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【試し読み】『スヌーピーがいたアメリカ』ピーナッツ・ギャングの目を通して見るもう一つの戦後アメリカ史

20世紀を代表するキャラクターの一つ、「スヌーピー」を生み出した漫画『ピーナッツ』。7月新刊『スヌーピーがいたアメリカ』は、無邪気でかわいらしいこの作品の登場人物たちとは対照的に、そこに込められていた冷戦期のアメリカ社会が直面する現実に対するきわめて政治的なメッセージを読み解いていく刺激的な書籍です。

今回は、訳者の今井亮一先生が、日本の読者に向けて本書の内容と読みどころをわかりやすく解説された「訳者あとがき」を公開いたします。ぜひご覧ください!

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訳者あとがき

 本書はBlake Scott Ball, “Charlie Brown’s America: The Popular Politics of Peanuts” (Oxford University Press, 2021) の全訳である。

 著者はアラバマ州ハンティンドン大学の歴史学科の助教アシスタントプロフェッサー。本書の元となった“Charlie Brown’s America: Peanuts and the Politics of Wishy-Washy, 1950-1980” でアラバマ大学より歴史学の博士号を取得した、新進気鋭の研究者である。したがって本書も学術書ではあるが(なにせ原書も邦訳も大学出版からの刊行だ)、『ピーナッツ』(スヌーピー)という親しみやすい題材から戦後のアメリカ社会・政治を読みとくというアプローチゆえ、決して難解な本ではない。抽象的な理論が展開されるわけでもなく、具体的で興味深いエピソードが並んでいるので、アメリカの歴史をめぐるドキュメンタリーのようにも楽しめるだろう。このように低めの敷居を用意しておきながら、冷戦期アメリカ社会の「空気」を描き出す著者の手腕は見事というほかない。と同時に、時代という背景に照らされることで、『ピーナッツ』の世界をより十全に楽しむための手引きともなるはずだ。

 もっとも、日本では馴染みのない用語も少なくないので、訳註をやや多めに配した。背伸びした高校生にも読んでほしいと思いながら付したので、お節介に感じられる読者も多いかもしれない。適宜読み飛ばしていただきたい。

 タイトルについて触れておくと、原書ならびに元となった博士論文のタイトルを「直訳」すれば、『チャーリー・ブラウンのアメリカ』となる。副題はそれぞれ、「『ピーナッツ』の大衆政治」、「『ピーナッツ』と優柔不断の政治学(1950-1980)」といったところだ。邦題をつけるにあたっては、『ピーナッツ』関連本には「スヌーピー」と冠するという日本の慣例に従い、『スヌーピーがいたアメリカ』とした……もとい、スヌーピーと明記した方が耳目を惹くだろうという計算があったことは隠すまでもない。それほど日本ではスヌーピーばかりが特権的に有名かもしれないが、本書を通じてほかのキャラクターたちの魅力、そしてピーナッツ・ギャングが織りなす世界に刻まれた作者チャールズ・M・シュルツの奮闘が伝われば、願ったり叶ったりである。無論タイトルは重要だが、シュルツにとっても『ピーナッツ』というタイトルは唾棄すべきものだったのだ(第一章参照)。

 各章の内容については序章で詳しく述べられているので屋上屋を架すばかりだが、超簡略版+訳者的読みどころを紹介しておこう。

 序章は、小難しく言えば、本書の研究史上の位置づけと概要が説明される。学術書あるあるとして、序章は読みにくいのが通例である(だいたい、本の冒頭に置かれているものの、序章は執筆順序でいえば最後に書くものだから、抽象度の高いまとめを行ないつつ、本文を書き終えて新たに考えた知見を加えていくことになり、自然、読みにくくなるのだ。やれやれグッド・グリーフ)。本書も例外とは言えないものの、先述したとおり、具体的なエピソードにのっとる著者の書きぶりは冒頭からいかんなく発揮され、博論時のキーワード「優柔不断の政治学」が明快に解説される。

 第一章は、『ピーナッツ』で全米デビューに至るまでのシュルツの軌跡を物語る。本書の主眼である、『ピーナッツ』で政治・社会を読みとくという分析に入る前の、準備の議論である。ぶっちゃけ気味に書けば、本章はシュルツに関して必ずしも目新しい情報があるわけではないので、シュルツについて詳しく知っているという自負がある方は読み飛ばしたり、斜め読みでもいいかもしれない。逆に言えば、シュルツや『ピーナッツ』について詳しくない方でも、第一章を読めば本書の議論に必要な情報はしっかり手に入る。時代の「空気」に即して作品読解を行なうというアプローチをとると、往々にして、個別具体的な作家・作品という「小さなもの」が、時代潮流という「大きなもの」に飲みこまれてしまいがちなのだが、本書はシュルツや『ピーナッツ』の特殊さを丁寧に拾うことで、それを単に冷戦期アメリカ文化という時代現象に還元して終わりにするという陥穽を避けている。第一章で、シュルツに生涯取り憑くこととなる若かりし日々の経験がきちんと論じられるのは、ケーススタディに重きを置く本書全体の著者の手つき、そして『ピーナッツ』やシュルツへの愛を象徴している。

