花影、というか刀ミュの価値観とか歴史観とか

と、合わない部分の話。
完全に一個人の解釈です。好きな人は好き、合わない人は合わない、そういうものです。

花影観てきて。
なんなんだろうこの、「可哀想な存在が救われた」って建て付け。違うよ。可哀想なんかじゃない。ただそうあってしまった、その事実があるだけ。どうしてそれをそのまま肯定してはくれないんだろう。
歴史は、事実は、もう「一度そうなってしまったもの」でしかないから、それに良いも悪いもなくて。だからこそいっそのこと影でも闇でも地獄でもなんでも、ただありのままを肯定してほしい、愛してほしい。もう開き直って肯定するしかない事実を生きてるから、こんな現実望んでなかったけど愛してるつもりで生きてるから。
どうしてただそうなっただけの事実をいちいち、これは可哀想、これは幸せ、ってジャッジするの。

救いのある物語ではあると思うけど、でもその救いってのは、正史でのカゲは可哀想、っていうジャッジが前提になってて。その価値判断が自分と徹底的に合わない。
望まない生き方を送ること、表の歴史に出てこないことは可哀想なのか?自分はそうは思わない。望まない人生だとしても今を愛することはできるし、表の歴史に出てこない人の方が圧倒的に多いんだし。自分だってこんな姿で生まれたくなかったし確実に歴史に名前なんて残さないけど、そんな自分を可哀想だなんて言わせない。

それだよわかってんじゃん、と思ったところは、カゲが鶴松の顛末を知らないふうだったこと。これは一期一振が一期一振として正史で極められて、秀吉の側にいて歴史を全て見ている一方、カゲはおそらく歴史を見てないから知らないんだろうと思った。
そう、だから、ここに良いも悪いもない。ただ、鶴松を見ていた刀と見ていなかった刀があった、それだけの話であって。別にカゲが愛されなかったわけではなく、たまたまそうなっただけ、ただ歴史がそうあっただけ。どうしてそこに無理矢理、幸せな方とそうでない方という区別をつけたがるんだろう。
カゲがうまく笑えなかったのもそう。別にそれは、たまたまあのときの秀吉が気に入らなかったってだけで、別に悪いことでもなんでもない。一期一振とカゲは違う刀で、それぞれ別々の個性を持つ刀剣男士なんだから、同じことなんてできなくて当たり前。どうしてそれを、カゲが失敗したみたいにするんだろう。
カゲは愛されなかったわけでも、まして嫌われてぞんざいに扱われたわけでもない。ただそういう事実をたどった、それだけ。どうしてただそれだけのことをそれだけにしておいてくれないんだろう。ただそうなっただけの事実を、愛してくれなくてもいいからせめて、そっとしておいてほしかった。なのにどうしてやいのやいの、ああだこうだ言って、良いとか悪いとか幸せとか不幸とか決めようとするんだろう。

(ちなみに余談だが、書いててめっちゃ村雲江っぽいと思ったけど、村雲というか江おんのスタンスも別に全肯定しているわけではない。事実でしかないものに対して価値判断をつけるのは好きじゃないけど、だからといってどうしようもなく対立している状態に対して、白黒つけすぎも良くないよね!とかいうのは対立をうやむやにする逃げや誤魔化しだと思っている。この場合自分の理想は、どうしようもなく対立しているという事実を受け入れて、仕方なくではあるが戦うこと。根っこが特オタなので)

