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#150_詩的なエンジニアリング

2021年11月 島影圭佑

 平尾修悟は音楽をつくるように、歌詞を書くようにエンジニアリングをする。本作もそれが実践されているように映る。unbirthdaysというタイトルは曲名にも見える。本作では一人称視点のビデオカメラで記録された映像がリアルタイムで異なる描写に変換され、記録が「記憶的」になる。

https://unbirthdays.net/album

 ぼくは平尾が本作を制作する過程に友人としてまたデザインリサーチャーとして静かにお邪魔させてもらい、平尾自身が制作の過程で思考していることを聞かせてもらっていた。本テキストはその「ノート」のようなもの、いま書き留めておきたいことを一時的に形にしたものである。
 ある日本の哲学者が記憶のことを「過去のデッサン画」と言っていた。そのテキストを読んだときに平尾の作品を思い浮かべた。
 ふと蘇る情景というものがある。これは誰しもあるものな気がする。それは正確な記録ではなくて抽象的なイメージの断片、でもそこに手触りのあるリアリティがある。平尾はそれを原初的な体験として、その感覚を共有する装置としてメディアテクノロジーを造形する。
 ぼくは毎日Wikiの形式で手記を書く〈Wiki│手記〉という実践をしている。なんでそんなことをしているのか、その理由を説明することは難しいのだけど、実践している中でふと現実が「小説的」になる瞬間というのがある。現実を生きる自分の身体が手記によって相対化される。俯瞰的に自分やその周りの状況を捉える。現実とその詩的な見立てが折り重なっている時空間というのがふいに立ち上がるときがあるのだ。それをぼくは文字という古いメディア(しかしラップトップに向かってブラウザ上で使用できるWikiのサービスを使っているので少しだけ新しいか?)で実践してみている。
 そういった実践をしているぼくから平尾の本作を見るとプログラム、センサー、ディスプレイといったぼくたちの身の回りにある身近だけれど新しいメディアテクノロジーを扱って詩的な現実を立ち上げようとしているように映るのである。端的に言えば、それはメディアテクノロジーの不合理な使い方であろう。それはなにかを著しく効率化させたり便利にしたりするものではない。むしろそういった加速的な目的や特性を持ったメディアテクノロジーを使って、自分一人にとっての個別の現実を立ち上げる行為に見える。
 ぼくはそういったメディアテクノロジーに対する見立てや造形の型が現代において今一度重要であると考えている。そしてそのひとつの答えとして、平尾の制作の過程で現れる彼のからだの動かし方があると思うのだ。
 その彼の型を他者に渡すことができないだろうか。それが目下ぼくが考えていることである。メディアアート制作の中に、自己中心設計(Self Centered Design)的なデザイン行為、自らの現実を生起させるための日々のデザインというものがあるのではないか。もしそれが存在するならば制作すべきは鑑賞される作品のみならず、その過程で立ち現れる当人のからだの動かし方、そこから抽出される型、個別の方法論が射程に入るはずである。
 つまり今回の展示が作品の体験を通じて平尾の感覚を共有するものであるとして、別の仕方として平尾の身体像に近い誰かが平尾の方法論を実践することを通じて、平尾の制作体験を追体験する、平尾の型を一度自らのからだに取り込んでみるという実践的な鑑賞というものがありえるのではないか。
 おそらくぼくの次の役割は平尾のその方法論の抽出を彼と一緒に取り組んでみるということだろう。そしてその方法論を他者に実践してみてもらえるようにワークショップやそこで使われるツールキットの設計を共に行なう。
 平尾との日々の雑談の中で出てきたそれに関するアイディアをここに記す。方法論の実践は現時点で二種類想定できている。ひとつは平尾に似た身体像、具体的には似た興味関心を持つ人であり似たエンジニアリングスキル持つ人、その人たちに向けた平尾の作品制作を追体験するワークショップである。
 ここでは一定のリニアなデザインプロセスを用意しつつも、ワークショップ参加者当人の個々のからだの違いによって、生まれる成果物が適度に派生的になるよう自由度や余白を設定する。平尾のシステムが基本になりながら、参加者それぞれのシステムが開発される。
 これを開発言語を使った追体験だとしたら、もうひとつは参加的な鑑賞と言えるものである。具体的には今回平尾が制作したシステムをワークショップ参加者が一定期間使い、そこで生成されたビジュアルや使用する過程で発生したリフレクションをを元に参加者がひとつのグループになって対話を重ねる。ここでの追体験性は平尾がシステムをつくり自分でそれを使ってみて運用する、その「全く新しい道具を使い続けてみる」という部分の追体験である。
 ここで想定されるワークショップ参加者の身体像は平尾に似たエンジニアリングスキルを持つことは必要条件ではないが、しかし似た興味関心を持つ人である。今回の展示を通じて更に深く体験したいと強く思った人かもしれないし、写真や映像、絵画を扱う人、あるいは言葉を扱う人でもいいかもしれない。
 そしていずれのワークショップにおいてもシステムによって様々なビジュアルが生成される。今回の展示においてはまずウェブサイトでの公開としているが、今後の発展過程においては生成されたビジュアルのメディアの操作に興味がある。例えばフィジカルに印刷してみる。サイズを異常に大きくしてみる。書籍の形にしてみる。インテリアとして壁掛けのモニターに映してみる…など、いろいろいじくりまわしてみたい。
 この興味の根源はおそらく日常の中に差し込まれるメディアになったときに、それがその当人にどのような意味や効果を持つものになるのかというところにありそうである。
 全く未知の新しいメディアから、日々の自分のからだやその周りの環境からそれを捉え直して、自然に日常の中の一部になるよう形を変化させる。メディアを造形する。
 これらワークショップの在り方やシステムから生成されたもののメディア操作などを引き続き平尾と共に探求する遊びを今後も続けていきたい。

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