21世紀の空間知覚論 

僕は常に空間を知覚して生活している。この文章は家事をしながら、学校に行きながら、風呂に入りながら、今まで生きて来た空間知覚の試みを形にしたいと思って書き始めている。何も意味はない。ただ言葉とイメージだけが並んでいる文章である。読まれるかどうかは勝負ではない。形にする体験だけが勝負なのだ。つまりこれは自分との戦いの文章である。いざ行け吾輩。春の地上の空間をとにかく知覚せよ!

1、常に妄想が存在している。

今やってる行為に現実味が合った試しが一度もない気がする。これは常に妄想が存在していたからである。今も余り現実味がない。
では、現実味がないとはどう言う事か?それはフワフワしてる心地である。ここで例外が発生する。緊張してる時だ。緊張の時は緊張の空間がある。それは後述する。とにかくフワフワしてる。でも今はこの行為に名前を付けた。何処か別の場所イメージである。イメージという言葉はジルドゥルーズに影響されている。シネマ運動イメージ論が僕は好きだ。だから、この言葉を膨らませて書いてる。
今も勿論次の事を考えている。でも、これは世の中に役に立たない考えである。ここで世の中のお葬式をしたくなるが我慢である。知性と創造力と世の中の闘いである。
話が逸れた。フワフワしたイメージはフワフワした幻影とも言える。これはまだ空間知覚論ではないと一見思える。でも人間の空間知覚の中には妄想も含まれているのである。これは何となく想像が付くと思う。

2、フワフワした幻影と創造

フワフワした幻影を形にしたいなと思いつつ僕は別の物を形にしている。多分僕はフワフワした幻影に踊らされ動く。でも、それは別の物になって行く。それが僕の創作である。僕にとっての創作はフワフワした物と社会との繋がりのツールである。何も意味はない。創作があるから死ななくて済む。フワフワした物を形に出来る事に感謝してる。

3、イメージを消さない。形にする。

これが僕の基本姿勢である。消えないようにする。それはほとんどはパニックがトリガーになってると思う。パニックが発生して僕は手を動かす。何か形にしたくなる時は自分が崩壊しそうな時がスタートである。その時僕は文字を打ち、ペンを走らせ、喉とギターの弦を震わせる。僕はパニックと創造のマシーンなのかもしれない。

4、街を知覚する

街と僕は一体化している。半径数メートルまでは自分の空間だと思っている。僕は一体化してるのだ。自分と一体化した街。そして僕は常に演劇を生きている。そんな意識を持って常に生きてる。そして街を歩いてる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?