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未来は常に過去を変えている

今日は、久しぶりの半休。平日のこの時間帯に、更新するのも何日ぶりだろう。更新する際はいつも金曜日だったから、水曜日のこの時間帯の更新は本当に久しぶりだ。コロナ禍の一年前と比べて、仕事はかなり落ち着いてきたと思う。昨日が仕事始めだったこともあり、今日は午後から要は暇。

社会人ももうすぐ3年目だ。3年目近くになってみると、周りも少しずつ見えてくる。容量がわかってきたり、いい意味でも悪い意味でも、仕事をサボることができるようになる。当然、自分の仕事が貯まるだけなので、もちろん、自己責任の上でだ。

1年目の頃は、とにかくノンコア業務で精一杯だった。電話とる、スケジュールのセッティングをする、定例会の司会を行う、議事録をとる、こんな仕事が1年〜1年半ほど続いた。僕は、人よりもかなり遅咲きの人間なので、これらのような簡単な仕事でも、人一倍苦労した。

いつかこうしたことも、今後の糧にしていきたいと思っていたりした頃、ふと、「マチネの終わりに」という小説に出会った。どこかで、見たことのあるタイトルだな、と。そういえば、映画で一度見たことのあるお話だった。

どんな映画かも忘れてしまったので、滅多に小説を買うことはないのだが、読んでみることにした。

その中で、「未来は過去を変えている」、この一文を目にした。今でも、この言葉は私の人生のバイブルとなっているのだが、ちょうど小説も読み終えたところだ。今回のトピックでは、過去を笑い話にできるのは未来の自分次第という話をしてみたい。

■未来・現在という時間の概念

「時間」と呼ばれる概念は、古代オリエント時代から根付いていた、と言われている。時間が宗教的あるいは社会的にどのように、捉えられていたのか。社会学者、真木悠介の『時間の比較社会学』によると、宗教面では、時間を円で捉えるのに対して、キリスト教では、直線で捉える。

つまり、仏教では一度未来へ行ってしまってもまた現在に戻ってくることができる。これに対して、キリスト教は、時間は戻ってこない。未来の先に行けば、その先も未来だし、現在には戻ってくることができない。

ここで、特筆すべきなのは仏教とキリスト教では、「未来」「現在」という共通項があるが、「過去」というものには触れられていないのである。いったい「過去」とは何者なのか。現在とその先にはない、何かが「過去」には隠されているのではないか。

確かに、「過去を振り返らない」、というのは人生論でもよく語られる話ではある。ただ、ここで「過去」を考えることを放棄するわけにはいかない。

■過去とは何か

過去とは何か。それは、「変わることができないもの」ではなく「変わってしまうもの」、これこそが「過去」の正体ではないだろうか。だから、先ほど現在には戻ってくると書いたが、過去に戻ってくるとは書かなかった。

冒頭で触れた「未来は過去を変えている」という一文は、実はもっと長い。引用すると以下だ。

人は変えられるのは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?
出典:マチネの終わりに

人間は、だから一度過ぎ去った過去には戻ってくることはない。過去とは、自分の将来によって簡単に、変わってしまう。変わってしまったところに、これまでの過去はない。未来の様々な事象が、過去そのものを上書きしてしまう。

どんな出来事でもそうだ。例えば、第一希望の就職先につけなかった時、当時は苦しい思いもしただろう。ただ、その就職先でどのように上手くいくかを考えたり、結果その仕事がうまく行ったら、第一希望の就職先につけなかったという過去は辛いものから、良い方向へ変わっていく。

人間の過去とは、とても刹那的に変わりゆくものなのだ。

■今を生きるではなく、「その先を生きる」

人間は過去に戻って来ることはできない。しかし、変えることはできる。僕も、社会人になり、1年目で経験した様々な過去が素晴らしいものだった、と言えるのは社会人にという未来の自分に託すしかない。

未来は常に、過去を変えているのだ。

未来の自分がその先を見つめることができれば、過去もそっと僕に微笑んでくれることを切に願う、そんな昼下がり。

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