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常磐に生きる

株式会社ドームの安田秀一CEOのコラム「正しいことをする その姿勢がブランドを形づくる」が日経電子版に掲載された。安田CEOはブランドを「姿勢」と定義した。当然腑に落ちるのだが、言外にある「継続性」もまたブランドを形づくるのだと考える。県2部リーグからスタートした現体制でのスタイルは、6年という年月を経てブランド化された―とも言える。一方でこのコラムに記された一文に、なぜ自分がこのクラブに強く惹かれるのかを再認識させられた。本稿では、なぜ自分がこのクラブにこれほどまでに惹かれるのか。ひいては、この地域に住まう人々の心を惹きつけるのかを紐解いてみたい。

スポーツを例にとれば、ドーピングが最たるものですが、サッカーなどの遅延プレー、大げさに倒れての反則のアピールなどもそれに当たります。ドーピングはもちろんNGですが、いわきFCの示す具体的な指針のひとつに「倒れない」というのがあります。これはもちろん、サッカー選手としての正しい姿勢を示す指針でもあるのですが、むしろ甚大な被害を受けた大震災に対しても「倒れず」に戦い続けたこの地域の人々の生き様をピッチで体現する、そんな思いも込められています。

https://www.nikkei.com/article/DGXZQODH0413W0U1A201C2000000/

常磐という地域

 いわきFCに触れる前に、常磐という地域について考えたい。そこに生きる人々に根差す精神性こそが、クラブのスタイルと大きな親和性を持つと考えているからだ。
 常磐地域は「常」陸国から「磐」城国を指す地域名となる。つまり茨城県全域と浜通りと中通り南部。一方で狭義の常磐はwikipediaによると、常盤国と磐城国の境界付近を指すとある。地区で言うと、北茨城市磯原周辺から、いわき市南部地域を指す。また、個人的なイメージで言うと双葉郡富岡町付近から茨城県日立市付近までを「常磐」とイメージすることが多い。当然、常磐炭田のイメージだ。本稿では双葉郡富岡町から茨城県日立市までを「更に狭義の常磐地区」と定義していきたい。

 常磐炭田は、1870年代から1970年代にかけて首都圏に一番近い大規模炭田として栄華を極めた。閉山後も本体の常磐炭礦→常磐興産は「炭鉱から観光」へと業態を変え、常磐ハワイアンセンター(現スパリゾートハワイアンズ)として地域の経済に大きく寄与した。一方で常磐地区南部の炭鉱機械会社だった日立製作所は世界的なメーカーへと成長し、全国有数の企業城下町へと発展した。エネルギー革命という大きな時代の変化の中で、常磐地区の人々は逞しく、しぶとく生き残ってきた歴史を持つ。余談になるが、本稿を書くにあたって、常磐炭鉱で働いていた祖父の名前を検索したところ、日立グループの技術情報誌「日立評論」に掲載された「常磐炭砿坑内水による各種金属材料の腐食試験結果」という研究論文の第一著者に祖父の名前を見つけ、感慨深い気持ちとなった。

エネルギー革命とフラガールの誕生

 なぜ常磐炭鉱の話を出すかというと、エネルギー革命に翻弄されながらも炭鉱から観光へと、そして世界的なメーカーへと発展を遂げた先人たちの生きざまが、この地域に生きる人びとの心の中に確実に根付いていると感じているからだ。そしてその生きざまは、前述したようにいわきFCのスタイルと大きな親和性を有する。
 昭和中期のエネルギー革命による石炭産業の衰退、平成期を襲った東日本大震災とそれによる原子力災害。ともにエネルギーによって、この地域は完膚無きまでに叩きのめされた。他市の名前を出すのは大変恐縮ではあるのだが、いつこの地域一帯が夕張市のようになったとしてもおかしくはなかったのだ。映画「フラガール」で語られたように、常磐炭鉱の閉山を前に、この地を離れる人は多かった。残った人々は自らの生活の為、地域経済の為に身を粉にして働いた。そんな「山の男たち」の娘たちによって初代フラガールは誕生した。エネルギー革命によって疲弊する地域を明るく照らし、来たるべき「常磐ハワイアンセンター」のオープンを告知する為に、全国を巡業しながら常磐地区への誘客を図った。彼女たちの奮闘や地域全体の努力の甲斐もあって、この地域は息を吹き返した。

