舞台「仁義なき幕末」感想~愛憎と野望と意志が渦巻く男たちの群像劇

※以下全てネタバレありです


舞台が幕末でも令和でも、メインは大友と村田のクソデカ感情なんだけど、その周りもまたフレーバーとして片付けるには重すぎて…結果2時間10分とは思えない大大大ボリュームだった!!!
しかし、毛利さんが死屍累々エンドを描くとこうなるんですよね~。観賞後の感じはGOZEN狂乱の剣に近い。なんか爽やかというか、収まるところにちゃんと収まったなあという感じがする。大団円エンドも好きだけど、こういうどこか達成感と満足感のある皆殺しエンドは好きだ。みんながそれぞれのやりたいことに命燃やして死んでいくからなのかな。志半ばとかあっさりやられるとかも含めて、全員がふさわしい死に様をしていく。


大友→村田の感情はいろいろぐちゃぐちゃになってるけど、土台には「嫌い」が確実にあって、実は好きだったでしょみたいな部分はないと感じた。
じゃあ何が彼を縛りつけていたかといえば、やっぱり孤児だったところを拾ってもらったという「仁義」ですよねえ…。これが自分一人だけが拾ってもらったなら違うけど、妹と一緒となるとその重みが違う。あとはおそらく映画の高梨も個人的に大友についてきたのを正式に組に入れてもらったのかなって気もするし。そういう恩があったから、なのかなと。
そしていくら「お前は恭次じゃなくて坂本龍馬」と理屈をつけたとて、仁義で抑えつけてたあの感情を出してしまった以上は、もう仁義通して自分も死ぬしか、恭次と名乗る龍馬に殺してもらうしかなかった。彼なりの落とし前のつけ方はもうそれしかなかったんだよなあ…。
さらに、その屁理屈をつけたことにより、目の前の坂本龍馬をただの龍馬だと割り切ることができなくなってしまっていた。龍馬と恭次の境界線が大友の中で曖昧になってしまっていたからこそ、目の前にいる龍馬をすぐに受け入れることができなかった。まあ最終的には自分の落とし前をつけてくれる、殺してくれる相手として受け入れるわけですが…。
余談ですが「この人に殺してもらわなければならない」という構図をわだっくまさんがやっていると気づき、刀ステのオタクは心の中で絶叫した。今度はあなたが、自分が裏切った相手に殺されることを望む側になるのか…。そして似て非なる者に殺されるところまで綺麗に反転…。

ただ令和で一緒に居続けたなら、こうはならなかった。どんなに嫌いでも、それを表に出す機会など、一緒にいる限りは永遠に訪れないから。なんなら、嫌いという感情が大友の中ではっきりと形になることさえなかったかもしれない。大友自身も気づかない奥底で燻っているだけの感情で済んだかもしれない。村田が幕末に残るとか言うからこんなことに…。
一緒にいたかった、というより、やっぱり親父さんへの仁義のために2人でテッペン取るってのをどうしても実現したかった、が先に来るのかな。一緒にいるってのは目的ではなく、親父さんへの仁義を果たすための手段だった。その手段を「二人の夢」として掲げてそこに邁進しているうちは、村田のことを好きとか嫌いとか考えもしなかったんだと思う。しかしその夢を先に裏切った村田を許せなかったからこそ、それがトリガーになって大友の仁義の覆いも剥がれてしまった。
令和に戻ってからの大友はもう、端的に言えば、死に場所を探している状態だったと思う。錦旗会を追い出す、そうして仁義を取り戻したら死ぬ。あれをしてしまった大友には、もうそれしかもうやることがなかった。


