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「可愛い男子」はいつ誕生したか

形容詞cuteの記号論的体系を考察してみた時、かわいいという日本語には多くの不確定要素が含まれていることは容易に理解できる。それは日本人が英語のcute/prettyのように区別をしないということだけではなく、かわいいという形容詞に対して、さらに形容詞的要素が付随しまうことも一つの複雑性を増している原因だろう。例えば、「ぐうかわ」「おにかわ」「グロかわ」など、日本には海外になはい「かわいい」が量産されている国であるといえる。

なぜ日本でこのような「かわいい」が量産されているのかという論点は非常に難しいが、日本のかわいい対象が「男子」というのも、海外では特に異例である。

少なからず、海外では男子=coolであるべきだという思想が一般的だ。(ジェンダーの話は一端脇に置く)。しかし、日本では「男子=cute」と見做されうる。この「男子=cute」の図式はいつ頃から誕生したのだろうか。

ここでふと思い出すのが、93年に発売されたキャンディーズの「かわいい年下の男の子」という曲だ。実は、サブカルチャー論の中では、男子にかわいいと形容するのは、キャンディーズの曲から始まったとさえ述べる学者も存在する。私もこの通説には比較的賛同できるのだが、どうして90年代なのだろうか。

90年代の日本といえば、55年体制の終焉・新党ブームに加え、バブル経済の崩壊。更には95年の「地下鉄サリン事件」「阪神淡路大震災」「windows95」の発売など、激動の時代であった。そして同時に今まで信じられてきたことから裏切られてきた時代でもあった。特にバブルの崩壊はその最たる例である。

こうした不確実性は当然、アイデンティティを悩ませることにもつながる。社会学者のデュルケムは自殺というのは宇宙論的概念ではなく、社会が大き変動するとき、「自分は何者か」ということを問いかけ続けた時、人は自殺に走るのだと述べた。もちろんデュルケムの『自殺論』では、フランス革命化のフランス下を元にできた書物なので、社会の変動という概念に趣を置いてるいのは間違いないのだが。

しかし、80年代のポストモダンによる絶対というものがなくなり、自分とは何者かということが問われけ、不確定性が高まったことは、cool=男性という概念を崩壊させ、「かわいい」という不確定性極まりない、概念が90年代に生まれたことは必然と言うべきかもしれない。

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