Change!の言語学的分析を勝手にやってみた

注1:あくまで言語学者としての一意見というか一感想です。
注2:論文とかではないので、あまり推敲していません。まだ、どちらかっていうと論文読みながらとったノートの感覚に近いです。いつかもっとちゃんとした形でまとめる機会があったら嬉しいとは思います。もう少し推敲してどこかに投稿するかもしれません。
注3:読み返しながらのメモなので、大体時系列順に並んでいます。
注4:おそらくもっと読み込むと、もっと色々出てくると思います。私の知識不足もありますしね。
注5:こういうテキスト分析は専門ではありません。予めご了承下さい。


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一巻:

この漫画では、韻が始まる部分を大きな黒文字で表現しているところがあります。例えば、しおりんがFAMILYで始めて聞いたフリースタイル。「ない」「ぱいせん」「まいめん」の部分が文字で強調されています。これはラッパーが韻を強調するためにたまに使う手法です。アクセントをわざと崩す「アクセント崩し」という手法もあります。音声のない漫画の中で、これらの手法を再現しているところが素晴らしい。読んでいて、自然と韻が聞こえてきますね。でも、漫画の中の全ての韻がそう表現されているわけでもありません。FORKさん曰く、「あまり韻を強調するのもださい」ですからね。そこらへんのさじ加減も素晴らしい。

同じシーンで、しおりんは「相手の言ったことを引用したりして…」と感動していますが、これはフリースタイルが事前に仕込んだ韻(だけではない)ことを意味しており、いわゆる「クレバスタイル」ですね。しおりんが始めてラップと邂逅したときに、ここに気づかせるのがにくい。ラップを知らない人がフリースタイルバトルを見ると「あの韻とかって予め考えてるんでしょ?」とか思っちゃうこともあるらしいですが、それだけではないのですよ、と。

しおりんが強制的にラップをさせられたシーンでは「やさしいし」と「わがシティ」で韻を踏んでいますね。ミキティもそれに気が付いています。5つ母音を合わせるって…ちょっと聞いただけで、母音を合わせるという韻のルールをすでにつかんでいたのでしょうか。始めてこの漫画を読んだときは「そんなことあるわけねーべ」とか思っていましたが、読み進めると、実はしおりんには、言語芸術に関する感性や土台がすでに出来上がっていることが明らかにされ、これが偶然ではなかったことが示唆されています。オーボエがしおりんの才能に気づいていたことも二巻で明らかになりますね。

一巻の最後で、しおりんは「美学」と「磨く」を踏んでいます。この時点では、しおりんはラップのクラシックを知らないはずなのに…でもラップ好きには『B-Boyイズム』との繋がりに、ニヤっとできる。深読みかもしれないが、同じサイファーでミキティが「リスペクト」と口にする。好きな人はライムスター祭りに驚喜ですよ。漫画全体を通して、ラップにおける「本歌取り」が強調されていますが、メタな視線でもこのような本歌取りの例が沢山でてくる。主人公たちの口からも、漫画そのものからも、本歌取りの重要性が語られます。本歌取りは「日本語ラップが和歌という伝統に根付いている」ことを明らかにするという点でも大事ですが、研究者として「古典を大事にする」という点においても強調しすぎることはないポイントだと思っています。

二巻:

二巻はじめで、オーボエが「日本語ラップとは、すなわち日本語を大事にすることだ」という趣旨の発言をします。そうなのよ、それなのよ!と思いましたね。一見すると汚いことばで罵りあっているように見える日本語ラップですが(このような誤解も後にある登場人物の口から語られます)、「韻を大事にすること」、それはすなわち「日本語の構造をしっかり考えて、文章にすること」。つまり、「日本語を大事にすること、そのもの」なのです。オーボエさんに座布団100枚ほど差し上げたい、言語学者としてね。そして放たれる彼からの台詞「日本語の威力と魅力を知らないってことだからな」。しびれます。またラップ中じゃないのに韻を踏んでいるところがにくいですねー。