あとちょっと別の角度の話になるけど、磨り上げについて本阿弥光徳が嫌がってたのも解釈違いだった。確かに刀を愛する一人の人間、という当時の本阿弥光徳のことだけを想像すればそう言うのかもしれない。でも現代における物語内の本阿弥光徳にそれを言わせるのは、今現在ひいては2205年以降において、「秀吉の背丈に合わせて磨り上げられた」という一期一振の逸話そのものを否定してしまうことになるではないか。
刀剣男士:一期一振は、確かに焼けて記憶がないことを少し気に病んではいるけれど、秀吉の佩刀とされた逸話そのものには、根っこのところでは誇りを持っていると自分は思っている。そしてメタ視点だと私たちは、そんな逸話を持つキャラクターとしての一期一振が好きなのではないか。
だから結局これも同じ話で、もう私たちのいる現代では、「一期一振は秀吉に合わせて磨り上げられたという逸話」は確定してるわけで。その、すでにそうなった事実に対して、そんなの可哀想だなんて言わないでほしかった。もう歴史上の逸話は確定してしまっているんだから、いっそのこと磨り上げのことも肯定してほしかった、愛してほしかった。
そもそも、刀剣乱舞に実装されてる刀だけでも磨り上げの来歴を持つ刀は他にもいるし、一期一振の弟たちにも薙刀直しの脇差がいるし、そうやって姿を変えられてきたことも含めてすべてが刀の歴史であり、刀剣男士の逸話なはず。その全てを刀剣乱舞のオタクは、少なくとも自分は愛しているから。刀がたどってきた歴史を否定するような作劇はしてほしくなかった。
一期一振は一期一振、影打ちは影打ち。それぞれのたどった道があるというだけの話で、そこに幸不幸もなく、ただどちらも等しく愛おしい。自分が好きなのはそういう物語。


歴史に残ることが幸せ、残らず消されるのが可哀想、というジャッジも意味わからん。残らないから何だっていうの?教科書に載ってる歴史なんて有名人の出来事だけで、教科書に書かれてない人々だってこれまでたくさんたくさん生きてましたけど、その全員が不幸とでも言うのか????

葵咲のときも同じこと思ったけど、「忘れられた」「消された」って、いったん歴史に名前が登場した存在だけの特権で。初めから欠片も歴史に出てこない存在はどうなるんだよ。もっと可哀想だとでもいうのか。
力を持つ人間が作るのが歴史だと言うなら、そのいわゆる有名どころの"歴史"に一切登場しない存在の方が圧倒的に多かろうに。刀だって、粗製濫造のものだってたくさんあったろうに。一期一振の影打ち、なんて十分に物語じゃないか。確かに大々的に語られはしないだろうけど、その存在が推定されるだけでも全くのゼロではないのだから。そして何より影打ちならば、生みの親の刀工には愛されたのではないのか、それで十分ではないのか?

これは何をもって歴史と呼ぶのかの問題にもなる。作中では力を持つ人間が作るのが歴史と呼んでいて、だからこそ残るとか残らないとかの話になってるけど、そもそも自分は、ミクロな地域史や家族史、あるいは逆に人類以前のマクロな地球史や宇宙史まで、全てを「歴史」と思ってる派で。まずそこから合わない。

だから歴史に残るとか残らないとか言われても、いやいや教科書には乗らなくても地方の図書館にひっそり残ってるような古文書にだけ載ってる歴史とか、個人の家系史とか、歴史なんて探せばなんぼでもありますし???ありとあらゆるところに歴史の痕跡が残ってますし???となる。
そして歴史に残るのが幸せ残らないのが不幸とかいう判断基準には???????となってしまう。
自分だって、ミクロな部分では仕事の書類に名前が残ったり何かのSNSアカウントが残ったりするかもしれないけど、当然教科書的な歴史には残らないわけで。それを不幸だと言われたくはない。ミクロな歴史に残ることで十分幸せだし、むしろそっちを素晴らしいことだ、この世に生まれた奇跡だと言祝ぎたい。

まとめ:カゲは可哀想なんかじゃない、だからあんなに必死になって一期一振になろうとしてるのが解釈違い。一期一振自身もどこも可哀想なところなどない。
そして自分もまた可哀想なんかじゃない、そんなこと言わせない。

それはそれとして、お芝居や歌はいいところもたくさんあったし(長谷部の語りかけが特にアツかった)、ライブは普通に楽しんできたことを最後に申し添えます。


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