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人間と動物の間で生きている

また継子を生理的に受けつけない瞬間を味わっています。

これは、相手が継子だからなのか、発達障害だからなのか、こどもだからなのか、ツムギ個人なのか、未だに原因がわかりません。

私的には、継子を生理的に受けつけられないのは本能からくるものです。と言ってもらえること、また逆に、すべての人に好かれる必要はない(つまり、すべての人を好きになる必要もない)。と言ってもらえることに救われたりするのですが、これは私が人間だから悩むのかと思います。

こんなことを発信すると、継子が可哀想だと非難する人がいるだろうと想像します。

私はどうだったろうか?

当事者になる前に、継母のそんな悩みを聞いていたら、どんな風に感じただろうか?

面と向かって非難はしないまでも、やっぱり可哀想だと思ったに違いありません。

継親による虐待…などのニュースを見て、なんでそんなことが起きるのだろうと、切なく感じていましたから。

いや、過去形ではなく、そんなニュースがあれば、今でもそう思います。

嫌悪感=虐待ではありませんからね。


生理的に受けつけられない嫌悪感は、自分の『気持ち』ではないから辛いのかもしれません。

ハッキリと『大嫌い』な方が気が楽なんだと思います。


慣れの問題もあるのかな、と思いました。

核家族で育った私は、家庭の中に価値観が著しく違う人がいることに慣れていないのかもしれません。

そういう意味で言えば、ひとつ前の世代に比べて、既に社会性が乏しいのかもしれません。

かと言って、今の世代の人たちのように、多様性にも慣れておらず、私たちの世代は私たちの世代で、独特な価値観を持って生きているのかもしれません。

社会性がどんどんと失われて、動物的に戻っていくのだろうか。

社会性よりも個を重んじる世界の中で、それでもステップファミリーが増えているこの現実は、人は自ら個に向かいながらも、集団に所属していないと生きていけないという矛盾の表れではないのだろうか。


朝から重い。

めんどくさい思考の私。

吐き出せば、このめんどくさい思考を手放せるのではないかと思った次第。


noteは、そんな時にとてもありがたい存在なのです。

少なくとも私は、noteでこのような発信をしながらも、猛烈に批判を受けたことはないので。

多様性を理解してくれる、温かい集団に所属している安心感を、私はnoteに感じています。


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