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ありがとうの方向

私が子育てをしていて虚しくなることがあるのは、親の心子知らず、だからなのではないかと思っています。
自分がこどもだったときのことを考えれば、そりゃあそうだと納得できるので、まあ、今はわからなくても仕方がないかと思えるのですけれど、思春期になって、もっと世の中のことを広く知り、自分の境遇を客観的に見たときに、継母に対して今と違う感情を抱かないとも限りません。

例え継母としては受け入れられ続けたとしても、娘が成人するときには還暦を迎え、結婚する頃にはおそらく70歳になろうとしているところで、娘のこどもが今の娘と同じ歳になるころには、後期高齢者になっているかも知れません。あるいは、その歳になっても娘は独身を謳歌しており、親の気持ちを振り返る余裕などないかも知れません。

100歳まで生きるつもりでいますから、長生きしていればどこかのタイミングで、あのとき母さんこんな気持ちだったんだね。と、気づいてくれる日に立ち会える可能性はありますが、私自身がそうであったように、思いの外早くこの世を去り、在りし日の思い出と共に親心を知り、ありがとうも言えなかったな。と、娘は後悔するのかも知れません。


もちろん、見返りが欲しくて子育てを買って出たわけではありません。

それでも、毎日毎日嫌な顔をされながら、姿勢やマナーを注意していれば、あのときしつこく叱ってくれてよかったな。と娘が思う日が訪れて欲しいし、今思えばウチの母さん案外スーパー母さんだったんじゃね?とかなんとか思って、お父さんいい人と結婚したね。なんて言ってくれたら報われるなぁ。なんて、そんな欲は、恥ずかしながら持っていたりするのです。


だけど、結局のところ、娘のことなんてわからないのですから、そんな夢を抱いていたって幸せになんかなれないなぁ。と、最近考え始めました。


私が娘に対して『母さんの子になれてよかった』と思ってもらう唯一の方法は、私が死ぬとき娘に『貴女が私のこどもになってくれて幸せだった。ありがとうね』と言えて、娘が『なんか知らないけど、人の役に立てて嬉しかったな』と自分の存在に自信を持ってくれることなのではないかと考え直したのです。


私自身の経験から伝える言葉や生き様の中から、少しでもいいと思うことを吸収して欲しい。
私を反面教師と思うなら、他の大人たちから多くを学んで、生きづらい世の中をしなやかに渡っていって欲しい。
もしも、娘がそのいずれかも選ばず、万が一幸せに思えない人生を歩んだとしても、それはそれで娘の人生なのです。

そこに、私から娘へ『ありがとう』を贈る。

それがこれからの、私のひとつの目標でもいいのかな。と、矢印の方向を変えてみようと、思いついたのです。

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