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禅における悟りとは、「何かに達した」状態ではなく、「学び続け、取組み続ける」ことではないか

特定の宗教にあまり帰依していないのですが(※)、比較的幅広く宗教には関心があり、その中でも禅宗には昔から興味がありました。
(※ちなみに、特定の宗教に帰依しないのがよい状態とも思っていません。無宗教を是とするような日本の風潮が、背骨がない社会になっている原因とも思っています。)

日本の禅宗には、曹洞宗と臨済宗という二つの宗派がありますが、最近は臨済宗にも興味を感じますが、昔から興味があるのは曹洞宗です。鎌倉時代に道元法師という僧侶が中国から曹洞宗の教えを持ち帰られた後、現在の福井県の永平寺で曹洞宗を発展させていかれました。

禅、というと坐禅を組んで悟りを開くもの、と考えられる方もいると思いますが、私は「何かに達した」という意味での悟りというものは無いのではないかと思っています。曹洞宗の教えの中で只管打坐(しかんたざ)という教えがあります。私の浅学非才な解釈よりも、曹洞宗がHP上で公開されている解釈を記載した方がよいかと思います。

「ただひたすらに坐るということです。何か他に目的があってそれを達成する手段として坐禅をするのではありません。坐禅をする姿そのものが「仏の姿」であり、悟りの姿なのです。私たちは普段の生活の中で自分勝手な欲望や、物事の表面に振りまわされてしまいがちですが、坐禅においては様々な思惑や欲にとらわれないことが肝心です。」

ここは難しいところですが、坐禅を一定続けたら悟りを開く、というものではなく、坐禅をし続けること、それ自体が悟りの姿なのではないかなと私は思っています。つまり、坐禅により「何かに達した」という類いのものではないのです。

道元法師によれば、このような道は必ずしも坐禅だけではないと考えられています。また曹洞宗HPからです。

「道元禅師はまた、坐禅だけではなくすべての日常行為に坐禅と同じ価値を見いだし、禅の修行として行うことを説かれています。修行というと日常から離れた何か特別なことのように聞こえますが、毎日の生活の中の行い一つひとつを坐禅と同じ心でつとめ、それを実践し続けることが、私たちにとっての修行なのです。」

世の中には時々、一定の経験や功績をあげると、様々なことを学ぶことをやめ、「俺はよく分かっているのだぞ」とばかりに話す人がいます。やや歳をとってきて確信になってきましたが、そういう方はもう成長が止まっています。逆に何歳になられても常に学び続け、取組み続けられる方は、続けられているうちはいつまでも成長されています。

できうれば、「何かに達した」と勘違いしないように戒め、常に努力しつづける強さを持ちたいものです。

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