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あの日の情景

 休日の朝目覚めて、ふと思いついて美術館へ行くのが好きだ。予め計画を立て、手帳に書き込んだりなんかすると、いざその日になって、「やっぱりやめとこうかな」なんて思ってしまう。やはり「ふと思いついて」というのがミソなのだ。とにかくそのようにして美術館へ行く決意をすると、もうわくわくが止まらない。いつもよりしっかりと、しかし手早くメイクをし、よそ行きの服に着替える。そして愛車に乗り込み、エンジンをかける。そうするともう小さな冒険が始まるのだった。行き先は基本的に佐倉市か千葉市だ。だいたい一時間から一時間半くらいのドライブだが、普段買い物や仕事に出かける際には通らない道だから、まるでテーマパークのアトラクションに乗っているような気分を味わえる。車内でのBGMは洋楽だ。ジャンルはなんでもいい。ポップスでもロックでもパンクでもヘビメタでも、とにかく洋楽ならなんでもいいのだ。なぜ洋楽なのかと言うと、日常からより遠ざかることができるからだ。何でもない日常を特別な日にぱっと変身させるには、それにふさわしい音楽が欠かせない。オーストラリアのロックバンドの曲を聴けば、メルボルンの壮大なビル群や美しい建物が思い浮かぶし、フィンランドのヘヴィメタルバンドの曲を聴けば、まるで今夕暮れの湖畔に立ち尽くしているような気分になれる。時折ドリンクホルダーから、カフェラテをとって飲む。すると、国道十六号を走りながらも、さまざまな場所へと旅することができるのだ。
 そうこうしているうちに美術館へ到着し、車から降りると、思い切り深呼吸をする。自宅からたかだか一時間くらいのところでも、まるで空気が違っているように感じられるから不思議だ。美術館の外装は、必要なものだけがシンプルにセンスよく配置されていて、なおかつ前衛的な造りである。肌に触れる澄んだ空気と、視覚の捉えたもののほどよい刺激とが、また特別な日の演出に一役買ってくれた。まずは併設されたカフェかレストランで軽い食事をとる。全ての美術館がそうなのかはわからないが、わたしの知っている美術館内のカフェやレストランで出すメニューは、見た目も美しいし、味もとてもよい。そして窓から見える景色がまた素晴らしい。自然と室内とが一体となったような空間に心の底から癒やされ、腰を上げるのが億劫になってしまう。食後のコーヒーを飲みながら窓の外をぼんやりと眺めていると、森の中でさえずる鳥たちの仲間になったような気分を味わい、ああ、このままずっとここに座っていたいな、なんて思ってしまう。しかし漸く決心して立ち上がると、いよいよ目的の芸術鑑賞だ。
 まずは企画展示。わたしは基本的には写真と見間違うほどの精度の高い写実画を好むが、さまざまなジャンルの企画展示(時代も芸術的方向性も地域も異なるもの)を鑑賞すると、新たな発見があったりする。初めは純粋に作品だけを鑑賞する。そしてひとしきり眺めたところで、作品の横にある説明書きを読む。作者名と国名、描かれた年代、そして作品ができた背景。すると、作品だけを鑑賞していたときには感じることができなかった、作者の人となりを知ることになる。短命だったり長命だったり、内向的だったり外交的だったりする。だから美術館という場所は、さまざまな国の、さまざまな時代の、さまざまな人生が凝縮された場所なのだと思う。企画展を全て見終えたころには、たったの一時間足らずの時間で壮大な旅を終えたような気分になる。そして次は常設展示だ。
その日は佐倉市にある美術館を訪れていた。この美術館の常設展示は、入って最初のところで、暖かみのある照明に照らされたレンブラントの肖像画が出迎える。もう十回以上も目にしたこの肖像画と対面すると、決まって懐かしさが込み上げる。初めてこの肖像画と対面したのは、もう随分と前のことだった。
 当時高校生だったわたしは、美術部に所属していた。指導する先生たちも、部員の多くの人たちも、かなり本格的な芸術家やその卵だった。運動部や吹奏楽部と比べて楽そうだから、なんていう理由で入部したわたしは、周りから見たらちゃらんぽらんにうつっただろう。でもわたしは(自分の技術はさておき)周りの人たちの作品が完成していく過程だったり、部室に満ちる油絵の具の独特な香りだったり、じめっとした雰囲気だったりが好きだった。周りの環境というのは本当に大事なもので、入部当初幼児並だったわたしの画力も、年相応なものになってきた。
