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【2nd phase】社会を読み取るたったひとつの冴えたやりかた

幻の社会科学

社会科学とは社会の法則を読み取る学問である。もちろんうつつには社会を研究する政治学・宗教学・法学・経済学・経営学・社会学などの総称なのだが、幻の方は一味ちがう。社会研究の学問分野を全て修め、ひとつの社会現象をあらゆる角度から理解していく唯一無二の方法論だ。

例えば、現の社会科学の場合。ある社会現象を政治や経済などの構成要素へ絞り込み個別に理解していく。一方、幻の社会科学の場合。ある社会現象に対するそれぞれの個別理解を総合して、再構成できる。すなわち、あらゆる社会現象を専門家として分析し、それをひとつに戻せる究極の視座となる。

かつて、そのいただきへ辿り着いた一人のとくがく者がいた。本邦初の社会科学者、小室 直樹 博士はくしだ。

宮崎 哲弥&橋爪 大三郎 「在野の天才 小室直樹とは」1/5


宮崎 哲弥&橋爪 大三郎 「在野の天才 小室直樹とは」2/5


宮崎 哲弥&橋爪 大三郎 「在野の天才 小室直樹とは」3/5


宮崎 哲弥&橋爪 大三郎 「在野の天才 小室直樹とは」4/5


宮崎 哲弥&橋爪 大三郎 「在野の天才 小室直樹とは」5/5

幻の社会科学者になるには

それではこの先、新たな社会科学者は現れるだろうか?

小室 直樹 博士 に師事する橋爪先生は、社会科学者・小室 博士を語り継ぎ、社会科学者を志す新たな才能を待つという。

しかしである。

社会科学の視座へ至るのがミッション・インポッシブルだからといって、ただ手をこまねいてるだけじゃあ芸がない。一人の知性で社会の法則を総合できないなら、複数人でならどこまで総合できるのか?へ挑むべきである。

お互いに社会研究の専門領域を持ち、それぞれの理解を総合していくわけだ。もちろん、それが簡単にできれば苦労しないのだが、少なくとも我々は社会研究は総合可能だと確信を持っている。それぞれの分析を縦横無尽に参照し、お互いの着眼点を結合していく。その手法を模索するくらいなら罰は当たるまい。

それはつまり、「幻の社会科学は一人の天才が実現させる」仮説に対する、飽くなき反証可能性の提示だ。


表現科学という名の新たな幻

ところで、私は幸運にも幻の社会科学を知ることができた。まあ自分ができるかできないかはさておき、広大な視座が成り立つのはわかった。これを活用しないのはもったいない。

というわけで、新たに提唱したいのは表現科学という視座である。つまり、森羅万象を人間の表現行為を起点に捉え、文学や音楽学など各種の表現学による分析や認識を【人類の表現として総合できないか?】という、ぶっちゃけ果てしない試みだ。

ここで私は表現を、身体的・具体的な表れと精神的・抽象的な現れをひとまとめにしたものだと想定している。我々が現生人類である以上、人間や人類が起点になるが、表現する対象は万物に及ぶ。表現行為は生物や無生物・物質・現象による、意識的・意図的な表現と無意識的・偶発的な表現の組み合わせとなり、表現しないされないゼロ状態も表現の範囲に含まれると、私は理解している。

すなわち表現科学という視座が成り立つと仮定し、私自身は科学史※ ならぬ表現科学史を追っかけていくんである。

例えば、人類が初めて火を発見した時。雷が落ちて樹木が燃え上がったり、あるいは火山活動の名残だったり、もしかしたら隕石の残骸だったりするかもしれない。

そして、何がが燃えているのに気づいた誰かが木の棒か何かに燃え移らせて火を移動させたり、火を消さずに燃やし続けながらやがて火起こしを学んでいくことで、火というものが人類の共通認識となっていたわけだ。

偶発的な自然発火に始まり、意識的・意図的な火の移動や連続燃焼の実験が繰り返され、燃える仕組みが分析され火起こしという手法が生み出され、炎に神や精霊を見出し崇めたりと、火という表現には人・物・事の複雑な絡み合いによって彩られている。でもって、スカウト運動によるサバイバル技術だったり、誰でもマッチは使いこなせるが大半の者が自分ではマッチ一本つくれないユーモア諷刺にまで派生させられるのだから、扱うテーマが広すぎてたまったもんじゃない。

さて、どうでしょう?

 ※ 科学史の研究って、どんなことをしているの? – 国立科学博物館・有賀暢迪研究員に聞く | academist Journal
https://academist-cf.com/journal/?p=4329

壁l・ω・) 壁l)≡サッ!!