日記 湯の温もりに浮足立ち

浴槽に湯を張り、座禅し、湯を抜く。

目を閉じ、排水口を静かに流れる湯の音と温もりを確かめ、瞑想する。

浴槽を満たす湯の浮力を感じていると、次第に湯が減り、浮力が弱まる。

浮力によって維持されていた座禅の型を維持することが難しくなってゆく。

湯が完全に流れ去り、浴槽に一人残された私は、湯の浮力も、その温もりも全て剥ぎ取られた。晒された体が冷える。座禅の型をこの身一つで維持するがゆえに、足が痛む。

湯があるという幸福。浮力により座禅の型を維持することが容易だった。温かいので凍えることもなかった。

では、湯がなくなった今を見よ。震える裸体を晒し、我が身の重さに苦心するこの様を見よ。

残念ながら、これが本来のお前なのだ。湯は奪われたのではない。元々、お前のものではなかったのだ。だからお前を離れていったのだ。

お前には、その身一つしか無い。そしてその身もいつかは朽ちる。なのでこれもただの借り物である。これすらもお前ものではないのだ......


我々は今、温かな湯の中にいる。楽しいことに満ち溢れ、浮足立って生きている。なのですぐに忘れてしまう。この幸福は泡沫であるということを。

「絶望に叩き落された時、初めて幸福だったと気がつく」というものがあるが、それは、そういう事実を忘れてしまった者に訪れるむごたらしい報復というほかはないだろう。

とはいえ、犬儒派のように全ての幸を捨て去る生き方は人の豊かさを奪ってしまう。幸福であることを恐れることは健全とはいえないだろう。

だからこうして思い出す。この温もりの尊さを。

地に足をつけ、我が身の重さを確かめよ。

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