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「美術館女子」と「カウンター抑圧」

(途中思いついた順に思ったことを書いていったのでまとまりないですが)

抑圧に対する戦いがあちこちで見られる。

最近、長い間抑圧を受けてきた人たちが声を上げるような出来事をよく目にするようになった。人種差別問題や性差別問題は共に人間疎外の産物であり、近代のテーマである「自由」と「平等」が徹底されていなかった領域であるように思う。抑圧されていた側は「不当な抑圧をやめろ!」と言う。ヒューマニズムに基けば実に自然なこと。しかし、一筋縄ではいかない。

「カウンター抑圧」

問題は「何をもって抑圧とするか」である。「抑圧を受けている、抑圧をやめなさい」という主張は際どさを越えて敷衍されれば「嫌な思いをした、よくないからやめなさい」へと行き着くことになる。
こういった言説が横行し出すと、人が傷つかないユートピア建設が始まる。人を傷つけうる物は全て精査の対象である。ナイフは当然人を傷つけることができるが、タオルでだって人を殺せないことはない。思った以上にいろんな物がまな板の上に置かれる。では一体そうなった世界では誰が「存続して良い」「なくすべき」のジャッジをし直すのか。
想像でしかないが、おそらくある程度の人数に共感を得られる妥当な言説が勝ち残るだろう。その結果、共感を得られなかった新しいマイノリティーは黙りこくるしかない。彼らにとって大切なものは捨てられ、不快なものは存続する。妥当性がどの程度であれ、これは至って暴力的で抑圧を受けることと同じといっても過言ではない。抑圧に対する戦いだったはずが、新たな抑圧を生み出すのである。いわば「カウンター抑圧」である。

ここに示した想像が多少極端なことは自覚しているが、現実味がないとは言い切れない。「抑圧」がここまで肥大することはできれば避けたい事態である。

「美術館女子」企画

そもそもなぜこのようなことを述べているかと言うと、「美術館女子」企画の炎上を目の当たりにしたからである。トレンドに上がっていたので、どういうことかと気になって見てみると、なるほど合点がいった。

要するに、「「作品を観に行くこと」ではなく「美術館に行く私」にスポットを当てた企画で、純粋に美術を楽しみにして美術館に足を運ぶ女性からすれば一括りにされたような印象を受ける、また女性らしさを表層的なことに消費している点で差別的だ」、ということだ。こういった主張が発信されているのを見ると、確かにそうだ、と思った。しかし、企画の内容自体を先に目にしたときは、あーこういうのあるよなあ、と思っていただけで、明確に「問題だ!」なんて気持ちにはならなかった。さらに、これを抑圧と捉えるような言説もまま散見された。

SNSで見かけた企画への批判は確かに正しかったし、納得もした。ただ、同時に違和感や恐怖もあった。それは、これは「カウンター抑圧」に似ていないか、という疑問に起因している。
そもそも、自分が望んだものと違うようにカテゴライズされることに不快感を抱くことは全く不思議ではないし、それを表明する権利もあると思う。しかし、私自身を省みた時に日常でよくあることでもある。これが抑圧だと言うのであれば、私も抑圧されている、と考え声を上げた方がいいのか。私にはそれが抑圧であるという実感はないし、声もあげない。正義に塗した暴力によって上に述べたような結果を招きたくないからである。

この企画の帰結が抑圧的であるかどうか、あるいは抑圧的とはどういうことかを考えるにあたって、もう一つ重要なことがある。それは、「この企画が消費するジェンダーによる被差別は弱者側に特有の要素は強くない」、ということである。「美術館男子」ではなく「美術館女子」であった経緯に、弱者側である必要があった、というような直接的な原因は見当たらない。もちろん企画が男性目線によるものだとは思う。その時点で両者は均衡ではない。しかし、それが強者側としての男性目線であったのは構造的な問題によるもので、強者側の抑圧意識との関係は今回においては直接的ではないと思う。
であるならば、「美術館男子」という企画が今回と似たようなコンセプトで、男性らしさを消費するものとして開催されていたら、これもまた問題になっていたのだろうか。
無論、一部では話題になっていたかもしれないが、ここまでの炎上騒ぎになったかと言えば、それは想像し難い。大体の男性が、特に何の批評もせずに素通りしたであろう。では、今回の炎上の火種は、男性らしさ、女性らしさといったジェンダーの虚構(ただし、この虚構のうちの、抑圧する側、される側という非対称性に関係ない領域)に対する反発とは別のところにあるのだろうか。