そしてそれを察する坂本龍馬な!!!やっぱり何歩も先を行く男だよあんたは!!!小夜に頼まれなくても大友をやるつもりがあった。それはおそらく、もともと中岡を振り回してる自覚があって、中岡がもし自分を殺してしまったならそれを望むだろう、というのを重ねて考えたからかもしれない…というのが自分の解釈。
村田−大友の関係と、龍馬−中岡の関係は写し鏡。中岡は呆れながらも、もしかしたら時に龍馬を嫌いながらも、最終的にはずっと信じてついてきてくれてた。中岡が龍馬に、元の時代に帰ろうって言って刀を向けたとき、すわ大友村田の悲劇再び!?と思ったけど、襲ってきた沖田に気づいてのことだった…ここめちゃくちゃ緊張して安堵した…。
でももし仮にここで中岡が龍馬をやってしまったら、中岡は死を望むような気がする。なんで龍馬を信じきれなかったんだろう、やりたいことを受け入れてやれなかったんだろうって。龍馬はそれがわかっていたから、大友の感情もその応用で想像できたのかなと。

村田大友と龍馬中岡、どこが分岐点になったかといえば、やっぱりそれぞれの器の大きさってことになっちゃうのかな。村田が龍馬となった姿もよくやってるよとは思ったけど、まあ格が違いますわ…戦片付けて総理大臣になるって…。現代日本のどんよりした雰囲気も的確に言い当ててるなと思ったし。村田が龍馬になれたのはおりょうさんの支援が大きいところがあるけど、龍馬は自力で目標を見つけてた気がする。まあこれは、歴史に定められた龍馬の事績をなぞらなければならない村田と、まだ歴史として確定していない現代で何でもできる龍馬の状況の差もあるかもだけど、それにしても龍馬ってやっぱりぶっ飛んでてすげえな、に行き着くキャラクター造形。
わかりやすく違う部分を挙げるなら、映画で大友に撃たれた村田は「なんで…?」という反応だったのに対し、中岡に刀を向けられた龍馬は「斬ってみい」と言えたところかな。覚悟の深さの違い、普段から相手をどれくらい見ているかの違い。相手が自分に向けている感情への想像力の違い。
中岡が龍馬に問いただした真意はたぶん、龍馬をいちばん輝かせる時代はやっぱりここじゃなくて幕末だから帰ろうって言いたくて、でも龍馬が自分に斬られることもいとわずこの時代で生きる覚悟を見せたから、もう好きな時代で思いっきりやれ!っていう遺言を言えたわけで。まさしくこの、相手のやりたいことを受け入れてやれる懐の広さこそが、大友がなぜできなかったんだろうって後悔するポイントであってな…。
まあそもそも、親たちの都合で引き合わされた村田大友と、同じ志を抱いて出会った龍馬中岡を、同じ条件で比べるのが酷かもしれないけど。


あと新選組が好きだ!!!映画でも思ったけど、この役割だからこそ、近藤ではなく土方なんだよな…!!!自分、いろんな新選組関係の創作を通過した結果、土方の人物像としては政局とかは興味なくて、「武士として生きる」という形式をいちばん大事にしていた、てのが好きで。刀を振るい士道を貫くってのが第一優先で、誠なんてのはその理屈を補強するためのものでしかなかったのではないかと。
この解釈で見ると、若松につくか検討したり、北園を試して結局若松を見せしめにしたりするのも、見極めているのは「自分が命をかける価値があるか」ではなく、「自分が武士であるために担ぎ続けられるか」の方だったような気がするんですよね~!
この時代で誠を「見つけたい」とも言ってましたね。武士であるという形式が、担ぎ上げた幕府の終わり、そしてそもそも刀の時代の終わりが見えてきた時代では続けられなくなってるのはわかってた。だからこの現代にある意味で縋るしかなくて、現代で誠を「見つけた」からここで生きるのではなく、もう幕末では武士ではいられないから、無理にでもこじつけでも「見つけたい」、なんだろうな。
これが元々武士に近い身分でなんか偉くなっちゃって最後は処刑されてしまう近藤ではこのポジションにハマらないんですよ!ここは!土方!!
そして石黒さんの圧倒的存在感…かっっっこよかった…!!!現代の衣装になっても黒のダンダラ羽織!!!あの体格で靡かせて大振りの殺陣やるもんだからもう映える映える!!!刀のフォロースルーがめちゃくちゃ綺麗!!!しゃべっただけで場が静まるし。
でもあれほどの風格を持ちながら、桂のように組を乗っ取ってどうこうって考えなかったところも、やっぱり自分の好きな土方像なんですよね!!!あくまでも誰かを担いで戦う「武士」でいたい!!!

