盆栽の品評会を訪れたことがあるでしょうか。鉢から飛び出す三次元の自然が瞬間の先まで根をはり、葉を広げる常緑の記憶として四次元的に記憶されるものです。私たちは一様に魅力を振りまく生き物ですが、ミツバチの助けを借り、根や幹を外から支えてもらう必要があるものです。そうして成長したり、時々枝が折れてしまったり。 花が咲き、鉢の外に飛び出すかはわからないから、たまには凡才のみんなで同じお水と風を味わうのも楽しいかもしれません。 ●落選読書会では「劇的!」な化学肥料の使用を控えています。草木が年月をかけて育つように葉脈ならぬ文脈をみゃくみゃくと大切にしますので、「明日から役立つ!」ことも「人生が変わる!」こともありません。お昼ごはんがちょっぴり美味しくなるくらいです。 ●当面の水やり ①各種読書会を催します。 ②スマホの画面を見てニヤニヤします ③みなさんの本棚に同じ本が並びます。 ④作品の文脈にわたしたちがいたり、わたしたちの文脈に作品があったりすることを、それ以上でもそれ以下でもなく楽しみます。 ●「何も具体的なコトが書いていないジャナイカ!ステキ!」と思った方が特に楽しめます。
落選読書会に参加していただけます。
ヶm
同じ型の鼈甲の指輪を何度も買い替えている男がいます。 彼は「読書は食事と同じ!」と悪い魔法使いに呪いをかけられてしまい、以来それほど多くない量の本を楽しく読んで暮らしていました。 しかし、あるそれはそれはド平日に「読んだ事を日記的に記録しよう!」と存外まともな事を思いつき、「「記録」とか「日記」とかは私的な感じがして何だかなぁ」とか「おしゃれなタイトルにしてぇなぁ」と思って最初は「ケンタウロスのお花見」というタイトルにしましたが、Safariで検索した際に出てきたケンタウロスの骨格の画像がしんど過ぎて不燃ゴミになりました。 この経験は間違いなく、元来ケンタウロスが好きだった彼の人生に影響を及ぼし続けることでしょう。 ということもありましたが、高級フレンチにマヨネーズをかけるマヨラーの所業の如く、名著に「駄文」を供えます。
朝起きて、まだ動きたくないなと思う日曜日。 けれども日曜日は待ってくれない。日曜日は滝。美しいながら、急降下して月曜日という滝壺に人類を流していく。 起き上がらなければ月曜日がやってきてしまう。そうして遮光カーテンを開ける。 開ける度に感じる朝の素晴らしさ。昨晩には忘れてしまっていた朝の熱。 ふとしたきっかけで思い出すことはポツリポツリとあって、それがこんな本でしたよと。
御茶ノ水駅で待ち合わせをして、東京に住む茨城の人間について橋を渡った。「3年ぶり」とか「神戸の中華街に行った時ぶり」とか、人と人とが少しの間会わないでいると大概ぶりぶりしてしまうもので、午前中に会って午後にまたあった時は「午前もじゃこ(関東ではワカシ)」とか、1週間前の講義を一緒に受けて以来の再会ならば「1週間いなだ(関西関東共通)」とか、「さかなクン」が「さかなサン」と改名するほどに世間を席巻したならば、出世魚にちなんでバラエティに富んだ再会の言葉が繰り広げられるすギョい
今日の読書:森見登美彦『聖なる怠け者の冒険』 2年ほど前に購入した上妻世海氏の『制作へ』という作品を、3度目の手合わせにして一旦の読了に至った。その足で向かった本屋さんで森田真生氏の『数学する身体』を手に取り、早足で入店した喫茶店で目を上下させ、チャイの氷が溶けきった。 最寄り駅最寄りの本屋さんで小林秀雄氏の初期論考集を見つけた。氏が22歳から30歳の間に書いた論考に25歳で出逢ったことに心臓の弁が逆流を辞さないようであった。 そうして5月を過ごしている間に友人が結
今日の読書:森田真生『数学する身体』 現代人は常に「このままで大丈夫だろうか」という疑念に似た思いを抱えている訳であるが、コンディショナーの使用法と、コンディショナーを毎日使っていることに対して妥当な結果が得られるいるかどうかが明確になることはないだろう。
今日の読書:森田真生『数学する身体』 デパコスフロアに足を踏み入れるたびに綾瀬はるかが目に入るように、日曜日の夕方には月曜日がちらつくようで、それは綾瀬はるかを仰ぎ見る視線とほとんど変わりない。人類は必ずしも100分の600スケールの綾瀬はるかの顔面ー太陽系全域から集った元野球部がトンボで丁寧に整地した月の表面のようなーを見て畏怖の念を抱くことも、己のイニシャルに“-Ⅱ”を加筆しようとも思わないであろう。「あ、綾瀬はるか、肌綺麗」と思うように「明日月曜日か、仕事」と心の中
