孤独なグルメ 第二話 東京都小平市のにんにくカツ

 駅からの帰り道の一本奥に商店街がある。商店街とは名ばかりで、何軒かおきに総菜屋や花屋や洋品店があるだけのなんだか寂しい通りだ。飲食店もあるにはあるが、ただでさえ数が少ない上に、その半分はやっているのかいないのかわからないような有様である。 

 その中に一軒、とりわけ古びたとんかつ屋さんがある。その店の存在は以前から知っていたが、レトロな雰囲気とは言い難い、ただただ長い年月の経過だけを感じるたたずまいに、これまで足を踏み入れる勇気が出なかった。しかし年の瀬も押し迫ったある日、久しぶりに店の前を通ると、今年いっぱいで店を閉めるとの張り紙が。もうあと一週間足らずでこの店はなくなってしまうのか…私は思わず店のガラス戸を開けた。

 おそらくはもう八十歳は超えているであろう様子の店の主人と奥さんが、小上がりで体を寄せ合うようにしてテレビで『SASUKE』を観ていた。その姿はほほえましいが、私の入店に一切気づく気配がない。しばらく様子を伺っていると、ようやく奥さんが私に気づいてくれた。「あら、びっくりした。いらっしゃい。あんた、お客さんだよ」来客がよほどの椿事であるかのようだ。ご主人が悠然とカウンター奥の厨房へと入っていく。

 「今日は寒いね」「お客さん、学生さんじゃないね。」「お子さんはいるの?」驚くほど一方的によくしゃべる奥さんは一向に注文を訊いてくる気配はない。壁に貼られたお品書きを見ると、とんかつと銘打っていながら出すのはすべてチキンカツであるらしい。心苦しく思いながらも奥さんのおしゃべりを遮って、私はにんにくカツを頼んだ。耳の遠いご主人に奥さんが伝言ゲームさながら私のオーダーを伝える。「にんにくはいいよ。元気が出るからね」私のオーダーに奥さんも満足のようだ。良かった。

 ご主人が私のカツを揚げている間、奥さんはずっとしゃべっていた。食べログにもそのおしゃべりっぷりがレビューされていたので事前に知ってはいたが想定以上だ。奥さんは活舌がよく話が聞きやすい。そして同じ内容を繰り返し話してくれるので、おかげでこの店はもう五十年以上やっていること、お子さんが二人いて、長男は青山学院大学で教授をしていること、次男はクロス職人を父に持つ気立てのいい女性と結婚して自身もクロス職人となったこと、孫は一人は千葉に、一人は小平に住んでいること、奥さんの弟は勉強好きでこれまた青山学院大を出ていること、ご主人は昔パチンコ狂だったことなどが十数分のうちにすっかり頭に叩き込まれた。こちらは話を聞いているだけだし、笑いどころは先に奥さんが笑っておいてくれるのでそれに合わせて笑えばよく、特段気を使うこともない。意外と気楽なものだ。

 とはいえそろそろ相槌も打ち疲れたころ、ようやくにんにくカツ定食が出来上がった。にんにくはソースにたっぷり刻まれて入っている。明日が休みでよかった。カツは鶏の胸肉なのだが、驚くほどプリンプリンでパサついた感じは一切ない。料理人歴六十年以上(推定)のご主人の腕は伊達ではなかった。胸肉なのでさっぱりしており、にんにくをたっぷり含んだ濃い目のソースとも相性が良い。

 カツを私に運んでくれた奥さんは、そのまま奥へと引っ込んでいった。そうか、奥さんはカツが揚がるまで私が退屈しないように話し続けてくれたんだな…と思ったら別にそうではなかった。すぐに戻ってきて、先ほどと同じ話をまるで初めて話すかのような新鮮さでまた話してくれた。 

 食べ終わっても、私はなんだか帰るタイミングを逃して、奥さんと一緒にSASUKEに挑む鈴木先生を応援してしまった。なんとか切り上げて辞するべく「ごちそうさまでした。おいしかったです」と告げると、奥さんはすぐ隣にいる耳の遠いご主人に「おいしかったってさ、よかったね」と嬉しそうに報告した。気難しそうに見えたご主人が初めて笑いかけてくれた。

(‎2021‎年‎12‎月‎30‎日Aga-zine2月1日号用文章)


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