花瓶の誘惑
はちみつのような甘い香りが私を吸い寄せる。真っ黄色な部屋の中を散策すると、部屋の中央に置かれたテーブルの上に、大きな黒い花がいけられた、手のひらサイズの白い花瓶が置かれていた。
どうやらハチミツ香の正体はこの黒い花のよう。それにしても、まるで花に見られているかのように錯覚する、とても毒々しい子だ。私は花に鼻を近づけ、その怪しい花の香りを楽しんでいた。
香りを嗅ぎ続けていると、頭がクラクラしてくる。視界もぼやけて、身体が妙に浮き始める。
白い花瓶に吸い込まれたらしい私は、気づけば真っ白な部屋の中に、ワープしていた。中央に置かれたテーブルの上には、黄色い手のひらサイズの花瓶が置かれている。部屋の隅を眺めると、少女が一人、分厚い絵本に夢中になっていた。
恐るおそる、その女の子に声をかける。すると、少し驚いた表情を見せた後、その子はパッと明るく笑った。
聞けばこの部屋に自分以外の来訪者がいるのが、かなり珍しかったらしい。
この部屋の雰囲気は好きだったが、感覚的に、あまり長居をしたくなかった。
女の子に、どうしたらこの部屋から出られるのか問いかける。すると、少し考え込んだ後、分からない、そんな答えが返ってきた。
少しの沈黙の後、女の子は再び口を開く。
「花の香りが強くなった時に、その香りを嗅げば、きっと外に出られると思うの。心が何かに気がつけば、花が香る。管理人さんがそう言っていたよ。」
『心が何かに気づく・・・。』
再び彼女の方を見ると、彼女がちょうど、絵本のページをめくろうとしている所だった。彼女の肩の隙間が不意に見えてしまった時、私は強い違和感を覚えた。
彼女に近づき、衣服をそっとずらして、もう一度肩を見る。彼女の肩には、まるで誰かに叩かれたようなアザが、一面に広がっていた。
「このアザ、どうしたの?」
彼女にそっと問いただす。彼女は黙りこくったまま、私のせいなんだと思うと、そうぼやいた。私が悪い子だから、私がみんなが求める事を上手に出来ない子だから、お仕置きされたのだと。口元だけは気丈に笑いながら、力無く、そう呟いた。
紡ぐ言葉に困りながら固まっていると、自分の手が、何か小さなモノを握っている感触が現れた。
手を開くと、握られていた物の正体は、小さなフルートのような横笛だった。
「誰かがお姉ちゃんの帰りを待っているみたい。もう行きなよ。」
女の子が私に諭す。気がつくと、部屋の中央付近から、はちみつのような香りが漂い始めていた。
またね。女の子に別れを告げて、私は花瓶の花の香りを嗅ぐ。
しばらくすると身体がふわふわと浮くような感覚があり、やがて視覚が奪われ、花瓶の中に吸い込まれると同時に、私は意識を失った。
目が覚めると、真っ白な嫌に明るい部屋の中。白い革のソファーの上に、私は横たわっていた。
「おかえり。」
高齢の女性の声が私に降ってきた。ふと見上げると、その女性は、白衣姿で私を見下ろしている。先生、なのか?
遠くの机に置かれた書類の端に、『ヒプノセラピー』の文字が見えた。
あぁそうか。私は狂っているらしい。自覚はないが、少なくとも親兄弟からは、そう見られていたんだった。
大きく息を吐いた後、諦めのような心を引きづりながら、私は先生に向き合った。
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