座右の銘

座右の銘、というやつがあります。自分からむやみやたらに周囲にひけらかすと冷ややかな目で見られるものの、聞かれた際にさっと出てくるとカッコいいアレです。
好きな映画、文学作品などについても概ねそうであると言えます。教養は普段は隠しているからこそ魅力的なんですね。パンツのようなものです。
私はと言いますと、これといってちゃんとした座右の銘は持っていません。ノーパンです。こうなると、座右の銘になりそうなものを探したくなるのが人間というもの。一度「ない」ことを意識すると、どこかスースーとした感覚に襲われているような居心地の悪さを感じます。
そして、せっかく考えるならカッコいい最強の座右の銘が欲しいです。少し、考えてみることにしました。

座右の銘において一番カッコ悪いことは何か。私は「被る」ことだと考えます。パンツもそうですね。
有名人の発言であったり、「やればできる」のような誰が言い出したかも分からないほど人口に膾炙している言葉は危険です。かなり多くの人がこう言った言葉を座右の銘にしているでしょうし、人数が多ければその言葉を半紙に書いて壁に貼って生活しているような「ガチ」の人が居る確率も高くなります。この場合、座右の銘バトルではこの「ガチ」の人に負けることとなります。それじゃカッコ悪いです。
かといって、文学作品などからマイナーなものを見つけ出した場合、被った時のカッコ悪さは先述の場合を遥かに凌ぐものがあります。先述の場合なら、被ったのちにガチ度バトルに突入しますが、この場合は即死です。主な理由としては、「わざわざマイナーに行ったうえで被っている」というものが挙げられるでしょう。周りから見て、マイナー狙いは普通にバレます。人口に膾炙するものにはそれなりの理由というか、「格」のようなものがあります。そこをわざわざ避けて、被る。浅ましさ極まれりです。

上記のように、どちらにせよ被りを考慮すると、死にます。ならばどうすべきか。絶対に被らないように、自ら座右の銘となる言葉を編み出すのはどうでしょう?これなら、運よく被らなかった奴らすら「人の言葉を借りないといけない芯の弱いやつ」というレッテルを張ることで即死させることが可能となります。やるか、やられるか。座右の銘を取り巻く環境、気づかないうちに世紀末の様相を呈しています。
しかしながら、作るなら作るで今度は第二関門にぶち当たります。「お前の座右の銘は十年後に聞いてもそれでええんか」問題です。一般的に座右の銘は変えるようなものではありません。というか、変えてる人なんか見たことがありません。しかしながら、価値観というものは時代や、場合によってはその人の境遇によっても目まぐるしく変わってしまうものです。かつてはテレビドラマでも描かれて美化されていたスポ根のように、「永遠の愛とかwww」などと言われる時代が来るかもしれません。自分が一生を通してそうだよねと納得し続けられる言葉を見つける、これ以上にハードルの高いことはないでしょう。
ここまでくると、座右の銘が何なのかよりも重大な「芯の弱い自らの人間性」という問題の輪郭がくっきりと見えてきつつあります。これは大変、こころによくないです。今日、家電メーカーは技術革新の波に乗って激しく鎬を削っており、争うように次々と画質のいいテレビをリリースしていますが、高画質のテレビでは年を取った往年のスターのしみや皴のひとつまで鮮明に映し出されてしまい、容赦なく示される「老い」の証にどこか悲しくなってきます。ぼんやりとしか見えない方が、こころにはよい、ということもあるものです。

なんだか、考えるうちにわかりたくないことばかりがわかってきてしまったように感じます。きっと、このことは私の弱さに関わる部分なのでしょう。考える葦たる人間に生まれながら自分の考えをしっかり持てないというのは、守れるポジションがない野球選手のようなものです。人類の戦力外候補なのかもしれません。
こういう弱さを克服するための指針としてあるのが座右の銘なんだろうな、と思います。そして、弱さを認められない私は、まだ座右の銘を持つには早すぎたのでしょう。
いつか、自分の弱さを認められる日が来たら、座右の銘を持ってみたいものです。
それまでは、ノーパンで。

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