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🔲女房達は何人いたのか「空蝉の巻」2

再度、源氏は、小君の手引きで中河の空蝉のもとに忍び込むことに成功します。その時の様子が、次のように書かれています。

こたみは、妻戸を叩きて入る。皆、人々(女房達)しづまり寝にけり。
(小君)「この障子口に、まろは寝たらん。風吹き通せ」
とて、畳をひろげて臥す。御達、東の廂に、いとあまた寝たるべし。戸放ちつる童も、そなたに入りて臥しぬれば、とばかり空寝して、火明き方に屏風をひろげて、影ほのかなるに、やをら入れたてまつる。      

古典文学大系一 114頁

「語達、東の廂に、いとあまた寝たるべし」とありますが、女房達は具体的には、何人ぐらい寝ていたのでしょうか。そんなことをふと考えてしまいました。

「紫式部日記」には、彰子のお産の様子が詳しく描かれ、天皇様付きの上の女房といわれる方々が10数名程、道長家の関係女房が40人以上いたという記述があります。これらの女房は、上臈の女房といわれるようにかなり身分の高い女房です。

伊予の介の家の女房ですから、中将の君のよう身分のある方もいますが、ほとんどはごく一般的な女房だろうと思われます。「いとあまた」という数は、どのくらいだったのでしょうか。

10人程度では少なすぎます。「いと」「あまた」という言葉の響きでは。20人以上は寝ていたのではないでしょうか。20人から40人の間が考えれれますが詳しいことはわかりません。

しかし、受領階層の財産のある家には40人くらいの女房がいても不思議ではないかもしれません。大河ドラマなどでは、女房が5,6人というイメージですが、女房のそれぞれの仕事・役割などを考慮すると40人・50人と考えるのが自然のようです。「いとあまた」というイメージを作る必要があると考えます。

   

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