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デジタル民主主義の未来

とても刺激的というか、興味深い対話だった。それは、オードリータンのデジタル民主主義についての話だ。そもそも、デジタルと民主主義を混合させるということは、長年議論されているものではある。しかし、このオードリータンが議論の的にしてるものとしては、「人間がデジタルを操るのか、それともデジタルが人間を操るのか」という人間とデジタルの共存に関する部分だ。

もともとオードリータンは台湾のデジタル改革の先駆者と言われており、こうした形でデジタルと民主主義を語るということは不思議ではない。社会学的には、AIと人間の共存といった、いわゆるAIと人間の相互関係のような話は数多存在する。

しかし、改めてデジタルと民主主義という観点で考えると、民主主義という問題を少しミクロに捉え、群衆をデジタルによって操るという問題が出てくる。デジタルで群衆を操作し、ポピュリズムに向かう社会形態は例えばアメリカなどでも多く見られるようになっている。こうした点を踏まえると、大事なのはむしろこうした民主主義などの点で、群衆の操作といったデジタルと群衆について考えるということではないかと思う。

というわけで今回の雑記では、「人間がデジタルを操るのか、それともデジタルが人間を操るのか」ということを踏まえながら、デジタルと群衆という観点で、デジタル民主主義について考えてみたい。

1 デジタル民主主義はどのように生まれたか

そもそもデジタル民主主義というのは、必ず人間とデジタルが共存しなければ成り立たない。SNSやFacebookといったデジタルツールを使った民主主義なんていうのは、誰でも政治に参加し、世論をあるときは炎上させたりすることも可能だ。こうした時代で、まず群衆がどのようにSNSを使って、政治に参加しているのだろうかということを考えてみたい

群衆といういう話で、まず初めにふと思い浮かぶのが、ギュスター・ブ・ルボンの『群集心理』という本だ。この本では、社会心理学の観点から、群衆になると個人では絶対に起こさないことを起こしてしまうというような、群衆の非合理性を描いている。SNSでは、群衆という群れができやすい時代である。つまり、一人でネットを見ているのにも関わらず、同じ世論の間柄にいるように錯覚する。言い換えるとある意味「想像の共同体」に近い。

デジタル民主主義というのは、こうした個人の頭の中で描いたイメージの中で群衆ができ上がることによって誕生した新たな民主主義であるように思う。デジタル民主主義はこうした見えない個人同士が頭の中で結びついているように錯覚することで生まれているのである。想像から生まれた結びつきの中でできた共同体に即した形で、SNSを使った民主主義政治への参加を可能にしているのである。

このような想像上の群衆がもたらす非合理は、例えば切り抜きによる炎上であったり、フェイクニュースからのポピュリズムをさらに生み出す。ここまでくると決してデジタル民主主義というのは、個人で参入しているものではない。さまざまな意見を持った、同意見の人同士が無意識に仲間意識を持ち、群衆となって民主主義に参加しているのである。見えない群衆が至る所で広がっているだ。

2 デジタルが民主主義を操る

古代ギリシャから始まったとされる民主主義であるが、この頃の民主政治はアゴラという広場に集まって行われる、直接民主制を敷いていた。こうした民主政治では、人間が意見をのべ、それを政治に反映させていた。しかし、最近の民主主義はこうはいかない。

SNSで政治に参加する多数の人間の中では、群衆として、デマに載せられた状態での世論形成、ディープフェイクなど、自分の確固たる意見を持った民衆の存在を見ることは稀有であろう。デジタルが民主主義を操り、現実までをも征服している。もちろん、こうした現状には打開策が求められる。

しかし、実際には民主主義においてはこうした危機があるということを叙述するだけで、結果としてこうした問題に関する解決策には至っていないのが現状だろう。「民主主義が危機に陥っている」。こうした決まり文句は、至る所で見られるし、別にデジタルに限らずの話でもある。

それでも、デジタルは民主主義の危機を加速させているということは間違いない。デジタル民主主義の未来は、今のままでいけば決して明るいものではないのかもしれない。では、何をすればデジタル民主主義は、うまくいくのか。ここでいううまくいくというのは、フェイクや噂に騙されることなく、意見を形成し、世論が出来上がることを意味する。最後にその解決策について考えみる。

3 見えないものを可視化すること

現実問題として、フェイクニュースやデマに流されることをゼロにすることはできない。残念ながらだが、デジタル民主主義の生き残りの道は、フェイクニュースやデマをゼロにすることではないと思っている。

問題は、フェイクニュースやデマに発信した情報を結びつけ、自分がフェイクというものに翻弄されていることを如何に可視化し、表示させるかに、ある。

フェイクニュースやディープフェイクに引っかかる大部分の人は、当然のことながら日かかっていることに気がついていない。であるならば、そもそも気が付かせる必要がある。ところが昨今、こうした監視の目は行き届いていないのが現状であると思う。

自分があげた情報がフェイクに翻弄されたものであり、こうした情報を誰かが発見し、その流出を抑えていく。かなり、ベタな解決策ではあるが、今のIT改革や行政DXなどの仕事も、こうしたところにかなりの活路があるのでは、と思ったのだった。




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