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水を得た魚と、塩をかけられたなめくじ

突然だが、ぼくは、ご祝儀袋の短冊に自分の名前を書くのが苦手だ。

できることなら誰かに代わりに書いてほしいといつも思っている。それは、自分の字が汚いとか、自分の字に自信がないとか、そういう理由ではない。

人生の友人が素晴らしい伴侶を見つけたのだから、それを盛大にお祝いしたいと心から思うし、それはとても幸せなことだと感じる。でも、ご祝儀に自分の名前を書くのが苦手なのだ。それはなぜか。

失敗できないからだ。

そして、決まった枠にちゃんと収めないといけないからだ。

厳密に言うと、書き損じできる回数が大抵の場合において限られているからだ。誰もが気軽に手に入れられるご祝儀袋でいうと、短冊はだいたい3枚ある。2回は失敗できるが、それ以上はできない。(ご祝儀袋か短冊を買い足さない限り)

この、「失敗できない」とか「枠に収めないといけない」という気持ちとの付き合いが苦手なのだ。

小さい時からありとあらゆることに失敗してきた。もっと言うと、とりあえずのその場の感情や状況で見切り発車することが多かった。

そう言うと大人になってから出会う大抵の知人からは「嘘つけ~、いつも失敗しないようにしてるやん」と言われる。少なくとも小さいときは失敗ばかりだった。

例えば、小学校の夏休みの宿題の日記。

毎日日記をつけるという宿題。何を書いていいのか分からないので、何か感じる事があったらその瞬間にとりあえず1行書いてみる。でも筆がそれ以上進まない。よしまた明日書こうと思い、翌日も同じことの繰り返し。そして夏休み最終日を迎える。

当時先生からは「夏休みでこの日記帳の全部のページを埋めて帰っておいでね~」と言われていた。最終日に困り果てた少年の僕は、結局、日記帳のページをちぎるという作戦に出た。

「(ちぎって残った部分の)全部のページ」を埋めたらそれで何とかなると思ったのだ。(現実はこっぴどく怒られ、2学期のしばらくの間僕はずっと日記を書く羽目になった)

例えば、気に入ったデザインの靴を見つけた時。

サイズが足に合っていないくせに、とりあえず何とかなるかと思い買う。そして案の定、足が痛くなり、はかなくなる。結局そのままお蔵入りし、大掃除の時に処分に困って、誰かに譲ったり、ネットで出品したこともあった。

要は、あんまり先を考えていなかったのだ。

ただ、それで学んだことは沢山あったと思う。

例えばその1つは「やり直しできる」ということ。

もちろん、取り返しのつかない事はこの世の中、ごまんとある。しかしよほどの事でなければ、やり直しができる。ひとさまに迷惑をかける事もあるが、少なくとも、たいていの事はやり直しができるという事実は変わらないと思う。

またもう1つは「失敗が成功の材料になることもある」ということ。

もちろん、最初から成功することもあると思う。でも、失敗は全て悪ではないという事を学んだ。そして、失敗する事で初めて見える世界があるということも同時に学んだ。

そしてまたもう1つは「自分しか自分の行動を決められない」ということ。見切り発車するも、やり直すも、また立ち上がって挑むも、結局は自分の選択次第だという事を何度も感じた。

これらの学びを通じて、僕はどんどん失敗した(見切り発車した)。

とりあえず片道航空券を買って旅に出てみたり、とりあえず田舎から東京の大学に行ってみたり、大学を辞めて海外に引っ越してみたり。他にもあまり大きな声で言えないような失敗を本当にたくさんした。

そういう経験を通じて、いつしか僕にとって「とりあえず失敗できる環境」や「枠から出ても良い環境」は、自分自身の安心につながるものになっていた。

つまり、(何度かは)失敗することが許される環境で、のびのびやるのが自分にとって居心地がよく、自分のチカラを発揮できる、自分の得意な環境になっていった。

何に対しても「より良いものを」と思う性がある僕には、それが武器になることも沢山あった。「より良いものに近づくなら、沢山失敗したっていい」という確固たる価値観が自分の中に育ったからである。そういう環境に置かれると、水を得た魚のように動き出す。(と自分では思っている)

ところがある程度の年齢になってきたとき、思わぬ壁が立ちはだかった。

ご祝儀袋だ。

短冊と中袋には名前を書く。しかし失敗(書き損じ)できる回数は極端に限られている。そして枠が決まっている。

この環境は途端に僕のアイデンティティの崩壊を引き起こす。

「失敗、、、できないのか、、、」と。

そう思った瞬間、いつも書いてる自分の名前がまともに書けなくなったり、どう考えても間違えるはずのない自分の住所の番地を書き間違えたり、挙句の果てには文字が収まらず字足らずになる。

とある人には「塩をかけられたなめくじのようだ」とまで揶揄された。

そして、もうひとつの性が更に事態をややこしくする。「より良いものを」という性だ。

つまり、失敗できないという環境おかれ、焦りから書き損じまくるくせに、より良いものに対するするあくなき追及から、ご祝儀袋や短冊を何個も買ってきてでも、書きまくるのだ。そして自己ベストを選ぶ。(が、普段の字よりはどう考えても元気がない感じになる)

こんなことから、いまだに僕はご祝儀袋に名前を書くのが恐怖である。(たいして気にしてはいないが)


・・・・というようなことを、つい先日、友人の結婚式の前夜に考えていた。

人間、誰しも弱点があるものだ。

そして得意と弱点は紙一重である。水を得た魚から塩をかけられたなめくじへ、瞬時に変身することもある。

塩なめくじバージョンの自分もいるんだなあ、ということを心の中でそっと認めてあげるとともに、いつしかご祝儀袋に納得のいく自己ベストが書ける日を最近は夢見ている。

結婚おめでとう、マイフレンド。

ぜひ応援いただけたら嬉しいです🙂