いや、おそらく火種は間違いなくジェンダーの虚構への反発だ。実際に批判者たちはそれを口にしている。では、この男女の現象の差(想像ではあるが)はなんだろうか。私は「抑圧する側とされる側における感受性の差」だと思う。当然、性はそれ自体に性質を持っていて入れ替え可能ではないので、一概には言えないのだけれど。

これは両者ともに認識しておく必要がある。なぜなら、上記の「カウンター抑圧」のように、抑圧されていた側が抑圧する側に変わることがあるからである。その時、抑圧を始めた人たちは自分たちの行為の意味に気づきにくい。逆に抑圧していた側は抑圧される痛みを知ることになる。

それゆえ、発信する以上は注意が必要である。今回の場合は、「こんな企画は嫌だと思った」「私をこんなの一緒に分類しないでほしい」くらいまでは特に問題ないかもしれないが、「この企画は不当な差別だ、やめるべき」と言うのには割と注意が必要だと思う。この主張自体の妥当さの判断はここではしない。それはその主張の中身と理想を提示されるまでは下せないからだ。

大事なことは、「抑圧を否定する論理の行動可能範囲は抑圧を否定する人たちが思っているより狭い」ということ。

「この企画をやめるべきだ」という主張は、かなり際どい箇所で「美術館で多様な楽しみ方をしたい人を集客する自由」と接している。度が過ぎれば、美術館での楽しみ方を抑圧する言説にもなりうることは頭に入れておかなければなるまい。私が感じた恐怖は、批判者にこの意識があまり見受けられなかったからだと気がついた。
「嫌だ」というのは自由。ただ、それを外に向け、原因を不当な抑圧に求めるのであれば、自分が抑圧の加害者になる可能性はつきまとう。

と、私は思います。そう思わないのもみんな自由。物騒な世の中なので、この言葉を足しておきます。

「人を傷つけない笑い」

最後に、上記の「カウンター抑圧」のような身近な例として、「人を傷つけない笑い」をあげたいと思う。

ミルクボーイやぺこぱが活躍したM-1 2019。主にこの方々のネタが、「人を傷つけない笑い」だと称賛され、お笑いにそれを志向させるようなコメントが多く見られた。

しかし、「人を傷つけない笑い」だというが、それは一体誰が決めているのだろうか。そして本当に全く人を傷つけてはいないだろうか。

例えばミルクボーイの「コーンフレーク」のネタは、コーンフレークの製造側が怒り出しても別に誰も文句は言えないだろう。「器狭いな」とか「いや、これネタだから」とかは言えるかもしれないが、製造者が傷ついていたとしたらなんと言われようがその事実は変わらない。そうなっていた可能性を、あるいはそれが裏で起こっていたが表明されなかっただけだという可能性を、誰が否定できよう。
もしこうなっていたらミルクボーイのネタは「人を傷つける笑い」である。それがたまたま起こらなかったので「人を傷つけない笑い」としてもてはやされた。

そもそも、人が「傷つく」「傷つかない」というのは非常に相対的で、人によって基準が違う。なのになぜ「人を傷つけない笑い」とキッパリ言えるのか。言えたとしても、「人を傷つけにくい笑い」「人を傷つけやすい笑い」までだろう。

「人を傷つけない笑い」という言葉の裏に、大多数の感覚に対する信頼があり、「これで傷つくヤツなんているわけない」とすでに新しい弱者を産み出し、抑圧しているように思う。
抑圧を否定するような言説であるにも関わらず、新たに抑圧を産み出している。しかも、おそらく無自覚に(自覚があれば途中で止まるはずだ)。


このように抑圧を否定することは簡単ではない。そのための第一歩は、ありきたりなようだが、「自分は抑圧されているようでいて、実は抑圧をしているかもしれない」と常に慎重でいることだと思う。

ちなみに、「美術館女子」批判へのコメントについては、例えるなら「飯を食うな!」ではなく「飯食う前に手洗った?」くらいのイメージなんで。お間違えなきよう。

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