羨ましいとは思うんだけど
noteを始めようと思った理由の1つに、友人への羨ましい気持ちがあります。
先日、学生時代の2人の友人がそれぞれtwitterに投稿してたんです。
一人は大学卒業後もずっと自主映画を撮っている友人で、彼の投稿は最新作を世に出してからの2年間、新しい作品といかに向き合っているか、というnoteを書いた、という内容。
もう一人は大学卒業後いくつかの企業でキャリアを積んで起業して、一旦書くのをやめた小説をまた書くようになってそちらも入賞を果たして、起業家であり小説家であり、という人物としてwebメディアにインタビューが掲載されたと。
大学卒業して以来、そういう投稿を目にするたびになんかずっと羨ましがってる気がするんですが、
改めてじゃあ何が羨ましいんだろうって考えてみると、2人の友人に対して感じている羨望には共通点が2つあって。
1つは自分がやりたいと思う表現を世に送り出していること。
自主映画と小説。
もう1つはそのバックグラウンドにある自分の考えをnoteとかインタビューの形で表明していることだなと思ったんです。
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自分のやりたい表現をやる、ということについては、自分は今は商業脚本家として身を立てようとしているプロセスにいるので、受注する仕事の中になんとか忍び込ませようとしているところはあるけど、今の自分にとってはなかなか難しいなって思います。特に原作があるものだったりすると、その物語が何を語ろうとしてるかに寄り添いたいなと思うし、監督やプロデューサーの方々、たくさんの人が関わって、それぞれに語りたいことを持っており、自分だけが思い描いた方向に向かうものでは無いので。
いや、友人たちもやりたい表現だけやってるわけではもちろんなくて、表現したいことと人に届く形のバランスを探りながら作ってるんだろうけど、はたから見ると自分のやりたいことをやってそれが周囲から評価されているように見えて、それが羨ましく思えるんですよね。
で、もう1つの、「バックグラウンドにある自分の考えを表明する」ってことに関しては、それって自分もすぐにでも始められるじゃん、って思って、それでひとまずnoteを書いてみたと、まあそのような感じです。
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なんか、反射的に「羨ましい!」って思うことって結構あるのですが、
30代も後半になってようやく、「いや、発作みたいに『羨ましい!』って感情が瞬間的に沸騰してるけど、ちょっと待てよ」みたいなことを考えるようになってきました。
ちょっと分け入って見るとそれって自分にないから欲しいだけだよね、みたいなこととか、自分の気質は違うんだから同じものが手に入ってもしょうがないものを欲しがってるよね、みたいなこと。
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いやー、書いてみたけどやっぱり難しいですね自分の考えを書くのって。
もっととりとめなく書くところからはじめてみた方がいいのかも。
話は全然変わりますけど今日は1年で数日しかないレベルの「最高に過ごしやすい日」だったらしいです。天気も良くて気温もちょうど良くて。
家族で上野動物園に行きましたがものすごい人でした。
明日は無料開放日なので回避しましたがどれだけの人が来るのだろう。
娘は小学2年生になりましたが体力がどんどん付いてきて、動物園を一通り回った後に科学博物館の常設展示も見ました。
今後が恐ろしい。
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