傲慢と偽善 齋藤恒

先日の豪雨のあとの空はとても綺麗でした。その空を拝みたい一心にキャンパス(独立館4階)に足を運んだら見事入試期間で入れず、あまりものやるせなさに快感を感じるほどでした。

“ やまない雨はない ” という言葉がありますが、誰が雨を悲しいものに仕立て上げたのか、と思うときがあります。まあ、基本的に晴れていて欲しい気持ちは否めませんが。

この格言では言うなれば、雨がやんだあとの世界が輝くために雨を犠牲にします。このように、何かが輝くためには何かが犠牲になることがあるでしょう。(犠牲という言葉は好かないですが以降使います。)

競走部に属する私たちにおいても同様に言えることがあります。部員として活動する、陸上、仲間、自分のことを考えるために趣味を犠牲にするでしょう。友達と遊ぶことや大事な人との時間を犠牲にするでしょう。あなたが大切にしていることを犠牲にするでしょう。

それは仕方なのないことです。限られた時間、” 今現在の ” 自分の能力の中で何かを成し遂げようとするのですから、きっとそれは犠牲になるべくしてなったものたちでしょう。
そして時には、犠牲の立場が逆転することもあるでしょう。

大切なのはそれを成し遂げる時に、犠牲に見合うものかをきちんと考えることだと思います。考えて、考えて、考えて。分からなかったら、最後は “ 自分はどうしたいのか “ で決めればいいと思います。それが自分に持たせてあげられる責任というやつなのでしょう。


ここで僕だったら、の話。
僕だったら雨がやんだあとの世界も、雨も、どっちも取ります。先輩の奢りでご飯に行きます。先輩に「昼飯、太楼かたつ吉どっちがいい?」と聞かれたら僕は、「どっちも行きます」と言います。ぜんぶひっくるめて陸上として、陸上か僕が大切にしていることかを犠牲にしなければならないのなら、僕はどちらも輝かせます。そ、傲慢です。(ひょっとすると、自分なら誰かの悩みの種にもなれるし一緒に居て解決できるとも思っている勘違い野郎に近いかもしれません。)

かっこよくないですか? つまり、トロッコ問題に於いては、どちらも救うのです。” I’ll take both. “ なんて言っちゃって。かっこいい。

ただ、傲慢は犠牲無しにはなり得ないものではありません。犠牲となったおかげで輝くことだってちゃんとあるんです。だから、何かを多少なりとも犠牲にすることも、どっちも取ることも、等しく僕たちがとる選択なのだと思います。


ところで最後に、なぜ僕がどっちも取るのかをお話しします。それは、何かを犠牲にする勇気がないからです。
嗚呼、残念。かっこよくなり損ねてしまった。



再登校

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