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【試し読み】『ヨコとタテの建築論』

建築分野を中心に好評を博している2023年1月新刊『ヨコとタテの建築論』。本書は私たちの社会のなかで建築を成り立たせている事柄をじっくりと見つめ、考え直した講義形式の入門書です。より深く、より広く読み解くための分野横断的な文献案内も充実。初学者から専門外の読者まで、幅広い層に読んでいただける一冊です。

今回は、第1講「互換と累進──モダン・ヒューマン、その力のぎこちなさ」より、第1節「アナロジーの曲芸」、第2節「自他に橋をかける」を公開いたします。ぜひご覧いただければ幸いです。

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1 アナロジーの曲芸

異なるカテゴリーに橋を架ける


 さっそくですが、旧石器時代の洞窟壁画の画家たちに登場願いましょう。興味深い洞窟は多々ありますが、ここでは誰もが知るフランスのラスコーを例にとります。生物学的には私たちと同じサピエンスたちが約2万年前に描いた絵です。彼らが絵を描くときに働いていた基本的な認知メカニズムは、私たちと変わりません。
 たとえば「雄牛の広間」として知られるホール状の空間に湧き上がり溢れ出るようなあの動物たちの絵[図1]。物質的な素材として見るなら、それらはカルシウム質を多く含んだ岩盤の表面と、諸種の鉱物と、そして木を燃やしてできた炭でしかありません。しかし、それらがそれ以上のものだったことは疑いようがない。つまり、それを描いた者たちの目には、こうした素材の集まりが、たとえばバイソンに他ならなかったはずです。今日の私たちにもそのように見え、それは否定しがたい。彼らも私たちも同じように、集合A[岩盤と鉱物と炭]を、集合B[バイソンの群れ]につなげることができたのです。

[図1]「雄牛の広間」(ラスコー洞窟)
出典:https://www.worldhistory.org/image/8664/lascaux-ii-cave-today/

 このアクロバティックな芸当を「アナロジー analogy」と呼びます。普通「類推」と訳し、特定の対象Aにある何らかの情報を、別の対象Bに移すような認知過程を意味します。小難しい表現ですが、難しい話ではありません。大脳に住むアナロジーという名前の小人がいたとして、あなたがその小人だと想像してみてください。岩盤に吸い付くように身体を伸ばしたご主人様の手がそこに顔料をのせるたびに図像Aは少し変化しますが、あなたはそのカタチの特徴を持ってB、つまり主人の記憶の中のバイソンの方へぴょんと飛び移り、重ね合わせのチェックをする。あなたが出すOKやNGを参考に、主人は間髪入れずにAに帰ってまた顔料をのせる。こうしたあなたの素早い往復運動の繰り返しが、主人の身体と連携して「絵」を生み出している。なかなかに曲芸的です。もちろん、本当は小人なんていないんですけどね。
 ここで念のため注意してほしいのですが、アナロジーが働く瞬間、私たちはそれに抵抗できません。いや抑えようなどと思う間もなくそれは作動してしまいますよね。そう、アナロジーは、自分がやっているんだとは言えないようなほぼ自動的な働きなのです。壁画の動物たちがむくむくと湧き立つように見えるのはそのためかもしれません。
 洞窟は漆黒の闇です。そこに彼らは火を灯しました。油を入れるくぼみのついたランプも発見されています。灯に照らされた岩盤のうえに色の線や面が現れ、バイソンの群れとなっていく。きっと画家たちは自分の身体の奥底に湧き上がる静かな昂ぶりに震えていたことでしょう。彼の手が動く瞬間、瞬間に、AとBのあいだに架かった橋をすばやく往復する認知過程が進んでいる。アナロジーの曲芸がランプの灯のもとで踊っているのです。

2 自他に橋を架ける

左右に、上下に


 ところで、ラスコー洞窟の岩盤は、上下で色が違います。上部は白く、下部は黒い。壁画はほぼ例外なく白いところに描かれており、黒い部分は避けられています。「雄牛の広間」でもそうです。
 しかし、「避けた」というのは必ずしも当たりません。その点で、この絵などはかなり興味をそそります[図2]。数頭のシカが、首から上だけ描かれている。これは川を渡るシカたちの絵であろうと言われています。おもしろいでしょう?