 次章からいよいよ『ピーナッツ』と戦後アメリカ社会・政治との関係が本格的に論じられる。キャラクターを使って端的にまとめていくと、第二章は「チャーリー・ブラウンと冷戦の不安」、第三章は「ライナスとキリスト教」、第四章は「フランクリンと黒人差別」、第五章は「スヌーピーとベトナム戦争」、ひとつ飛ばして第七章は「女性キャラクターたちとフェミニズム」といった具合だ(飛ばした六章については後述)。もちろん、各章ではほかのキャラクターたちにも目配りされる。たとえば第二章では、ライナスが後生大事に持っている「安心毛布セキュリティ・ブランケット」に軍事用語との重なりが読みとかれるあたり、歴史学が専門である著者ボールの面目躍如だろう。

 第三章では、アメリカ社会とキリスト教の関係が注目される。同章では、しばしば聖書を引用するライナスのほか、チャーリー・ブラウンと妹サリーによる、学校でのお祈りをめぐるコミックに対して寄せられた読者からの手紙も詳しく分析される。学校=公的空間でのお祈り=宗教的行為は、「信仰の自由」やいわゆる「政教分離」に直結するゆえ、司法を巻きこむ問題にもなるし、読者も激しく反応するのだ。お祈りをめぐる『ピーナッツ』は1963年のエピソードだが、これは現在進行形の問題である。なにせ世俗国家たるアメリカは、たとえば大統領就任宣誓の際には聖書に手を置いて誓うのが通例のキリスト教国家でもあるのだから(ごく大雑把に言えば、こうして世俗に溶けこんだ大きな傾向としての宗教性が、本章でたびたび言及される「市民宗教」と言える)。

 キリスト教という背景を踏まえると理解しやすい、現在のアメリカも抱える社会問題として、人工妊娠中絶がある。2022年6月、アメリカ連邦最高裁判所が、中絶を認めないという判決を下したとして、日本でも話題になった。日本は中絶に関しては、幸い、個人の自由が比較的認められているがゆえ、理解に苦しむ方も多いだろうが、キリスト教保守派が中絶に反対しているという補助線を引くと、多少はアメリカならではの事情が見えてくるだろう。右で「アメリカ連邦最高裁判所が、中絶を認めないという判決を下した」と書いたが、これはすこぶる誤解を与える記述で、正確には、「1973年のロー対ウェイド判決を破棄した」、つまり、中絶については州ごとに熟議せよという連邦制ならではの法運用を求めたと言うべきである。この点を踏まえると、女性の権利について論じる第七章で、1970年、当時はカリフォルニア州知事だったロナルド・レーガンが、中絶をめぐる州法についての苦悩の手紙をシュルツに書き送っていたエピソードはきわめて興味深い。親しい友人にして、敬虔なキリスト教徒だったシュルツにこそ打ち明けられた想いがあったのだろう。「中絶禁止なんておかしい」と闇雲に切り捨てる前に、たとえばレーガンの声に耳を傾けることが熟議への第一歩であるはずなのだ。

 レーガンがシュルツに手紙を書くきっかけとなった『ピーナッツ』作品は、第六章で人口問題と絡めても登場する。先ほど紹介を飛ばした第六章は、『ピーナッツ』と環境問題と資本主義の関わり、もっと言えば、資本主義を「善きもの」と謳うプロパガンダと『ピーナッツ』の関連をあつかう章である。環境問題と言えば、近年、SDGs(持続可能な開発目標)が取り沙汰されている。これを掲げること自体は理にかなっているはずだが、『人新世の「資本論」』(集英社新書、2020年)がベストセラーとなった斎藤幸平が説くとおり、SDGsは資本主義という枠内での環境保護を訴えるに過ぎず、そこにはおのずと限界がある。この点、第六章で参照される世論調査によれば、環境悪化に注目が寄せられ始めた1970年代半ばのアメリカ国民の多くが、自国の経済システム――自由市場資本主義――に全幅の信頼を置いていなかったという事実は、非SDGs的環境保護ができたかもしれない可能性を見せてくれる。そこに『ピーナッツ』がどう絡むかという刺激的な実例は、本書の記述を参照されたい。