沖田と原田も切ない…、武家の出で真っ先にこのヤクザの抗争に意味がないことに気づく…いや違うな、意味がないことにはみんな気づいていて、それを真っ先に口に出してしまうのが原田。沖田と土方は、大義はなくても武士でいられれば、戦うことができればそれでいい、でも原田は違うんだ…。歴史では裏切るって言われてたけど、別に仲間を売ったとか明確に敵対したとかじゃなくて、ただ袂を分かって別組織を結成して戦っただけなんだけど、その史実も原田には耐えられなかったんだろうか…。
龍馬暗殺説のある原田が、この乱戦に次ぐ乱戦のストーリーできっちり龍馬にやられるのすごい。映画のときも、現代の人間関係がこんな綺麗に幕末の実在人物と絡み合って再現されることある!?って思ったけど、逆もまた然り…。
そしてこのとき、次の中岡が死ぬシーンをやってる後ろで、沖田が原田を看取る芝居が続いてるんですよ…無音だし照明も当たってないけど、原田の目を閉じてやって、すごくすごく思いを込めてから、絶望しきって力が抜けた中にあいつだけは許さないっていう憎しみを宿した背中で去っていく…ここの沖田の芝居がすごく良かった…。

沖田くんは早く病院行こう!真面目な話すると労咳は治るけど君病院行けるかい!?無保険だね!?まあヤクザなら無保険なんて当たり前だろうから、なんかその北園の手を治せなかったやぶ医者でもなんでもいいから早く医者にかかろう!薬なんざ北園の裏ルートで手に入るだろう!?単に死にたくない、じゃなくて「畳の上で死ぬなんて」なところが今作の沖田としてめちゃくちゃ良かった…
あと完全に余談だけど龍馬vs沖田の図、作品が違えば加州清光vs一期一振、というか沖田の刀と沖田が戦ってるやん…!の構図なのよね。三段突きのキレやばい。いつ刀引いたかわからん。


映画と同じくやはり女は鋭い、そして強くて現実的。愛した男が消えても、側にいてくれる男が魅力的ならそっちに惹かれてしまうのわかる~~~!!男性の方が昔の女とかに執着しがち、女は常に目の前にいてくれる男を見てる、っていう恋愛観にめちゃくちゃ解釈一致!!!でも、自分は恭次じゃないって気づいてるけどいざそれを尾崎の口から言われると衝動的に撃ってしまうのもわかる~~~!!!ちゃんと本人の口から聞きたいんだよ!!!
龍馬/村田、女性、中岡、っていうシチュエーションになって中岡がうまくやれよ!みたいにフェードアウトしていくの、完全に映画と同じで笑ったwwwそのあとの龍馬も、一夜明けたあとの村田と同じだしwwwこういう、映画を見てたらこれリフレインしてるやんけ!みたいなのがちょいちょいあって観てて楽しかった。