東日本大震災とフラガールの活躍

 2011年3月11日午後2時46分18秒。
 巨大な地震が東日本一体を襲った。あの日から数週間のことは、忘れたくても忘れられるはずがない。記者をしていた時期、各地の避難所を回りながら、連絡がつかなくなっていた定年退職した会社の先輩の名前を探す日々。会社の前をひょっこり歩いていた先輩を見つけ、社内に連れて行き、みんなで泣いたあの日のこと。「一番良くしてくれた親戚が死んじゃった」と泣き崩れた同僚のこと。既に被爆しているかもしれない、突然倒れるかもしれないと思いながらも、それでも、カメラを手に歩き回った日々。あの地獄のような日々のことなど、絶対に忘れようがない。故郷を追われた人々も同様だろう。けれど、そんな中でも様々な出会いがあった。再会に涙し、疎遠になっていた友人からの手紙と救援物資に涙し、人間の脆さと同時に強さを実感した日々。
 そんな、少しずつ明かりが見え始めた3.11後の4月、フラガールたちの活動が再開した。目に涙を浮かべながら、1か月ぶりにフラを踊るフラガールたちは、間違いなく震災直後のこの地域の光だった。映画フラガールの主題歌「フラガール~虹を」の歌詞にあるように、「名もない花」が命を奮わせるように咲き誇る姿は、多くの人々の生きる糧となった。50年が経過した平成の時代に、またもやエネルギーによって翻弄されたこの地域を救ったのはまぎれもなく彼女たちだった。


常磐地域の人々の精神性

 諦めない、倒れない、立ち上がる―この地域に生きる人々の心に根ざしている精神性は、いわきFCのスタイルに通ずる。最も首都圏に近い大炭田地として栄華を誇ったこの地域を叩き潰したエネルギー革命。さらにエネルギーによって苦しめられた東日本大震災と原子力発電所事故。それでも、この地域に生きる人々はなんと打たれ強く、諦めが悪いのだろう。もがき苦しみながらも、二度も三度も立ち上がってきた。
 いわきFCの試合を見て、倒れない、立ち上がり走り続けるプレースタイルに心奪われるのは、そんな精神性に根ざしているのかもしれない。いつだったか田村雄三監督が「だからいわきFCの選手たちは倒れては駄目なんだ」と語ったように記憶している。この地域に生きる人々のことを理解してくれているのだと感慨深く思ったことを思い出した。

昇格の瞬間に見えた光景

 昇格の瞬間のスタンドの様子をこの地域のすべての人々に見てほしいと思った。あの日、旅立っていってしまった人たちにも見せたいと心から願った。東日本大震災がなければこのクラブは立ち上がっていなかったことを考えれば、それは大いなる矛盾ではあるのだけれど。
 縁あって毎試合最前列でスネアを叩かせていただいているが、昇格が決まった瞬間に見上げた景色には、多くの人々の笑顔や泣き顔が見えた。当然、この地域の人々や地域外の人々もたくさんいた。そういった人々も惹きつけるいわきFCの魅力の1つは、間違いなく倒れない、諦めない、立ち上がる姿勢。
 J3に昇格し、来季はますます多くの人々がいわきFCを観に、そして対戦相手サポーターとしてこの地域を訪れるはずだ。いわきFCが存在する「常磐地域」は何度も何度も叩き潰されては立ち上がってきた地域。そしてクラブもそんな精神性を体現してくれている。しぶとく、諦めず、倒れず、立ち上がるクラブの姿を多くの人に見てほしい。それはこの地域の生きざまであり、思いが結実した姿に他ならないのだ。

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