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白根の危機を救った「米俵事件」:一戸信哉の「のへメモ」20220306

「白根の交通」をテーマにした映像制作について、2/25と3/4、2回に渡って放送しました。

私自身、白根という街のことは以前から知っていましたが、「大凧合戦」と「フルーツ」以外、詳しいことは全く知りませんでした。今回の取材では、しろね大凧タウンガイド会長の髙橋直廣さんをはじめ、地元の皆さんにさまざまお話をうかがっています。作品からこぼれた部分も多いのですが、食堂六太郎さんに米俵を投げ込んだ「米俵事件」は、とても印象に残っています(ただ、六太郎さんで学生たちがお話をうかがっていたとき、私は現場にいませんでしたが)。

お店の前に、タウンガイドの皆さん作った案内板が張り出されていて、概要が説明されています。

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昭和36年(1961)年8月5日の豪雨により、午後6時30分ころから旧富月橋付近で越水し、午後6時40分には濁流が市街地に流れ込んだ。不足した土のうの代わりに政府米倉庫から米俵を運び出すことを関係機関に要請したが、了解が得られないまま、翌6日未明に2回にわたり、政府米倉庫2ヶ所から米俵439俵を運び、この周辺に積んだ。これにより白根のまちは大水害から救われた。

自治体の判断で、政府米を土のうの代わりに使うというのは、「超法規的」なものであったことがうかがえます。

六太郎さんの店内には、当時の様子がわかる写真も張り出されています。

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よく見ると店の外側、川に面したところに大量の米俵が積み上げられています。

取材後に、新潟市の南区役所だよりも「米俵事件」をとりあげています。

政府米を土のうの代わりとしたことが問題となり、農林大臣はテーブルをたたいて激高したそうです。報道陣に対して事情説明にあたった吉沢市長は「短時間の増水でやむを得ない処置だった。越水をあのまま放置して堤防決壊の事態ともなれば、川に囲まれ、逃げ場のない市民はどうなったか分からない。また、水防資材がなくて米を使ったと伝えられているがそうではなく、米俵でなければ防げない状況だった。」と説明しました。

今回の取材の際には、まだ南区だよりは発行されていなかったのですが、1997年の広報しろね(2005年に新潟市に合併するまで、白根は白根市という独立した自治体でした)が、「米俵事件」について特集しているのを発見しました。こちらはさらに詳細なレポートを掲載していたことがわかります。

新潟市-広報しろね https://opac.niigatacitylib.jp/shisei/koho/minami/koho_shirone/1997.files/1997-h09-0815-506.htm

午前一時三十分、許可が得られないまま、対策本部の指示により諏訪木倉庫から米二百俵余りが運び出され、越水地点に投入された。午前三時、富月橋東側の堤防の決壊がひどくなる。戸頭の政府米倉庫からさらに二百俵が搬出され、投入された。使われた米俵は合わせて四百三十九俵に上った。

今学期の授業で、昭和40年代の新潟の米作りのドキュメンタリーを見た際、食管制度の話をうまく説明できませんでした。いまも「米余り」はあるわけですが、「減反」「食管制度」といった話の複雑さを、若者たちが簡単に理解できるはずもなく、きちんとした補足説明を準備しておかなかったことを反省しました。この取材のときにも、「政府米を土のうにする」ということの重大さは、学生はもちろん、私にも感覚的にはよく理解できなかったところです。

六太郎さんは、船着き場の「駅前食堂」のようなお店です。取材した日は暑かったので、冷やし中華をいただきました。

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