岡宏明の10頭身洋装を見たか。幕末人が現代服になってもなかなか桂だけ変わらないから最後まで和服なのかと思ってたらこれだよ!!!顔ちっさ!!!足なっが!!!これがパリコレモデルだ!!!
というか幕末人の洋装、全員めちゃくちゃ良かったので、早くステブロ売ってください!!!!観劇時点ではまだ発売してなくてですね!!!
えーと、寺田屋事件の段階では、まだ長州は朝敵だったんですよね。長州征伐の合間に薩長同盟、寺田屋事件って感じか。だから歴史を知って、長州が勝てるなんて誰が思っていました、っていうのはある意味本音なんだろうなあ。もちろん勝算なく活動してたわけじゃないんだろうけど、あっほんとにあのあといけたんだ、っていう確証を得て安堵したというか。
アカデミックな歴史学では過小評価は決してされてないと思うんだけど、どうしてもパブリックイメージという面では龍馬に押し負けてるよねえ…それはほんとにかわいそうではある。いろいろと変なバフがかかったせいなんだ…
幕末で結局長州は勝てた、という史実が自信となり、でもその長州勝利の大部分が自分のおかげであるにもかかわらず、逃げの小五郎とか呼ばれてると知ったら…ああいう行動に出るのか…。国を手に入れ思いのままにすること自体は史実でもわりと成し遂げてると思うんだけど、わかりやすいトップ!というイメージは確かにない。初代内務卿は大久保利通に持っていかれてるし。だからどちらかというと、裏社会から日本を操ることそのものよりも、「自分の名を裏社会に轟かせる」ことを目的としたのかな。大友は幕末に行って狂ったと言っていたけど、ある意味桂も、令和に来て、未来の歴史評価を知ってしまったが故に狂わされてしまった人物と言えるのかもしれない。
特定の勢力だけが強くなりすぎないように、って発言は西南戦争から学んだのかなって思ったし、幕末以降の歴史を学び現代に適応して(スマホ使いこなしてたからね!?)、メンタリスト顔負けの煽りで尾崎を操り、抗争の漁夫の利を狙っていたわけだけど、誰も信じないから誰も味方がいなかったんだね…。


尾崎も可愛かったよ、そうだよね、いくら大友が錦旗会潰すとか言っても「とんずらこいてたくせに!」はわかる~~~!!ってマスクの下で呟いてしまった。この子も高梨と同じタイプで、幕末どころかほんとはヤクザからも遠いタイプなのかもしれない。ただただ一生懸命で、素直で、信じないことは信じない。こんないい子がこんなところにいるから桂に利用されるんだよ~~~。恩を大事にするいい子が故に組を去ることもせずにここにいたんだろうけど。ヤクザの抗争してるだけだったらまだ生き残れたかもしれないけど、幕末人たちの思惑が渦巻くようになったあの場所では長くは生きられなかった子だろうなあ…。時代の犠牲者、というかあの赤い子の犠牲者か。


しかし時系列というか世界設定?はどうなってんだ?寺田屋事件のところに村田が飛んでしまう、のは映画と一緒。ただ、映画の話は映画の話で一度完結したあとは、それを覚えているのは大友と伊達だけで、他の諸々はなかったことになって?幕末の人物たちの記憶からも消えた。
今回の、寺田屋で村田の方が死んでしまうってのは、あの赤い子が映画の話を一旦リセットして、また新たにやり直してる?ただしそれだと、舞台に高梨がいないことの説明や、伊達が幕末から戻された説明がつかない…。
令和で1ヶ月経っていることからも、映画の話は「令和人にとってはちゃんとあったことになっている」「幕末人にとってはリセットされている」って感じかな?沖田生きてるし…。その上で、幕末の方を書き換えたわけか。寺田屋で本物の龍馬が死んでしまったルートをなかったことにして、代わりに寺田屋で村田が身代わりに死んだルートを発生させ、その上で幕末人たちを令和に呼んだ。って感じかな?
結局あの赤い子の正体もわからんけど、わかんないままでいいやつだなって思った。なんかもう幕末とか令和とか超越して、歴史が変わっちゃおうとどうでもよくてとりあえず介入して遊んでる人(デザイアグランプリの運営じゃん。わかる人にしかわからない)
衝動的にリピチケ取って昼夜見てきて、夜公演は武器がすっぽ抜けたりミスというほどでもないセリフミスがあったりしてさすがに役者たちの疲れが見えたんだけど、あの赤い子の高笑いは常に一定のクオリティだったのがすごかった、ちゃんと人外感出てた。


アクションクルーがちゃんとかっこいい舞台は何をやってもちゃんと安定感あってかっこいいな、という当たり前の感想。刀剣乱舞でも何度もお見かけする役者さんもいて。
アクションの「被せ」「当て」も、刀はよく見るけど、この肉弾戦でもすごかった…!さすがの栗田アクション監督。刀で斬るのと違って殴る蹴るは受けた側のやられアクションもきちんと合わせないと成立しないと思うんだけど、全部すごかった。
あと上述での夜公演での武器すっぽ抜け、序盤に大友が拳銃構えなきゃいけないところで落としちゃってたんだけど、徒手空拳で構えたあと、めちゃくちゃスタイリッシュに回避アクションとつなげて、これだけ見た人にはトラブルあったようには全く見えない動きでカバーしててすごかった。ここらあたりはもうさすがというかお手の物というか。
あと小夜の歌うシーンも結構好きかも。無音になってクラップと指パッチンだけのところ、ちゃんと全員がビタビタに揃ってて気持ちよかった~!


