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遅咲きの花々

私は、年若くして名声を得た者より、遅咲きの芸術家の方が好きであり(自分がそうなりそうだから、かも知れぬが)、そういう人のことを普段から興味を持って調べているのだが、いろいろと事例をみていると、どうも、遅咲きの芸術家は、いちように、人間性にクセがある傾向にあるように思う。

曰く、古今亭志ん生、西村賢太、水木しげる、チャールズ・ブコウスキー、やなせたかし、など。

彼らは、長い年月を経て、そのクセを、味わいに変えていくことができたので、世間に認められた、という感がある。

要は、クセが、納豆とか、キムチとか、味噌みたいに、発酵して、おいしくなったわけだが、決して彼らが、クセを直そうと努力したわけではなく、むしろそれをつき通した結果、という気がする。

"やなせたかしはいい人そう"という意見もあろうが、彼も著者を読むと、若年時はハスに構えていた面もないではないようだ。

人は、もともとがどんなに尖っていても、いつの日かある程度丸くはなるのだけれど、そのスピードが違うというだけのことなのではないか。

で、その、"丸くなり方"というのも、自分で丸くなろうと思ってなるパターンと、"このトゲさえ抜けば世間にウケる"と気づいた周囲がそう促すパターンとがある。

若くして売れた方は前者で、若年時に丸くなるタイミングを逸した"晩年型"の方は、後者なのかもしれない。

そもそも、モノを作る者は、みんな尖っている
尖っているうちは売れない。世間に理解されない。
トゲを秘めたままに、世間と折り合えると、はじめて売れるのだろうが、その過程は人それぞれであり、一概に"こう"といえない。

やなせたかしも、アンパンマンが売れると思っていなかったし、水木しげるも、鬼太郎が売れると思っていなかった。

どちらも、世間に合うようにアレンジされてから売れた。アンパンマンは、はじめは普通のおじさんだったし、鬼太郎はグロかった。

となると、クリエイターが売れるキッカケは、尖った作品の中に、世間にウケそうな部分を見つけ、そこを拡げるアレンジャーに出会えるかどうか、ということか。

でもそれは見つけにいくんじゃなく、自然に出会わなければならない。

やなせたかしも、水木しげるも、アンパンマンを、鬼太郎を、アレンジして世間に売ってください、と自分から頼んではいない。

岡本太郎に言わせれば、「人間として、言いたい事を言い、やりたいことをやる。収入はそれについてくることもあるし、こないこともある。勝手にしやがれだよ。」ということか。

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