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[小説]愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命(5)

第三章(2)

 久し振りに日本から父が訪ねてきた。この地で合弁事業をしている父は普通の帰国者の親族よりも頻繁に訪れることが出来る。通常は3ヶ月に一度くらいの割合で訪ねてくるが、今回は仕事の都合で間隔があいてしまったそうだ。俺の方も芸術団の仕事が立て込んでいたので差し支えなかったが。
 父は来るたびに「すまない」と謝罪の言葉を口にする。父は俺が北に来ることに大反対だった。だが、当時の俺はこの選択以外に無いように思っていた。
 俺は“嫡出子”ではない。母は父の“愛人”だった。母のやっていた飲み屋の常連客だった父と親しくなり俺が生まれたのである。世間にざらにある話である。
 父に家庭があることを承知で子供を産んだ母は自力で育てようと決心した。父は、そんな母の気持ちを尊重しつつも、父親らしいことをしたいといって誕生日やクリスマスのプレゼント、幼稚園や小中学校で必要な諸費用、高校の学費まで出してくれた。また参観日や運動会等にも時間が許す限り来てくれた。
 高校まで公立に通った俺は、大学には進学せず働くつもりだった。だが、父は若いうちに多くを学ぶべきだといって大学進学を勧めた。もちろん費用は自身が出すと言った。母も俺もこれ以上、父に負担を掛けたくないと思い、学費は奨学金を借りると言った。すると父は「では、その奨学金を自分が出そう、卒業後に返済するという形にしよう」と言ったので、その案を受け入れ俺は学費の比較的安い大学に進学した。
 父のお蔭で思ってもみなかった、いわゆるキャンパスライフを送ることが出来た。
 大学は、これまで通っていた中学や高校とは異なったスタイルになっている。数ある科目の中から必要なものを選んで自身で時間割を作り、サークル活動も高校の部活と比べ、本格的な内容である。
 こうして選んだ授業は思ったよりも興味深く、勧誘されるがままに入った演劇サークルの活動も楽しかった。そして就職先も堅実なところに入ることが出来た。
 卒業後の進路も決まり一段落したところで安心したのか母は世を去ってしまった。母子家庭ということでいろいろ心労があったのだろう。
 母の葬儀その他が一通り済んだ時、父の本妻さんが訪ねてきた。父と同じく朝鮮出身の彼女は母とは異なり美人で知性的、威厳まで感じさせる女性だった。
 型通りの挨拶をした後、彼女は
「あなたには親族もいないことだし、共和国にいってはどうかしら。さんざん主人の世話になったのだから、ここらで恩返ししてもいいんじゃない」
 俺は本妻さんが何を言っているのかよく分からなかった。ただ、ここでの生活を整理して外国へ行き、父の仕事の支援をしろということなのだろう、くらいに考えていた。
 母亡き後、確かに俺には親族はいないし、父には世話になりっぱなしだったし、恩返しもしたい……。様々に思いを巡らしている間にも本妻さんは“共和国行き”を繰り返して勧めるので
「分かりました、おっしゃる通りにいたします」
と答えてしまった。彼女の威厳に負けたのである。
 俺の“共和国行き”準備はトントン拍子に進んだ。この時になって共和国が北朝鮮を指すことを知ったのだが、当時の大半の日本人同様、俺にも北朝鮮に関する知識はほとんどなかった。
 父がやってきたのは本妻さんが来てから数週間後だった。
 父は俺の北朝鮮行きにひどく愕き、何とか取り消すようにすると言った。その翌日には本妻さんの代理とかいう若干強面の男が来て、お前の共和国行きは決定済みだから、もうどうにも出来ないと言い渡された。
 数日後、俺の家で父と本妻さんが鉢合わせになり、俺の共和国行きで激しい口論となった。
 俺はふと、生前母がよく口にしていたことを思い出した。
“私たちは本妻さんとそのお子さんたちから父親の一部分を掠め取ったのよ。そのことは自覚しないとね”。
 本妻さんに従わなければならない、こう思った俺は
「私は共和国に行きます。そう決めました」
と二人の間に入ってきっぱりと告げた。本妻さんは喜色満面となり、父親はがっくりとうなだれた。
 その後、卒業式を終えた俺は本妻さん側が言うままに総盟すなわち在日本朝鮮人総聯盟が主催する帰国準備教室に通った。そこでは朝鮮語を中心に北の制度や朝鮮の歴史や文化を教えていた。
 世間は新年度が始まり、町には新しいスーツに身をつつんだ新社会人たちが大勢行き交っていた。ふと友人たちの顔が浮かんだ。彼らも今頃は新入社員として張り切っていることだろう。本来ならば俺も、その一人になるはずだったのだが…。真新しいスーツ姿を眺めながらそんなことを思ったりもした。
 数ヶ月の帰国準備教育が終わり、俺はいよいよ“共和国”へと旅立つことになった。当初気掛かりだった言葉も何とか日常生活なら送れるレベルになった。
 元山行きの北朝鮮の船に乗るために新潟へ行く俺に父は付き添ってくれた。
 新潟港に着き、乗船時間が近付くと俺は、辛そうな表情を浮かべる父に
「向うは社会主義国なので自分みたいに親族の無い者は国で面倒を見てくれるらしいです。だから何の心配もないですよ」
と帰国準備教室で習った台詞を出来るだけ明るい声で言った。すると父は
「お前の暮らすところはこの日本だ。絶対に連れ戻してやるからな」
と決意に満ちた口調で言って俺の手を握った。
 出港の合図がなり、俺は船に乗った。甲板から父を含む多くの見送り人たちに向かって俺は手をふった。
 船はゆっくりと日本の地を離れていった。

