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南京大虐殺の虚偽ポスト(Venick氏)で反論されている方々から学びができます。

Venik氏投稿1

1937 年 12 月から 6 週間にわたって起こった南京大虐殺 (南京大虐殺とも呼ばれる) では、日本軍が中国の南京市を占領しました。この事件は、日本軍が広範囲に渡って残虐行為を行ったことで悪名高いものです。数ある残虐行為の中でも、最も陰惨な行為の 1 つが、捕虜や民間人の斬首です。日本兵は、上官によって容認されただけでなく奨励されていた競技やゲームの一環として、これらの行為を頻繁に行いました。これらの残虐な斬首は写真に撮られることがあり、その画像が日本の新聞で英雄的行為として報道されることさえありました。この野蛮な行為は、大量処刑、強姦、略奪を含む、より広範な組織的暴力行為の一部であり、推定 20 万人から 30 万人の死者を出したとされています。

事実1

1937年7月29日に中国の通州市で日本人・朝鮮人居留民200名以上の大虐殺事件が起きる。8月9日日中和平交渉中に大山大尉の虐殺事件がおきても日本は不拡大政策を続けていた。
1937年8月13日上海で蒋介石の主力師団が20万の兵力を集中し、
5千余の日本海軍陸戦隊と10万余日本人(女性・子供を含む)を
全滅させようと企図した第2次上海事変をおこした。
日本軍は10万の民間人を守るために軍の派兵を決定し、松井大将の北支那方面軍が派遣され、蒋介石軍との戦いとなった。日本軍は蒋介石軍を壊滅するために戦い、上海での戦いに勝ち、蒋介石のいた南京に進軍しました。
1937年12月11日 南京には敵兵10万人が籠城していました。
日本軍が侵攻する前に蒋介石軍は南京に火をつけ(堅壁清野作戦)、南京市民をスパイ容疑で漢奸狩りをしていました。南京城を包囲した日本軍が城内の中国軍南京防衛司令官・唐生智に対して攻撃の前に24時間の猶予を与えて降伏を促した勧告文を飛行機から投下したが、中国の降伏拒否の回答は毒ガス攻撃だった。唐生智司令官は中国軍の退却口に督戦隊を置き、12月12日主力部隊1万5千と共に逃亡。中国兵は日本兵に追われ退却しようしたところで督戦隊に銃殺され死体が山のようになった。逃げ惑う中国兵は、日本軍を恐れて軍服を脱ぎ捨て、市民から衣服を奪い、その混乱で多くの市民が殺された。日本軍の入城前のことです。

1937年12月13日日本軍入場

兵民分離作業

日本軍は12/14から1/5まで兵民分離作業を行い、12/24までにほとんどの部隊が南京から出て、残ったのは4000人の警備兵です。

南京占領直後に撮影された実際の記録

12/23に南京自治委員会が設立され翌年から中国人による自治が始まりました。

1937年の南京事件の死者数の推移

1次資料である
『南京安全地帯の記録』
『南京事件資料集・米国編』
『ヴォートリン日記』
『ラーベ日記』に記録された殺人事件を合計すると、犠牲者数2,858人(重複計上を含む)。しかし民間人の殺害は53人。しかもその殺害方法は通州事件に似ていました🤔

南京でおきた大虐殺

1856年天京大屠殺 これが本当の南京大虐殺。
1913年袁世凱派、張勲軍による虐殺。邦人被害あり。
1927年蒋介石国民党軍による虐殺。南京大略奪。邦人の被害あり。
1927年英米軍による虐殺。アメリカおよびイギリスの軍艦が、無防備な街の雑踏に500トン以上の砲弾を浴びせた。
1937年-日本軍のものとされているが、中国兵・中国人による暴虐、略奪、強姦事件だった。
1949年中共軍による資本家弾圧と市民の1/3を虐殺。

毛沢東碑文 南京虐殺は国民党によるもの

南京雨花台の、虐殺記念館がある烈士陵園には、「人民英雄碑」と言われる石碑が立っていて、ここには毛沢東の揮毫とともに「南京30万虐殺は国民党によるものであった」という碑文がある


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