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福岡大ワンゲル部ヒグマ事件|昭和45年|日本クマ事件簿

本記事は書籍『日本クマ事件簿 〜臆病で賢い山の主は、なぜ人を襲ったのか〜』(2022年・三才ブックス刊)の内容をエピソードごとにお読みいただけるように編集したものです。

はじめに

本稿では、明治から令和にいたるまで、クマによって起こされた死亡事故のうち、新聞など当時の文献によって一定の記録が残っている事件を取り上げている。

内容が内容ゆえに、文中には目を背けたくなるような凄惨な描写もある。それらは全て、事実をなるべく、ありのままに伝えるよう努めたためだ。そのことが読者にとって、クマに対する正しい知識を得ることにつながることを期待する。万一、山でクマに遭遇した際にも、冷静に対処するための一助となることを企図している。

本稿で触れる熊害ゆうがい事件は実際に起こったものばかりだが、お亡くなりになった方々に配慮し、文中では実名とは無関係のアルファベット表記とさせて頂いた。御本人、およびご遺族の方々には、謹んでお悔やみを申し上げたい。


事件データ

事件マップ(カムイエクウチカウシ山付近) ※(4)~(11)の出来事は八ノ沢カール 参考:『北海道新聞』1970(昭和45)年7月28日(16版)
  • 事件発生年:1970(昭和45)年7月25〜27日

  • 現場:北海道新ひだか町・中札内村/カムイエクウチカウシ山

  • 死者数:3人

日本最高峰の山で起きた凄惨な事件の予兆

日高山脈の最南端である襟裳えりも岬から、道央と道東の境界となる狩勝かりかち峠まで約150kmにわたり、標高1,500mを超える山が悠々と連なる「日高山脈」。「北海道の背骨」ともいわれるこの大山脈に、事件の舞台となったカムイエクウチカウシ山、通称「カムエク」はある。

カムエクは山脈の主稜線上ほぼ中央に鎮座し、そのピラミッド型の山容から、最高峰である標高2,052mの幌尻岳ぽろしりだけを凌ぎ、「日高の盟主」とも呼ばれる日高山脈第二の高峰だ。標高は1,979m、整備された登山道はなく難所も多いことから、アイヌの言葉で「クマの転げ落ちる山」を意味するその名の通り、山頂までの道のりはとても険しい。

1970(昭和45)年7月14日、福岡大学ワンダーフォーゲル同好会の5人のパーティーは、夏季合宿として日高山脈を縦走するべく、北端の芽室めむろ岳(清水町)登山口から入山した。13日をかけて、山脈中部に位置するペテガリ岳を目指す計画だった。

入山後は芽室岳を経てルベシベ山、ピパイロ岳、戸蔦別岳とったべつだけと主脈を南下。23日午前10時30分頃、戸蔦別岳と幌尻岳を結ぶ尾根下に広がる七ツ沼カールに到着した一行は、当初の計画から大幅に遅れていることから、残りの日数と食料を鑑みて、今季合宿は途中のカムイエクウチカウシ山で打ち切ることを決めた。

その後、幌尻岳に登頂し、新冠川にいかっぷがわを経て25日にはエサオマントッタベツ岳と春別岳の山頂を踏んだ。さらに南下し、九ノ沢カールにテントを張ったのは、同日午後3時20分頃だった。この約1時間後に、クマによる一度目の襲撃が起こる。

人を襲わないはずのクマが3度にわたりテントを襲撃

夕食後、全員がテント内で休んでいたところ、テントから6~7m先にクマがいるのを一人が見つける。黄金色と白色の毛並みが目立つ、体長130cmほどのヒグマだ。しかし最初はみな怖がる様子もなく、興味本位で観察をしていたという。

というのもこの当時、日高山系でクマの目撃情報はたびたびあったものの、人を襲うということはまず考えられていなかったからだ。もしクマが近づいてきても、大きな声を上げたり、大音量でラジオを流すなどすることで逃げて行くと周知されていた。

クマは離れたところからテントの様子を窺っているようだったが、徐々に接近してきたのち、外に置いていたザックを暴いて食料を漁り始めた。5人は隙を見てテント内にザックを引き戻し、ラジオを流して火を焚き、食器を叩くなどしているうちに、30分ほどでクマは立ち去って行った。

しかし午後9時頃、クマは再び現れる。テントに鼻息を吹きかけ、爪で拳大の穴を開けたが、また姿を消した。その夜はクマの襲撃に備え、2人ずつ2時間交代で見張りをし、午前3時に完全起床。出発準備を終えようとしていた午前4時30分頃、クマは三度現れた。

今度は大胆にもテントに手をかけ侵入しようとしたので、テントが倒れないよう中で必死にポールを握り、幕を掴んだ。5分ほどクマとテントを引っ張り合ったが堪えきれず、5人はクマと反対側の幕を開けて一斉に逃げた。

50mほど走ったところで振り返ると、クマはテントを倒し、中にあるザックを漁っているところだった。

北海道学園大学のパーティーも前日午後に襲われていた

再三にわたる襲撃を受け、ハンターの出動要請をかけるべく、5人のうち2人のみが下山した。なぜ全員で下山しなかったのか。それは金銭などの貴重品が入ったザックや、テントを取りに戻りたかったためだったとされている。実際、2人が下りている間に、クマがいなくなった頃合いを見て、残りのメンバーがザックとテントを取り返している。

2人は九ノ沢きゅうのさわを下りた先の八ノ沢出合で、北海道学園大学のパーティーと出会った。実は彼らもクマに襲われ、予定を変更して下山している最中だった。

北海道学園大学も夏季合宿として、当初エサオマントッタベツ岳を経由してカムエクを目指していた。福岡大が最初にクマに襲撃された前日の24日に、春別岳の山頂で休憩をしていた5人のパーティーは、笹藪からこちらを見ているクマを発見。クマは人間を怖がる様子もなく、まっすぐに近づいてきたという。

慌ててザックを担いで下山し始めたが、クマもその後を追ってくる。後方10mほどまで迫ってきた時に、5人は高さ2mある岩に飛び乗った。姿勢を低くしながら唸るクマとしばらく睨み合いが続いたが、次の瞬間、5人の間を割るようにクマが飛びかかる。勢い余ったクマはそのまま反対側の斜面を転がり落ち、すぐさま体勢を立て直して再び襲いかかってきた。5人はザックを先に落として30mほど走り振り返ると、クマは人間を追うことなくザックの中身を漁っていたという。

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