 美術部の中では、どこかの美術館で企画展があると、そしてそれが見ておくべきものであると、必ず話題に上った。だからわたしもいっちょ前に、周りにつられて展示を見に行っていた。そんな風にして最初に見に行ったのが、『モネ展』だった。それまでも、芸術などにはまるっきり興味がないくせに、美術館という空間は好きだった。家族旅行に行った際も、両親から「どこ行きたい?」と聞かれると、必ず「美術館」と答えていた。だから旅行先の地方の美術館なども結構たくさん訪れてきた。けれどこのときの『モネ展』へ行くというのは、それまでの芸術鑑賞とは、まるっきり性質の異なるものだった。それまでの芸術鑑賞は、行き当たりばったりに、まるで知識のない状態で作品と対面し、横にある説明書きもろくすっぽ読まずに、ただ直感だけでこれは面白いだとか、これは不思議な感じがするだとかいう感想を持った。それに対しこのときの芸術鑑賞は、特定の作者の作品を、己の技術向上という明確な目的を持って行われた初めての体験だった。
 当日、わたしはそれまでに味わったことのない緊張感と興奮とを抱えて美術館を訪れた。なんと言ってもモネである。教科書で幾度も見てきたモネの作品を実際に見られるのである。この日が来るまでしつこいくらいにモネの作品を思い浮かべた。だから、巨大なキャンバスに描かれた睡蓮の花が、自分の思い描いた睡蓮の花に重なったときは、もう胸が一杯になりすぎて、胸苦しさを覚えたほどだ。大胆な筆遣いで描かれた睡蓮の花、はっとするほどの池の水の透明感。それらを穴が空くほど眺めていた。そうすると、展示室の中にモネがこの絵を描いている姿までもが浮かび上がってくるのだった。展示室いっぱいに溢れた睡蓮を、かれこれ二時間くらい眺めた後で、漸く名残惜しそうに展示室を後にした。そして、休憩を挟んで今度は常設展示を訪れた。そこで最初に対面したのがレンブラントの肖像画だったのだ。先ほどのモネの睡蓮を見たときとはまた違った種類の感情が渦巻いた。絵の中の光と、室内の照明とが一体になっていて、その人物は自然な笑みをこちらに向けている。その作品からは、この場所に収まるべくして収まったのだいう確固としたものを感じた。それくらいにその肖像画の人物の表情は、心地よさげで、尚且つ強い意志を放っていたのである。わたしはその目を覗き込んでいると、心の底から美術館ってなんて魅力的な場所なんだろうと思った。
 レンブラントの肖像は、長い月日が経過した現在も、あの日と同じ穏やかな表情をこちらに向けていた。わたしは現在、芸術とは全くかけ離れた世界に生きている。成功と挫折を何度か繰り返し、漸く自分に適した生き方というものを見つけた。しかし幼いあの頃の、芸術家の仲間入りをしたような浮き足だった気持ちは心の奥深くに眠っている。わたしたちは、とかく若いころは、ぼんやりと浮かんだ正体のわからない何かに、自分でも気づかないうちに憧れを抱いているということがある。次第にその像がはっきりと見えてくると、多くの場合、その中に自分が入り込むことに怯んでしまう。しかし勇気を振り絞って困難を乗り越え、自分が像そのものになれる人もいる。それでもいざ自分が像そのものになったら、今度は像の中に収まっているのが酷く窮屈に感じてしまったりする人もいる。だから、ある物事から淘汰されるというのは、実はその人にとって最も幸福な生き方へ導くための最善の方法なのではないか。そして自分のなりたい像となれる像とは別なのではないか。なりたい像と比べてなれる像が劣っているとは限らない。客観的に見てどうか、なんていうことより、自分自身が心地よいかどうかの方を大切にしていきたい。
そうは言っても、いくつになっても憧れを抱く、ということはいいものだとも思う。矛盾するようだけど、今の自分に満足する気持ちと、不満に思う気持ちが混在している状態、というのが、一番好ましい。わたしたちは大人になると、嫌でも現実というものを目の当たりにするし、自分の理想像と現在の自分とを比較して一度は味わった葛藤から目を背け、そこに上手い具合に妥協し、初めからそれが理想だったように振る舞う。勿論それも悪くはない。常識ある大人というのは基本的にはそういうものだ。だからといって、未来に夢を馳せる子どもたちに、そんなことは無理だと言って、像が実を結ぶのを阻止する権利など、大人たちにあるわけがない。どんなに無謀に思えることでも、実際に成し遂げられる人だっているのだ。それなら大人の力で子どもたちの夢や希望を無理矢理に押しとどめていいわけがない。納得いくまで頑張って、もう無理だ、と言って音を上げても尚且つもうちょっと頑張ってみなさいと背中を押してくれる人が近くにいた子どもたちだけが、ぼんやりと思い描いた像の中に入っていけるのではないか。そしてみんなの憧れであり続けるための努力を怠らず、強さを持った人だけが、その像であり続けることができるのだ。しかし同時に、ぼんやりと浮かんだ像にもしかしたらなれるかもしれない、と思っている時間は、実現することができたという事実よりも、幸福感をもたらしてくれるのではないかとも思う。
レンブラントの肖像の柔らかな、それでいて希望の光を放った瞳とそっと目を合わす。著名な画家によって描かれた、この人物の表情は、幼い日の憧憬をそっと思い出させてくれる。

#創作大賞2024
#エッセイ部門

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