 船内で俺は人々の視線を感じた。「林社長の息子さんでしょ」と気安く声を掛けてくる人もいれば、俺から目を離さない人もいた。
 そうした人々の口から、俺は父と本妻さんについて改めて知るようになった。
 俺の知っている父・林長吉はハヤシ食材㈱の社長で朝鮮半島出身ということぐらいだが、在日社会、特に総盟すなわち在日本朝鮮人総聯盟の中では有名人だった。何の役職にも就いていないが、その経済力で総盟や在日社会を支えているのである。
 妻すなわち本妻さんは総盟の婦人部会会長で凄腕の活動家だそうだ。才色兼備で押しの強い彼女は、口の悪い連中から総盟の閔妃~名前が閔明順なので~と呼ばれているそうだ。
 俺がこの船に乗ったのも“閔妃”に陥れられたのだろうとか、林社長も妾の子は可愛くないのだろうという無責任な話も耳に入ってきた。確かに父は自分の子供たちを民族学校に入れなかった。本妻さんのいうことはほとんど聞き入れる父だが、この件については断固として許さなかったそうだ。総盟員の子弟のほとんどが民族学校に通っているため、総盟幹部としての体面もある本妻さんはこのことをひどく気にしていた。だから、その代償として、たとえ愛人の子であっても本国に親族を送ることによって面目を立てたようである。
 俺は面と向かって言われない限りはこうした与太話には触れないようにしていた。
 ちなみに父が林長吉で義母(といっていいのだろうか)が閔明順であることは、俺の北朝鮮での生活に影響を与えた。この2人がバックにいることで俺はそれなりの生活を送ることが出来たといっても過言ではないのだから。
 船はまる一日以上掛けて北朝鮮の元山に到着した。出港した新潟と比べると寂れているが、日本や欧米のような国以外は発展途上国だと単純に思っていた当時の俺は、こんなものだろうと別に気にしなかった。“青年海外協力隊”の一員にでもなったような気分だった。

