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ナツキのはなし

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人は、思い出すために読むのかもしれない。と思った。

宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を読んだ。おそらく最後まできちんと読むのは初めてのことだ。

慎重に読んだつもりだったのだけど、結局僕はこの作品の意図を半分も理解することができなかった。もちろん書かれている言葉の意味 がわからない、ということではない。(そこまで難解なストーリーではない。)しかし宮沢賢治がこの作品を通じて何を伝えようとしているのか、何を訴えかけようとしているのか、がどうしてもわからなかったのだ。

僕はこずるいので、すぐさま「銀河鉄道の夜 解説」で検索にかける。
なるほど。どうやら「誰かのために生きることが人にとって一番の幸せである」というのがこの作品のメインテーマだったようだ。しかし、それでも僕は釈然としなかった。この手の教訓は、物語に触れながらじわじわと実感しないと、効能を発揮しない。鈍感な僕が、そういった教訓の存在に気づくことなく作品を読み終えてしまった以上、後から追っかけでそのテーマに触発されるのは難しい。(じゃあなんで解説をググったりするのよ、、、という話なんですが)

一方で、この作品は僕に、ある1つの記憶を強く蘇らせた。
それが、ナツキのことである。

高校時代、1つ下の生意気な後輩として同じ部に入ってきたナツキ。
「銀河鉄道の夜」を読み終えたあと、僕の頭の中には、あの茹だるように暑いフォークソング部の部室が、彼の歌う妙にベースの効いたスピッツが、深夜3時の井の頭公園が、鮮烈な記憶の波となって押し寄せてきた。そんなシーンなんて、本の中にはどこにもないのに。

きっと、人は味わったことのない感情に共感することが出来ないからだと思う。ジョバンニが物語の終盤に味わった喪失感・絶望感に共感するため、読者は自分の記憶の中から似た感情を探し出そうとする。そして僕の場合、それはナツキの記憶だった。しかもその記憶は、まるで思い出されるのを待っていたかのように次から次へと、とめどなく溢れてきた。

もしかしたら人は、思い出すために本を読むのかもしれないな、とすら思った。

僕はこれからも定期的に「銀河鉄道の夜」を開くだろう。
もちろん思い出の中のナツキに会うためだ。
カンパネルラがジョバンニに優しい言葉をかけるたび、僕の頭の中には、もう二度と見ることはできない、ナツキのニヒルな笑顔が蘇るのである。

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