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モノにマナを込め続けることの難しさ

「これはあなただけのモノよ」と言って渡された、高校時代の恋人にもらったプレゼントをまだ捨てずに持っている。と言える人がどれだけいるだろうか。恋人や親友からもらったプレゼントやバースデーカードは、その時その時に「私のためにやってくれたのだ」という錯覚を覚える。

こうした、物の交換は例えば恋人との記念日、親友の誕生日などによくある光景だ。つまり、私たちが付き合った証とか、あなたの幸せを願って特別に買ったなどと言いながら、そこにある意味呪術的な意味(こういうのをマナという)を込めてプレゼントを渡す。渡された側も親愛なるあなたへという形で、相手にお返しなどのプレゼントを渡す。

贈与交換に関しては、文化人類学者のマルセルモースが分析している。贈り物におけるものの機能を超えた相手の気持ちであったり、モノに込められた意味を汲み取った上でお返しをすることで、自己と他者の秩序が保たれる。

しかし、現代消費社会において、マナを汲み取り、同等のお返しをするということがとても難しくなり、恋人から親友へもらったプレゼントを一生大事にする、ということは決して簡単ではなくなっているのではないだろうか。例え、恋人と結婚し生涯のパートナーになった、としてもだ。

自己と他者の贈与関係は、現代社会において決して確固なものとはならなくなりつつあり、自己と他者との親密性の流動性が生じやすくなっている。

なんでも買えてしまう消費社会

現代はいわゆる「お金を出しさえすれば誰でも買える」という時代だ。一昔前までは、貴族階級でしか買えないもの、なんていうのもあったのだが、現在では、お金さえ積めば、モノを享受できる。階級は関係なく、誰でも受け入れる状態に置かれているのが現代の消費社会である。

だとするなら、もちろん、プレゼントや贈り物というのは、少し高いお金を出しさえすれば、「誰でも買えてしまう」のである。つまり、現代の消費社会は、贈与を行うとき、誰でも買えてしまうモノでも、他のモノとは違うことを示さなければならない時代だと思う。

これは、決して簡単ではない。皆が平等に消費できるモノであったとしても贔屓が必要となる。こうなると、渡された相手は「別にこれじゃなくてあっちが良かった」とか、「別に私だけではなくて、他の人にもそれできるよね」などのやりとりが起こる。例えば、恋人にもらったモノでも別に私だけに貰えるモノではないよね、という心理がどこかで働いている可能性だってある。

このような消費社会に置かれた時、あなたのことが好きだから、といったマナを贈り物にこめたとしても、こうしたマナは長続きしない。例え、マナを込めたとしても送り手のマナを受け手が正しく読み取ってくれなかったり、とりあえず私では買えなかったけど買ってくれてありがとうというような意味合いで受けとることもある。

モノにマナを込めて、それを受け手が一生大事にしてくれるというのは、現代社会において至難の業であると言える。それと同時に、送り手と受け手の親密性も贈与という概念で、維持することは難しくなってきていると思う。

「捨てるが当然」の消費

私たちはよく「いつかは捨てる」ことを前提にして消費を行なっていることが多い。こうした時代に生きる時、消費を通じて行われる贈与でのモノにおけるマナは、ここでも一過性に陥りやすい。

「どうせ捨てるけど、とりあえずもらっておこう」。という形で、終わってしまう贈与も限りなく存在しているのが現実ではないだろうか。

「どうせ捨てられるもので誰でも買えるけれど、相手に捨てられないように、マナを込め、一生大事にしてもらう」というのは極めて困難であることは言うまでもないのだ。

最終的に残るのは、モノ自体における機能でったり、モノ自体の価値などといった空虚な物神性なのであろう。

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