 さて、社会主義を称しているにも関わらず、この国で一番ものを言うのは“金”だった。ちなみに二番目にものを言うのは、本人または親族の地位だ。
 このことは、北の地に着いてすぐに判明した。
 元山港に着き船から降りると、いきなり
「林哲男〈リムチョルラム〉同志ですね。こちらへ」
と、俺は他の乗客たちから引き離され、高級車に乗せられた。車は平壌へ向かって走っていった。俺だけ平壌に行けるのである。さっそく父の経済力が発揮されたようだ。この国で平壌に住めるのは“上層階級”だけだからだ。
 俺と一緒に船に乗った人々は、そのまま元山に留まり、数日後、各地方に送られたようだった。以前だと無条件に炭鉱や山間の農村に送られたが、“帰国者”が激減した昨今は、少しは個人の希望が出せるようになったといわれている。
 勤め先と住居が決まるまで俺は平壌の高級ホテルに滞在した~2、3日くらいだったが。
 俺は中央芸術団で助監督として働くことになった。恐らく、父が比較的に楽で俺に出来そうな仕事に就けるよう手を回したのだろう。その際に演劇サークルでの実績(?!)が考慮されたのではないだろうか。住居は平壌市内中心部のマンションになった。
 このように他の帰国者とは比較にならない厚遇のおかげで、見ず知らずの土地だったが、俺は何とかやっていけた。

 さて、いつものように父が“定宿”にしているホテルに出向いた俺はロビーで父と落ち合った。
 例の如く、父の脇には案内員と称する見張りの男女二人組が張り付いていたので、まず彼らと共にホテル内の料理屋に行った。
 父の会社と朝鮮の関係部門の合弁企業が経営する店だった。父は出迎えた店員に一言、二言声を掛けた後、「私たちは9時までには戻りますので、それまでここで寛いでいて下さい」と、案内員たちに言って、俺と共に店を出た。
 本来ならば案内員たちは来訪者に張り付いていなければいけないのだが、金銭第一主義のこの国では簡単に追い払うことが出来る。相応のものを与えて、飲ませ、食わせ、遊ばせて(カラオケ、コンパニオン等々)やれば、数時間だが解放される。あの二人もこれから数時間、うまいものを食べ、うまい酒を飲み、コンパニオンたちと歌って踊って、この国の庶民では味わえない夢の時間を過ごすのだろう。
 料理屋を出た俺たち二人は父の部屋に行った。室内に入るとまず壁際にラジカセを置いて音楽をかけた。この辺りに盗聴器が仕掛けられているからだ。そして、窓際に椅子とテーブルを移して座り、ようやく話を切り出した。
 いつものように父は俺の手を取って詫び、絶対に日本に連れて帰るからなと言った後、それぞれの近況や様々なことを語り合った。
「…ところで、最近“帰国”した中に、演劇をしていた女子高生がいませんでしたか?」
 金輝星について知りたいと思っていた俺は訊ねてみた。
「どうだろう、俺は聞いたことがないなぁ」
と答えた後、思いついたように言葉を続けた。
「そういえば、この間、仕事で北陸方面を回っていた時、数年前、舞台監督と女優夫婦の娘が臨海学校に行った際、海辺で行方不明となり遺体が未だに発見されないという事故というか事件があったという話を聞いたなぁ。演劇コンクールで何回も入賞し、女優志望の子だったそうだ」
 この時は聞き流していたが、日本に帰った後、これは大変なことだと知ったのだった。

