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忖度に疑問を感じる人生(2)

こらえた末に、飼いならされた。

中学時代、初めは割りとまともに勉強していた。でも次第に試験の直前にまとめてやるタイプに移行した。でも、ある程度の成績ではあった。そして優秀過ぎず、社会に対して問題意識を持った生徒が集まる府立高校に結果的に進学した。問題意識を持っている生徒が多いからか、その高校で、大学紛争ならぬ「高校紛争」に遭遇した。授業は無くなり全校集会で先生が突き上げられていた。その内に、授業再開の為と、高校の塀がトタン板?で高くされてた。学校側は授業に参加する生徒だけに立ち入りを許可することに。ロックアウトと呼んでいた、この状態が数ヶ月続いた。そして「西の日比谷」と称せられた(東京都立日比谷高校の大阪版ということで命名されていた)。親にロックアウトのことが知れ、「どうなっているんだ!と」どやされ、反論を試みるもギブアップ。高い塀に一カ所開いた出入り口から校内に入った。ある種、屈辱感あり。
時代は1970年安保直前。日米安全保障条約の改定間際、高一の秋~冬の出来事だった。
(後に、50年以上経って、密約の存在や占領状態が実質継続していたことを知る)

「何かが違う」の「何か」がどんどん増えていたんだろうな。モヤモヤ。
それと同時に、新しい経験という「何か」も増えていってた、中高時代。
でも、世間に呑まれる自分。そう、世間に合わせる自分。大過たいかなく過ごせる。
コンチクショウ!、と今は言えるが、その時は声を発するでもなく、堪(こら)えていたのかも。

人は、一大事に遭遇したら、逃げるか・立ち向かうか・堪えるかの3種類しかできないとやら。
「火事」の時の対応は例えば、逃げる、水を掛けるだけだが、「世間(の暴力)」に対しては、第一選択肢が「堪える」となっていたようだ。

今言えることだが、堪える=認める(黙認する)ことだった。
どんどん、世間に同化してゆく。
と、同時に経験を積んでゆく。

ありふれた「世間の一員」に育ってしまう。
飼いならされてしまった。

第二、第三の選択肢を大きく振りかざしたのは52才直前。
定年前退職の決断まで長ぁ~く掛かってしまった。
高校紛争から36年経っていた。
(つづく)

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