 紹介の順序が前後したが、第四章は『ピーナッツ』初の黒人キャラクターであるフランクリンに焦点が合わせられる。彼の登場には、ハリエット・グリックマンという女性によるシュルツへの働きかけがあったことが知られている。ただし著者ボールは、やはり歴史学者としての手腕を発揮し、ふたりの手紙の現物という一次資料を紹介しつつ、さらに種々の資料を用いて当時の激動のアメリカの空気を見事に描き出す。フランクリンが初登場した場所であるビーチや、その後彼が登場する映画館や学校といった空間の持つ政治的意味も明らかにされる。また、フランクリンの登場を「よかったこと」とばかり片付けず、人種統合におけるその限界を冷静に見定めていく論の運びは、単なる『ピーナッツ』のファンではない、研究者だからこそ為せるわざである。黒人差別もまた現在進行形の問題であることは、Black Lives Matter を例に出すまでもなく周知の事実だろう。

 第五章は、ベトナム戦争に対するアメリカ国民の両義的感情と、それを受けとめた『ピーナッツ』―― 特に、撃墜王フライングエースのスヌーピーや、徴兵がごときサマーキャンプへの不安を吐露するチャーリー・ブラウン―― の関係を論じる。ベトナム戦争は泥沼化を深めるにつれ、アメリカ国民の支持を失っていった。しかしそれは、現地で戦う米兵たちを支持しないということは意味しなかった。こうした、支持とも不支持とも言えない想いが両義﹅﹅的感情の最たるものであり、序章冒頭で論じられる「優柔不断の政治学」の顕著な例でもある。学校でのお祈りや中絶については、支持とも反対とも読める「優柔不断」なコミックを描いたシュルツだが、ベトナム戦争や黒人差別については、革命を起こすほどの急進性は持たないという意味での「優柔不断」さをコミックに込めている。後者の「優柔不断」は、フランス革命を横目で見ながらエドマンド・バークが説いた、本来の意味での「保守主義」に近づくはずで、その意味でチャールズ・シュルツは戦後アメリカの保守の良心であったと、第二章から第七章の議論は教えてくれる。

 いま「保守の良心であった﹅﹅﹅ 」と過去形で書いたのは、エピローグで論じられるとおり、シュルツの態度が時代遅れになったとも思われるからである。1988年から89年にかけて放映された、アメリカの歴史を題材としたTVアニメ『これがアメリカだ、チャーリー・ブラウン』を論じるエピローグは、最後に置かれた短い章ながら、決して「おまけ」などではない、正に掉尾を飾る見事な分析によって、シュルツが政治において「左」でありなおかつ「右」だったという「優柔不断」さを明らかにしてくれる。というか、右だ左だ保守だリベラルだと、旗幟鮮明な(気がする)レッテルを貼って論破しなければ落ち着けない現代だからこそ、シュルツの立場がネガティヴな「優柔不断」に見えるだけなのかもしれない。シュルツと『ピーナッツ』という特異な実例を通じて、「優」しくて「柔」らかで「不断」に考えつづけることこそが良心なのだと、一抹の郷愁とともに伝わってくるだろう。

 本書は全体の流れとして時系列順になっているが、先ほど順序を一部前後して紹介したように、章ごとに比較的独立した内容となっているため、とりあえず興味が湧いた章から読んでみることもできる。

 原書には、『ピーナッツ』のコミックストリップや、キャラクターの図版がいくつか収録されている。邦訳に際しても所収を検討したが、大して発売部数や利益が見こめない学術書に対しても高額な掲載料が必要だと判明したため、まったく同じ図版のレイアウトは見送った。代わりと言っては何だが、ある意味では浮いた予算で別の充実した図版を掲載した上で、原書の定価(34.95ドル)よりも安価な邦訳書になったのでご寛恕いただきたい。

 加えて、原書には明記されていない『ピーナッツ』コミックストリップの掲載日もほぼすべて特定しておいたので、参考にしていただきたい。日本語版については谷川俊太郎訳『完全版ピーナッツ全集』(河出書房新社、2019-2020年)に関する情報を併記しておいた。また英語原典に関しては、GoComics というウェブサイトで、すべて無料で読むことができる。違法サイトではないのでご安心を。便利なカレンダー式の年月日検索も可能である(https://www.gocomics.com/peanuts)。

 もっとも、著者ボールの記述はきわめて明快かつ的確なので、図版なしでも余すところなく論旨は伝わる。いちいち参照するというより、気になったコミックをあらためて楽しむくらいのノリでご活用いただきたい。

(続きは本書にて)

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