〆ようとして伊達に言及してないことに気づく。だって全部最高なんだもん。あの刀舐めるのも2回もやってくれるし。つまらないときは本当につまらなそうで、生きてる!と叫んでるときは全身から劇場全体に伝わる生のエネルギーが大爆発してた。感情の全てに素直に生きてて、辞書に載せる「生き生きと」の模範がそこにあった。
最後にカテコ挨拶とアフト内容だけ覚えてる限り共有して終わります。


4/30昼 メタルさん
知ってる役者が鈴木勝吾、和田琢磨、松田凌しかいなかった、しかも前2者は最近知り合った上に舞台上でもあんまり絡みがなかった
松田凌は10年前は弟子だったのに飼い犬に手を斬られた!!!www
……特撮オタク大歓喜なご挨拶をありがとうございます。シャルモンは不滅。最近もTTFC配信作品で一緒に出てくれてるしありがとうございます

4/30夜 小野くん
薄桜鬼に出会って10年前にここに立った役者たちとまたここに立てるのが嬉しい、そのご縁もだし、今日観に来てくれた皆様とのご縁も大切にしたい
……ゴセイジャーは名作に挟まれ影薄いわ周年作品もないわであんまり話題に上らないんだけど、そのあと出会った作品が小野くんにとっての役者人生のホームとなる作品となったようでお姉さんは嬉しいよ(どこ目線)

4/30夜アフト 松本寛也司会、松田凌、矢崎広、和田琢磨、鈴木勝吾
疲弊してる3人+フレッシュな矢崎広
松田「他の作品の話をするのも野暮だけど、ちょうど今作の初日の10年前にここで薄桜鬼の初日だった」←鈴木「自分で言ったじゃん!」
薄桜鬼の10年前から知っててくれてる人!→それなりの人数挙手
撮影中、剛力さんと会ってない3人は蕎麦を食べに行った、撮影が残ってた村田は剛力さんと2人がいいなと思ってたけど中岡がいたw
松本「なんでこんなイケメンを途中で殺しちゃうのって言ったんだけどね」
途中退場があんまりない矢崎広
矢崎が開幕ナレや劇中ナレやってるの気づいた人!→大量挙手
毛利さんに殺されがちな矢崎、松本「俺サンシャイン劇場で10回くらい死んでる」
毛利さん初めましてなわだっくまさん、毛利イズムを感じる面々
山形出身で仲良くなった矢崎和田、秋田出身の松本
鈴木「れいわ新選組っていうチラシが配ってたから、興味ないけど伊達が見てるって設定で持ってきてた。あとシン仮面ライダーのチラシも。袖にはモマのパンフもある」→これで終わりそうなところを良い感じに〆るぴろし
4人がはけてから松本「東北出身の人」→それなりの人数挙手「これ見せてあげたかったな」

……寛也くんは司会してる暇があったらチンピラ役で出たら良かったんでないのかい!?東映俳優の看板はどうした!?…と思ったが、どうやらドンブラFLTと被っちゃうようだ。残念。
寛也くんと矢崎がサンシャインで死ぬやつ、そのうち1つはシリーズ第1作のGOZENですね。あと寛也くんは社中東映コラボの「パラノイアサーカス」「ピカレスクセブン」でも死んでるね。しにつか作中ではまだ生きてるはずなのでいつか鬼八一家カムバック…!
ダメだ寛也くんの話になっちゃうので終わります!楽しかった!!!

映画の感想も見てくださる方はこちらで↓
https://filmarks.com/movies/106308/reviews/152306471

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