追悼とか、ai画像生成とか、ちょっと、今日考えていた、こと。

自分の〉彼岸花の赤いとこ全部くらい散らばった考え《を、{雑なポニーテール”程度にまとめるために書いているので、読みづらい。しかし、記録として、外に置いておいていいものなんじゃないかと思った。自宅の外構沿いの公道に置かれた、猫よけのペットボトル。そのくらいの横暴という認識。

ちょっと前に鳥山明が亡くなって、世界中で哀悼の意を示す様々なアクションが起きた/ている。
それらを見て、一人の人間の想像力が及ぼす影響に感動したけれど、鳥山明及びその作品群にあまり思い入れがないので、SNSにアップされている言葉やイラストを見ても一緒に悲しくなったり、慰められたりとかいったことは無かった。しかし、ものすごく嫌悪感を抱くものがあった。
それはaiで生成された画像をスライドショーにしたショート動画で、著作群のキャラクター達が鳥山明の墓石らしきものを囲んで泣いていたり、葬式のような場に参列して顔を顰めていたりするai生成画像をスライドさせながら、オルゴール版の「DANDAN心魅かれてく」が(つまり悲しげな雰囲気を演出するためのものとして)流れているというものだ。
俺はこれを見た時に、即座に、やはりこんなもの(ai画像生成)なんて生み出すべきじゃなかった、と思うほど嫌な気持ちになった。
それから数日たった今日、改めて、なんであれに嫌悪感を抱いたのか考えてみることにした。
きっかけは関係ないので書かないけれど、もしかしたら、そもそもai画像生成への拒否感を正当化するものとして、分かりやすく賛同して貰えそうなものを無意識的に槍玉にあげただけじゃないのかという思いが拭えなくなった。
なぜ嫌悪感を抱いたのか、ということの結論として、一旦納得がいっているのは、「追悼の意を表す表現として陳腐で馬鹿らしい」ということ。
最初に、自分の中で、有名絵描きたちが描いた追悼イラストと嫌悪感を抱いたaiイラスト動画(以下クソデータ)の何が違うのかということを(前者には嫌悪感を抱かなかったから)はっきりさせる必要があった。それは同時に、ai画像生成が少なくとも現時点で(自分にとって)なんであるかを考えることだった。
そして、考えてみたら、根本的に違いなんてなかった。
考える取っ掛りになったのが「表現の場」ってなんだろうということで、もしかしたら普通は、考えるまでもなくみんな了解しているものなのかもしれないけれど、とか言い訳をしだすのは、たどり着いた答えがあまりに単純だったからなのだけど、表現の場とは表現するための場所のことだ。また、表現され続ける場所のことだ。表現と言うと言葉が被って分かりづらいので言い換えると、制作現場と制作、そのどちらも含んでいるのが表現の場だと思う。
制作現場って?ものは、空間がなければ認識もされないし、作るのことも出来ない。つまり、大きく言えば地球って制作現場だし、仕事部屋、アトリエ、そういうものが必要なのは、住所で言うところの番地みたいなもので、そのものの制作の場としてより正確に効率的に機能するために必要ということ。それが制作現場。
(表現の場に含まれる)制作というのは、例えば展示会場、鑑賞者、そしてSNS。ものは、その空間が与える影響を免れることは出来ない。そういう意味で、ものは表現の場によって制作され続ける。
表現の場がどんなものか、考えた上で、じゃあ、snsに載ってるものって全部表現じゃん。と、なる。自分がいつの間にか抱えてしまっていた「表現」というものの高尚さみたいなものがスッキリと崩れていく。表現することって、何ら特別じゃない。
なんでこんな回りくどいことを考える必要があったかと言うと、ai生成画像が表現なのかどうかを自分の中で決定する必要があったから。ai生成画像だからこのクソデータ嫌いって理由なのかを明確にする必要があったから。もう分かった、ai画像は表現だ。で、それを手段に選んでいる人達には、理由が必要だ。だって、表現として見るんだから。そういう目で見る。作品として見る。作品として評価する。そういう考えになっていった。
そしたら、嫌悪感の正体がやたらハッキリした。神妙な顔して葬儀に参列する、墓場に泣きながら抱きつくキャラクター達への無理解、悲しげな音楽流しとけという安易さ、(大目に見てやって)追悼したいという気持ち→ai画像生成しよとなる、感情と一拍置いた感じ。
なんだ、表現として陳腐すぎるだけじゃん。
そう考えた。

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