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学術論争

 1970年代のとある日のこと。
 白頭山麓の或る学校ではちょっとした騒ぎになっていました。平壌から新任教師がやってくるというのです。季節外れのこの時期に来るのですからワケ有りの人なのでしょう。よくある話です。
 新任の先生の名前は都宥浩といいました。初老の生真面目な研究者というタイプです。都先生の担当科目は歴史でした。教え方は丁寧で言葉の端々からその知識の深さが感じられました。
 日が経つにつれて先生の来歴が少しづつ伝わって来ました。日帝(日本統治)時代にヨーロッパに留学して考古学を学び、これまで多くの論文を発表したとても優秀な考古学者だったのです。教師学生はもちろんのこと村中の人々が驚愕してしまいました。こんな人々が何故、このような田舎に来たのか、この地に暮らす人々は大体察しが付きました。そして先生に同情するのでした。
 暫くして先生がこの地に来た理由が判明しました。
 歴史論争に敗れたためでした。
 1960年代初頭から北朝鮮の学会では古朝鮮の領域について二つの説が出ていました。一つは中国東北部説、もう一つは平壌周辺説です。前者は文献研究者系の人々が主張し、後者は都先生を始めとした考古学研究者が主張しました。論争は数十年続き、勝った(?!)のは中国東北部説でした。
 古朝鮮の文化圏は朝鮮半島北部から中国東北部まで及ぶ広い範囲だった〜これが北朝鮮の公式見解になったのです。
 日本や欧米と異なり北では学芸の世界といえども政府見解に反するものは存在出来ませんでした。そのため反主流の研究者である都先生は表舞台から去ることになりました。
 片田舎の教師になっても都先生は穏やかに与えられた職務を果たしました。
 定年となり先生は教職員、学生そして村人たちに惜しまれながら村を去って行きました。
 その後の消息は分かりませんが、悪い話は伝わって来ませんでしたので、きっと良い余生を送ったのだろうと人々は言うのでした。


 日本統治時代の研究者のうち、日本の敗戦後、北に行った人も多数いました。この物語の主人公都宥浩もその一人でした。            古朝鮮の「平壌説」、昨今の北朝鮮では復活しているようですので都先生の名誉も回復しているかも知れません。

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