わせていないが、日本で有名になったのは中島敦『李陵』があったからであろう。この本の冒頭に司馬遷が出てきて、宮刑になった無念や『史記』を書く背景が語られ、これも昭和世代の人にかなり浸透していると思う。李陵は匈奴への外征に失敗して捕虜となり、結局、匈奴で生きることを選択したこと、武帝が李陵に対し烈火の如く怒ったのにひとり司馬遷が弁護して宮刑になったのはよく知られるところ。しかし、史記には李陵のことは事実を簡単に触れられているだけで弁護した背景・内容は何も書かれていない。これらは後代の『漢書』に書かれている。中島敦が小説を書く題材にしたのは史記ではなく漢書と考えるのが妥当であろう。

司馬遷が唯一人弁護したのは、李陵よく知らない者を含め、廷臣達がここぞとばかりに皆、李陵を悪し様にいうことへの義憤のためだと思われている。李陵と親しかったとか李陵を尊敬していたということではない。また、李陵は有能な悲運の将のように思われている向きもあろうが、無能の将といった方が良さそうだ(『漢書』による)。尚、有能な将として史記列伝「李将軍列伝」の対象となっているのは李陵の祖父の李広利である。
<補足>
前漢のことを知るためには『史記』と『漢書』を併読するのが良いとされている。『漢書』「地理志」に倭人のクニのことが出てくるのは教科書に出ている。これが倭人、倭国のことが出てくる初出である。
「夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ。」
楽浪:漢王朝によって朝鮮に設置された楽浪郡のこと

⑤臥薪嘗胆と呉の国
臥薪嘗胆は、越王勾践と呉王夫差との復讐合戦で復讐を果たすまで耐え忍ぶという意であることは広く人口に膾炙している。臥薪は夫差、嘗胆は勾践のエピーソードである。最終的に勝利したのは越王勾践。臥薪と嘗胆は、元々単独で使われ、臥薪嘗胆になったのは11世紀以降と考えられる。この用語が広まったのは『十八史略』であるので史記には当然出てこない。勾践は史記の「世家」に1巻割り当てられている(夫差は世家、列伝の対象外)。

中国の史書に「倭人は自ら『我々は呉の太伯の子孫である』と言っている」と述べられている。夫差は呉の開祖太伯の子孫で、勾践に負けて呉が滅んだ時に日本=九州に逃げて来た人々の中から卑弥呼が出たちいう説を唱える人もいる。太伯は入れ墨をしており倭人も入れ墨をしていたと書いてあることもその根拠なのだろう。呉の国は史記には「揚子江南の蛮族の地」と書いてある。中華は黄河流域を言うと書いたよう、江南は嘗ては中華の範囲外で
あったということと理解している。

最後に:
筆者は史記を全部読んだ訳ではない。今日のあるところを広い読みしただけである。史記の最後に司馬遷自身の自伝?「太史公自序」(太史公は司馬遷のこと)がある。
これには史記を書くことにした背景・矜持(中島敦『李陵』の冒頭はこれを用いていると思う)が述べられているほか、史記で取り上げた王朝、人物を何故選んだのかとその内容の要約書いてある。言わば総覧的なものでまずはこれを先に読むのがいいやり方ではないかと思う。

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