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貨幣発行自由化の先にあるもの

インターネットの確かなトレンドの一つに『web3.0』と呼ばれるものがある。ティム・バーナーズ・リーがワールドワイドウェブを1989年に発明してから、データという無形資産のあり方が問われるようになった。

まず、web1.0では、コンピュター開発会社やその他のデータ会社が一方的にユーザーへデータを持ちかけ提供していた。ところが、デジタルマーケティングなどのデータ・ドリブンの発達により、web2.0が考案された。これは、ユーザーとデータ会社同志で相互なデータのやり取りを可能にした。

そして新たなトレンドとしてのweb3.0はどうか。web3.0のあり方は、いたってシンプルだ。それは、データのやり取り更にはお金の貸し借りなど含め全てのことがブロックチェーンを用いて、個人間でのやり取りが可能になるというものだ。

今回考えていきたいのは、タイトルにもある通りweb3.0における監視社会という壮大すぎるテーマだ。ただ、このようなグラウンドセオリーを全てを語るには難しいので、
今の管理社会がどのように変わるのかということを考えてみたい。

データという話は一端脇に置き、web3におけるここでお金のやり取りという観点を取り出してみよう。お金のやり取りが個人間・民間企業間でできるようになるには、どうすればいいだろうか。実は、これを分析している経済学者はたくさんいる。その中で特に有名なのが、フリードリヒ・ハイエクの『貨幣発行自由化論』と言われるものだ。

ハイエクは、貨幣発行は政府の独占発行ではなく民間の自由競争によって行うべき叙述した。こういった話をすると仮想通貨を取り上げる人がいるが、これはあながち間違っていない。つまり、ハイエクのように貨幣発行を民間企業で行い、何かしらの価値のあるトークンなどを代用し、資金調達やデータのやり取りを可能にするというのがweb3の真髄だ。(銀行がなくなるのではないかという話は省略する)

そこで私が1番問題だと思うのはweb3.0により、お金やデータの中央集権化がなくなると問題になってくるのは、こうしたお金とデータなどのやり取りについてどのような監視が現れていくのかということである。

近現代社会では自分が自分を律する形で自分を監視するという見えない規律というのが芽生えた時代だと言われる。しかし、このフーコーを準えたような通説は貨幣発行自由化の世界には通用しないように思う。フーコーのモデルはあくまで中央集権でベンサムが組み立てた監獄の中でしか通用しないモデルであり、中央集権がない監視社会を考える上では別の仮説が必要だ。

そこで思うのは結局監視社会はかに見られて見られることがわかっている上で監視される時代に逆戻りするのではないかということだ。
もっというと自分が進んで誰かを監視して、監視し合うとういう「監視文化」という存在が今後のキーワードになっていく。

あくまで仮設だが中央集権がない監視社会というのは以外と考えられていないのでこれからもこうした観点で監視社会は改めて深掘りしていきたいと思うのだった。

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