「ところで、お前のとこの金輝星という女優は大したものだな」
 父は彼女の舞台を見たようだった。
 日本からの訪問団(在日、日本人問わず)のスケジュールには、必ず市内観光と公演観覧が入っている。観光は、バスや遊覧船を利用して、凱旋門、国立図書館や練光亭、大同門等、新旧の名所を周遊する。公演はたいてい音楽会である。
 父のように仕事でたびたび来ている人間は、このようなことはせず自身の用事のみを行う。今回は時間があったので上演中の公演を見たそうだ。
「はい、今、朝鮮で一番の女優といっても過言ではないですね」
「芝居の内容はどうってことは無いがあの娘はいいよ、本当に」
 父は輝星をしきりに褒めていた。彼女の舞台を手掛けている俺は自分が褒められているようで嬉しかった。
 ひとしきり彼女の話で盛り上がり、その後、取り止めの無いことを話しているうちに面会終了時間となってしまった。
 俺たちが部屋を出ると
「ハヤシ社長!」
と日本語で呼びかけられた。振り向くと痩せてくたびれたような格好をした男が立っていた。
「新井です。お久し振りです」
 男は頭を下げた。
「…新井さん、こちらにいらしてたのですか」
 知り合いだったようで父も頭を下げた。
 この様子がいかにも日本的で何かおかしかった。
「ご家族の皆さんはお元気ですか?」
 父が型通りに挨拶すると
「女房が身体を壊しまして……」
と新井さんは口ごもる。
 父は懐から財布を出すと日本の一万円札を何枚か取り出して彼の手に握らせた。
「薬代の足しにでもして下さい」
 父が言うと新井さんは何度もお辞儀をし、「いつか絶対お返しします」と言って去っていった。
「あの人を知っているのですか?」
 俺は父に訊ねると、
「在日の企業家たちの集まりで知り合ったんだが、このところ顔を見なかったのでどうしたんだろうと気になっていたんだ。まさかここに来ているとは思わなかった」
 新井さんも俺と同じく事情があって“帰国”したのだろう。ここでの生活に行き詰まったけれど日本にもこの地にも頼れる者が無いため父を訪ねたのかも知れない。
 後日、日本に帰ってから知ったのだが、こうしたことはざらにあるそうだ。中には、民族学校の修学旅行で行った生徒たちのところにまで行って無心した人もいたそうだ。日本と違い国自体が貧しいので全ての国民に十分な社会的な支援が行き届かないのだろう。生徒たちもそこらへんはよくわきまえていて、小遣いの一部をあげるそうだ。
 この国では、よほどの上層階層以外、よい生活をしているのは俺たちのように国外にいる親族からの援助を得ている人間である。平壌にいる連中は日本の親族から、北方に暮らす人々は中国にいる親族からだ。当時の中国は貧しかったが、農作物はそれなりにあった。自分たちで作った野菜や雑穀等をトラックやリヤカーに積んで北にいる親族に持っていってやるくらいのことは出来たそうだ。
 新井さんの後姿を見送った後、俺たちは食堂に行き、案内員を引き取った。すっかり御機嫌になっている二人は、ここでまた御土産を受け取り、“お小遣い”まで貰って浮かれていた。俺はそんな彼らと共にホテルを離れた。
 そういえば、金輝星のところには親族が来ることも親族からの仕送りも無かった。今、思えば当然のことだが、当時は彼女も“訳有りの帰国者”なのだろうという程度にしか思っていなかった。

 翌日、いつものように仕事場に行くと事務室は騒ぎになっていた。
 芸術団では年一回、地方巡回公演を行うのだが、そのメンバーの中に金輝星が入っていないことに抗議する電話やファックスが殺到していたのである。
 俺は団長のところに行き、彼女をメンバーに加えてはどうかと提案した。
 当初、劇団側も彼女を巡回公演に連れて行くつもりだったが、“上”からの許可が下りなかったそうだ。地方巡回に行けるのは相応の経歴を持つ者という慣例になっているが、金輝星は劇団公認の実力を持つ俳優である。巡回に参加しても問題はないと思うのだが、上には上の方針があるのだろう。こういう時は、この国の体制は何て融通が利かないだろうと思うのだった。
 俺は団長の部屋を出て、次回作準備のために資料室に行った。今日も金輝星はそこにいた。次作品がまだ決まっていないため、彼女は演劇全般に関する書籍を読んでいた。熱中している彼女は、俺が近付いても気がつかなかった。背後からそっと覗いて見ると日本語の書籍だった。この国には演劇(いやその他の分野でも)に関する良書があまりない。そのため、外国の関連書に頼ることになる。ここには演劇関係だけだが、日本語や英語等の本があるが、一般の学校や図書館にはこの国で発行された本以外はないそうだ。このことも日本に帰ってから知った。
 北にいたといっても俺は演劇関係の世界しか知らない。一般社会のこと、特に強制収容所や闇市等については日本に戻ってから、関連書籍や脱北者の証言、日韓のNGO団体の人々の口を通じて知ったのである。
 それは俺に限らず、金輝星もこの芸術団にいる日本帰りの人々も同じではなかろうか。


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