[図2] 川を渡るシカの群れ(ラスコー洞窟)
出典:https://www.researchgate.net/figure/Swimming-stags-La-frise-des-cerfs-nageant-from-Lascaux-Dordogne-C-N_fig2_341218346


 画家は黒い部分にシカの身体を描かないことによって、水を描かずに水面を暗示しようとしたらしいのです。つまり岩盤の色の「差異」が水面として「発見」されている。その意味で、岩盤の黒い部分をたしかに避けているのだけど、しかし絵から排除しているのではなく、絵の一部に組み込んでいるわけですね。高度な知的営みです。
 画家の手はつねに、顔料を岩盤に塗りつける即物的な作業をしています。でも彼が生み出そうとしているのは色の差異だと言うべきでしょう。差異のパタンと言った方がより正確かもしれません。顔料のタッチを一つひとつ即物的に加えながら、色の差異が生み出す脚のかたち、全身の姿といった大きなパタン、つまり高次の状態をチェックし、その判断に促されてまた小さな顔料の点や線をのせているのですからね。部分から全体へ、全体から部分へ。上がったり下がったり。
 絵を描くという行為の中で、こうした上下動はつねに起きています。右に本物のバイソン、左に絵のバイソンを思い浮かべてください。バイソンの絵を描くという行為の中で、両者の頭、胴体、脚のそれぞれに、左右をつなぐ橋が架けられますよね。でも同時に、脚の先に頭がついてしまっては困ります。つまり「部分がつくる配置関係」という高次のパタンにも橋を架けないと、胴も脚も描き進められないのです。
 アナロジーの曲芸は、ただヨコに行ったり来たりするだけでなく、跳び上がったり着地したりと上下している。意外に複雑です。上下動をしながら、左右を行き来する、できるだけ速く。それができないと絵は進まないのです。

くるりと戻る視線


 ラスコーの壁画には、シカの群れとヒトとが対峙する緊迫の場面を上から描いたものもあります。画家はひょっとすると崖上あるいは樹上からこんな状況を目撃したことがあるのかもしれませんが、遮るもののない真上からの視界はちょっとありえないのでは、という気もします。それに、真上から見たのならシカもヒトもなぜ側面なのでしょう。
 ラスコーの壁画は写実的という思い込みを、私たちは一旦棄てた方がよいかもしれません。もちろん、よく言われるように、彼らはいつも草むらや木陰に身を潜め、息を殺してシカの筋肉の動きに目を凝らしたに違いありません。その観察眼こそが、狩りの成否、場合によっては自分の生死をも左右したはずです。狩りの瞬間には、シカはその筋肉に緊張を漲らせ、狩人の射程から最も素早く外れるように跳躍するか、あるいは子を守るためにその射程の中心めがけて狩人へと突進したかもしれません。ところが、先史の壁画に描かれた動物はどんなに写実的で力強くとも、尻や顔を向けたものがない。脂肪と筋肉、肌と毛、息づかいさえ感じさせる一方で、どれもこれも、いわば「側面図」なのです。
 それなら今注目している狩りの絵はさしずめ側面図を並べた「配置図」とでも言えるでしょうか。記憶の中の自分はシカに対峙しているのですが、壁画ではシカと一緒に自分たち自身をも俯瞰的に見下ろす配置図を描いた。言ってみれば、シカに対峙していた狩りを思い出す際、自身から出た視線を、くるっと向きを変えて自身に折り返している。これを「再帰的」あるいは「自己言及的」と言います。自分の狩りを経験の内側で見るのではなく、その外へ出て、そこから狩りをする自分を見直すという意味では、「超越論的」とも言います。ヒトにはこんな芸当もできてしまいます。
 ここで興味深いのは、旧石器時代の洞窟壁画では、他の動物に比べてヒトがえらく抽象化されることです。「規則」なのではないかと思われるほど例外がない。しかしそれは何に由来するのでしょうか。エネルギーを注ぎ込んで描くような対象ではなかった、という説明はトートロジー(同義反復)、つまり言い換えただけです。少し踏み込むとしたら、こんなふうに考えることも許されるのではないでしょうか。つまり、画家にとってのバイソンとヒトの違いは、「自己言及(再帰)」が介在するか否かだ、と考えてみるのです。自分がバイソンを描くときなら、本物のバイソンと絵のバイソンのあいだに次々に橋を架けるアナロジーの運動を思い描くのは簡単です。ところが、自分が自分を描くという「自己言及」の関係を考えた途端、居心地が悪くなる。自分自身を外から見るのですから、肉体から幽体離脱して目だけになった自分と、魂の抜けた身体に、自分を分けなくちゃいけなくなります。
 人が対象を見る、描く。その対象の位置にその人自身を入れるときに生じる「自己言及」のぎこちない感じが、あのマッチ棒みたいなヒトの姿に現れているのではないでしょうか。根拠はありませんが、なんとなく魅力的な仮説です。