作品内でもミキティが次巻で解説していますが、外道斬の「キングギドラ」や「公開処刑」への言及は、これまたしびれますよね、やっぱり。「公開処刑」と「どうだい時計」が韻を踏み、そこから「アリスインワンダーランド」にちゃんと帰ってきているところがすごい。前半の盛り上がりとなるこのバトルですが、最後にしおりんは「外道斬」と「Don't let me down」で踏んでいます(たぶん)。母音は完全にあっていないので、ここは私の推測ですが。ただ、この日本語と英語を組みあせる、「母音は微妙に違ってもいいんじゃんスタイル」はZeebraさんのスタイルを彷彿させます。ギドラへのリスペクトがここで何重にも組み込まれていると考えるのは深読みしすぎでしょうか。(Zeebraさんだったらmeの部分をほとんど発音しないで、この韻を踏むでしょう。英語で実際発音されるときにはそうなりますしね。こうやって英語のリズムをラップを通して学べたら、または教えられたら、…と願っているのは私だけではないはず。ちょっと話しがずれました。)

ちなみに「Disは愛だ」のパンチラインですが、作品内では直接の言及はありませんが、たしか般若さんがよく言ってたと思います。K-DubさんへのDisを繰り返す中「俺は愛のこもったDisしかしないんで」と。たしかに、Disるって相手に興味があるからこそですもんね。関心がなければDisりません。

3巻:

3巻終盤のミキティとしおりんのバトルは無条件にしびれます。感動ものですね。余計な分析はいらない!?この後、しおりんの口からラップバトルと和歌などの日本語の伝統的な言語芸術の繋がりについて明らかにされます。ここが言語学者として最も共感してしまうところ。ラップは「とっぽい兄ちゃんがやっている、ちゃらついた罵り合い」じゃないんです。和歌の伝統と本質的には何も変わらないんです。ラップは芸術なんです!言語芸術なんです!!ごめんなさい、少し熱くなりました。

個人的に、このメッセージがこの漫画の一番大事なメッセージの一つだと思っています。しおりんパパは始め「日本語ラップは外国人のまねごとにしか見えない」と批判しますが、その批判がまさに見当外れであることに、まさに日本語の和歌研究の専門家である彼自身が気づくわけですね。(もちろん、日本語ラップが英語のラップに多大な影響を受けていることは忘れてはなりませんが)。パパはこの会話の後、しおりんのバトルを見ながら、日本語の分析をツールを用いてラップを分析してしまいます。パパの負けです。カタルシスすら感じます。

ちなみに、体言止めはK-Dubさんが日本語で韻を踏むために用いた手法ですね。幸い、プロのラッパーたちとお話する機会が増えてきましたが、彼らは例外なく頭が良く、しっかり物事を考え、また考えるための前提知識もしっかりしています。繰り返します、ラップは罵り合いではございません。ラップは言語芸j(ry…)

しおりんパパはこの後、ラップバトルがいかに日本語の訓練になるかを熱弁した手紙をしおりんの学校に書きます。講演の約束までします。私はその講演に出たいと思います。あわよくば、パネルディスカッションの参加者として参加した(ry)「日本語に人生を捧げてきた」しおりんパパ。私個人として、言語学者として語り合いたい。純粋にそう思います。正直漫画にここまで引き込まれたのはいつぶりでしょうか。大人になってからは始めてかもしれません。

五巻:

五巻終盤のしおりんバトルですが、MC正社員さんをもって語らせていますが、4母音5連発ですね。思わず確率を計算したくなってしまいます。ここは魂が籠もっていることを表現するために、大文字で韻が強調されています。ちなみにミキティとPink99のフィーメールラッパーバトルですが、「ブス」が連呼されます(笑)曲に使われているマボロシのMummy-Dは、「煙たがる隣のブスと 挨拶交わす俺はモラリスト」というパンチラインを残しています。これは偶然かもしれませんが。こういう本歌取りか分からないけど、そうかもしれない、とニヤニヤできるのも楽しいですね。

六巻:

六巻は熱いバトルが多いですね。引用も古典と言うよりも最近の曲がメインになってきます。おじさんは正直、古典のほうが聞き込んでいるるので、漫画の中でも時間が流れていることを感じさせます。ただ一言だけ。「言霊」に「リリック」をルビをふったあの瞬間に、座布団100枚。

六巻まで読み直して、改めて。和歌はもちろん575という制限があります。ラップも韻を踏むという制限があります。しかし、「制限があるからこそ生まれる創造性」というものがあります。普段は結びつけられない単語が韻によって、運命的な出会いをします。アメリカの非常に有名な絵本作家のDr. Seussは、こどもが分かるように単語500個しか使わず様々な絵本を書き上げました。彼も、「制約こそが想像の母である」と言っています。

というわけで続編を心からお待ち申し上げております。


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