姜沆と藤原惺窩

 睡隱(姜沆)は自身の前に平伏した人物の服装を見て驚いた。深衣をまとい福巾を被る装いはこの国では見かけないものだった。
「先生、如何でしょうか」
 日本語で言った後、その人物は身を起こすと前に置かれた紙に漢文で先ほどの言葉を記した。
 一読した睡隱はその横に漢文で次のようなことを記した。
「完璧です、惺窩どの」
 惺窩はこれを読んで思わず微笑んだ。
 和歌の大家である藤原定家の末裔に生まれた惺窩だが、庶出ゆえ生家である下冷泉家は継げる見込みは皆無だった。そのため出家して僧となり禅と朱子学を学ぶようになった。
 朱子学に心惹かれた彼は、より深く学ぼうと本場・明国へ渡ろうと思ったが残念ながら果たせなかった。
 そうしたなか、伏見城に朝鮮から連れて来られた儒者がいることを知り、是非教えを請いたいと思い、人を介してようやく面会が叶った。
 睡隱・姜沆という名のその儒者はたいそう学識の高い人物だった。
 彼に敬意を抱いた惺窩は毎日のように伏見城を訪れ、教えを受けるようになった。
 ある日、彼は儒衣について睡隱に尋ねた。何冊かの書物を見たが今ひとつ具体的に分からなかったからである。
 睡隱は惺窩の持ってきた書物を見ながら解説した。
 そして今日、惺窩は睡隱の教えをもとに仕立てた衣服を着て師の前に出たのだった。
 これは彼の決意の形であった。今後は君子の学である性理学(朱子学)に専念しようと。
 この思いは睡隱にも伝わったようだった。彼は異国の弟子に情熱的に教えた。
 後日、藤原惺窩は“君子の学”を日本に定着させた。そして、朝鮮国と穏やかな関係を三百年近く保つようになるのである。


#歴創版日本史ワンドロワンライ  2019年11月23日お題:藤原氏
藤原惺窩って藤原定家の子孫だったのですね‥。

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