手の届かないところ


 この絵も有名です[図3]。倒れたヒトとバイソンとトリが描かれています。狩人はバイソンとの死闘の末に命を落としてしまったようです。ただ、倒れる前にバイソンにひと槍浴びせていました。その証拠に、バイソンの腹部からは重い腸がこぼれ落ちている。今は四脚で大地をつかまえているバイソンもほどなくして倒れ、死ぬでしょう。そのかたわらで、トリらしきものがそっぽを向いている。

[図3] 絶命するヒトとバイソン(ラスコーの洞窟壁画)。
出典:https://www.worldhistory.org/image/5590/wounded-bull-man--bird-lascaux-cave/


 このトリもまた抽象的な描かれ方をしています。臓器の重さや熱ささえ感じさせるバイソンの描写に対して、トリは針金みたいで、記号に近い。肉としての描かれ方は選ばれていない。このトリは、バイソンの死を見届けて飛び立ち、両者の魂をどこかへ運ぶのではないかと言われています。もしそうなら、トリに託されているのは何かヒトの手が届かない超越的なもの、あるいは超越的なものに触れる資格といったものなのでしょう。
 「超越的」という言葉は、自分たち人間にはとても扱いきれないと思われた重大な事柄を、神などの力に委ねて理解しようとするときに使います。自分の肉体や経験を超えるところにきっとあるに違いない、決定的に手の届かない何ものか、ですね。日照りが続くとか、生や死といったものは、やがて科学が取って代わるまでは、こうした「超越的」なものの力によって理解するしかなかったことは皆さんご存知でしょう。トリはそのような力に触れる存在だったのではないでしょうか。
 とても紛らわしいのが、前述の「超越論的」という言葉です。それは自分自身を自分で外から見返すという、反省的な視点を指すのに使います。それによって人は自分を、自分たちを捉え直し、明日の自分を変えていける。 トリの絵は「超越的なもの」に関わり、ヒトの絵は「超越論的なもの」に関わります。それらをいずれも肉のある身体として描かない画家たち。気の抜けたようなヒトやトリの姿傍らには素知らぬ顔のトリの姿はヨーロッパの洞窟も南米の洞窟も同じで、地域差がありません。そこに洞窟絵画の規則の厳格さを読み取ってみたい。絵というのは、昔も今も、私たち人間が世界を、自分を、どう捉えているのかを描くものです。たとえばキュビスムは断片的な視覚像をバラバラに描いて重ね合わせるようにして画面を構成しましたね。それは私たちが断片の重ね合わせによって刻々と世界を総合していくような見方をしているんだと、キュビストたちが考えたからです。ならば洞窟壁画の描画法だって、旧石器時代の人々が世界を、人自身を、どのように捉えていたのかを、示唆しているのではないか、ということです。
 ここまでくると、壁画に「描かれていないもの」も気になってきます。たとえば植物は旧石器時代の絵画にはまったく出てきません。ここでは深入りしませんが、興味深い事実だと思いませんか。
(続きは本書にて)

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試し読みの第2弾として、第7講「饒舌と沈黙──喧騒のなかのサイレンス」より、第1節「19世紀ジャングル──社会の誕生」も公開しております。
こちらもぜひ!

【著者プロフィール】
青井 哲人(あおい・あきひと)

明治大学理工学部建築学科教授、建築史・建築論
1970年生まれ。1995年京都大学大学院工学研究科建築学専攻博士課程中退。神戸芸術工科大学助手、人間環境大学准教授を経て、2008年明治大学理工学部建築学科准教授、2017年同教授。博士(工学)。主著に『彰化一九〇六年──市区改正が都市を動かす』(アセテート)、『植民地神社と帝国日本』(吉川弘文館)、『世界建築史15講』(共著、彰国社)『津波のあいだ、生きられた村』(共著、鹿島出版会)、『日本都市史・建築史事典』(共著、丸善)など。

【目次】
第1部 ヨコとタテ──ヒトは世界を組み上げる(モダン・ヒューマン論)
●第1講 互換と累進──モダン・ヒューマン、その力のぎこちなさ
●第2講 形態と内容──地上の幻
●第3講 相対と絶対──数と幾何学の魔法

第2部 ヨコにひろがる沃野──ありふれて、美しい(ビルト・ティシュー論)
●第4講 類型と組織──都市という織物の単位と積層
●第5講 自然と人工──なること/つくることは不思議な関係
●第6講 平衡と進化──わたしたちは想念のなかで都市建築を分解する

第3部 タテはいかに可能か──バラバラな世界に(アーキテクト論)
●第7講 饒舌と沈黙──喧騒のなかのサイレンス
●第8講 過去と未来──世界が壊れ、組み変わっていくとき
●第9講 単純と複雑──多元的な世界をそのままに

むすびに
●第10講 能動と受動──建設設計の3つの社会性

●抜き書きノート

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