今日の読書:上妻世海『制作へ』 ドライヤーをかける際、最後に冷風モードにすると髪の毛のためになるという話を聞いたことがあり、聞きよう聞きマネで実践してはいるが、毛が冷えて乾いているのか乾いていないのか分かりにくい。ということでドライヤーの労働時間が延びる訳であるが、散髪したばかりの20代男性でこの乾き様なら、小雪や小雪に準ずるロングヘアーの方々は一日のどれくらいをドライヤーに費やしているのだろうか。間違いない筆者よりもドライヤーが懐いているに違いない。
今日の読書:上妻世海『制作へ』 「今日1日何をしていましたか。」と問われれば「何もしてませんでした。」と、赤子をなでなでするように容易く答えられる訳ですが、仮に今日たまに見かける近所のクロネコにソリティアの遊び方を口承伝授したとしても、23時ごろに同じ質問をされれば「別に何も。」と答えるだろうから、眠たい時間に匙は持てないのである。
今日の読書:マルセル・デュシャン ピエール・カンバス『デュシャンは語る』 避けては通れないことの中でも避けては通れないものの1つに、「これは避けては通れないな」と自答する際の何とも言えない主人公ヅラがある。 そして、毎日インターネットの容量を蝕まないでもない筆者の駄文に目を通すことは、避けて通れることの代表格である。
今日の読書:上妻世海『制作へ』 朝目が覚めて、ふくらはぎが張っている日と張っていない日があるが、ふくらはぎの弾力で今日の調子をおおかた推し量ることができる。なんてことはない。 昨日と今日で何が違っていたのか、ふくらはぎ以外は特段変わりなく、あるとすれば朝から目が開いていて可愛い日があったり、ほうれい線がアウトバーンの如き日がたまにあるくらいである。
今日の読書:マルセル・デュシャン ピエール・カンバス『デュシャンは語る』 真の強さとは、スキンケア用品のお試しを手の甲で実演してもらった後に、毎晩歯を磨くかのように何も購入せずに店を後にすることである。しかし、人間はそういつでもどこでも肝がリビングでくつろいでいる訳ではなく、実際に試した商品が良かったりしてPayPayが唸りをあげるものだ。 筆者も「非ところてんヒューマン」の1人なので、コットンを使って丁寧に保湿されている段階で早くも宮川大輔が踊り始めていることを察知す
今日の読書:上妻世海『制作へ』 寝る前にストレッチをすることは、蕎麦に七味をかけるようなもので、無くても成立するけれどあるとより良い。ストレッチが一向に七味にならない。
今日の読書:上妻世海『制作へ』 「イタリアンにはワインでしょう」と語りかけるでもなくプリウスのように音も立てず走る電気信号によって、案の定の赤ワインを注文してしまった筆者。 ビールの国に留学していた頃にワインの世話をしてくれた友人がいて、彼が筆者が帰国する数日前に筆者の生まれ年のワインをプレゼントしてくれた。20年余りの歳月を彼のワインはワインとして樽か瓶か何かの中でじっくりと過ごして来た一方で、筆者はまんまとビール派に名を連ね、くびれひとつ無いジョッキをあおる獣と化
今日の読書:上妻世海『制作へ』 岩盤浴に行きたい場合、「岩盤浴行きたいわ〜」と言うわけであるが、1度しか行ったことがない。1度の経験だけで「行ってみたい」から「行きたい」に転身できるのは、特筆すべきことではもちろんない。こうした浅い経験を水増しする叙述トリックは、もはや擦られすぎていて、JUJUのハイヒールであればとっくにキトゥンヒールになっている。
今日の読書:中島敦『山月記・李陵 他9篇』
今日の読書:中島敦『山月記・李陵 他9篇』 特に雨が降ると知っていたわけではない日に折り畳み傘をすっと鞄から出す時、「滞りなく準備してます」という風に得意げな顔をしていないだろうかと考えてしまう。荷物の軽量化と雨への備えを日々天秤にかけて、折り畳み傘を持っていたりいなかったりして、たまたま入っていたらラッキーなだけなのに。
今日の読書:中島敦『山月記・李陵 他9篇』 「肉食いて〜」とはなっても「貝食いて〜」とはならず、されど貝類は贅沢ものぞろいでなかなか魅力的である。「ピーマンの美味しさがわかった」という風に、味覚が徐々に進化しているのであれば、食欲に関わる欲望の枢機卿が未だ貝の次元に到達していないとも考えられ、彼の成熟によって今後私たちは「今日めっちゃ貝食いたいですね」的な会話をするようになるのだろうか。
今日の読書:『山月記・李陵 他9篇』 麻婆豆腐弁当を注文したらスプーンがついていなかった。仮にシェフが「これはお箸で食べる麻婆豆腐なんですよ」と言えば「お箸で食べる麻婆豆腐なのか」と納得するのだろうし、実際に言われなくともお箸で食べた。 周囲の人々が優雅に食事をとる中、覆水を盆に返すように麻婆豆腐を完食する姿はまさに、ドナテッロに囲まれたフォーブであった。