太平記を読まないか? Vol.10~巻1-⑩「土岐多治見討たるる事」~
[はじめに]
どうもこんにちは。今節では、遂に土岐と多治見が討たれてしまう。どのように攻められ、そして死んでゆくのか。その死に様に注目しながら、読み進めていこう。分量がやや長めであるので、適宜休憩を入れながら読んで頂きたい。
『太平記』巻1「土岐多治見討たるる事」
[原文①]
さる程に、明くれば元亨四年九月十九日の卯刻に、軍勢雲霞の如く六波羅へ馳せ集まるを、小串三郎左衛門範行、山本九郎時綱、御紋の旗を給はつて、六条河原へ打ち出で、三千余騎を二手に分けて、多治見が宿所、錦小路高倉、土岐十郎が宿所、三条堀河へ押し寄せけるが、時綱、かくてはいかさま、大事の敵を討ち漏らしぬと思ひけるにや、大勢をばわざと三条河原に止めて、山本九郎ただ一騎、中間二人に長刀持たせて、忍びやかに土岐が宿所へ馳せて行く。
門前に馬を乗り捨てて、小門より内へつと入り、中門の方を見れば、殿居したる者どもよと覚えて、物具、太刀、枕元に取り散らし、高いびきかいて寝入りたり。厩の後ろを廻つて、いづくにか逃げ路のあると見れば、後ろは築地にて、門より外は道もなし。さては心安しと思ひて、客殿の奥なる二間を、さつと引き開けたれば、土岐十郎、ただ今起きたりと覚えて、鬢の髪を撫で上げて結ひけるが、山本九郎をきつと見て、「心得たり」と云ふままに、枕に立てたる太刀を取り、傍なる障子を一間踏み破り、六間の客殿へ跳り出でて、天井に太刀を打ち付けじと、払い切りにぞ切つたりける。
[現代語訳①]
そうこうしている内に、夜が明けた元亨4(1324)年9月19日の午前六時頃、雲霞のような大軍が六波羅に馳せ参じた。小串三郎左衛門範行、山本九郎時綱が御紋の旗を受け取って彼らを率いて六条河原まで出撃し、三千騎余りを二手に分け多治見の宿所である錦小路高倉、土岐十郎の宿所である三条堀河へ押し寄せたが、時綱は、これではきっと一番重要な敵(=土岐十郎)を討ち漏らしかねないと思ったのだろうか、軍勢の大半をわざと三条河原に留めて時綱がたった一騎、長刀を持った中間二人を連れて忍びやかに土岐の宿所へ馳せていった。
(土岐の宿所の)門前で時綱は馬を乗り捨てて、小門から中へと入り、中門の方を見ると、殿居している者どものような奴らが見えて、物具や太刀を枕元に散らかして、大きくいびきをかいて熟睡していた。厩の後ろに回ってどこか逃げ道があるか確認したが、後ろには築地になっていて、入って来た門以外に道は無かった。これならば安心だと思って、時綱は客殿の奥にある二間をさっ、と引き開けると、土岐十郎は今まさに目覚めたばかりのように見え、鬢を塗った髪を撫で上げて結っている所だったのが、入って来た時綱をきっと睨んで、
「そういう事か」
と言うままに、枕に立てかけてあった太刀を取り、傍にある障子を一間踏み破り、六間の客殿に踊り出て、天井に太刀を打ち付けないように、払い切りで時綱に切りかかった。
[原文②]
時綱は、わざと敵を広庭へおびきだし、透き間あらば生け取らんと志して、打ち払つては退り、受け流しては飛びのき、人交ぜもせず戦うて、後ろをきつと見返つたれば、後陣の人大勢一千余騎、二の関より込み入つて、同音に時をどづと作る。土岐十郎、これを見て、虜られじとや思ひけん、元の寝所へ走り帰つて、腹十文字に掻き切つて、北枕にこそ臥したりけれ。中門に寝たりつる若党どもも、皆思ひ思ひに討死して、遁るる者一人もなかりければ、首を取つて鋒に貫き、山本九郎時綱は、これより六波羅へ馳せ帰る。
多治見が宿所へは、小串三郎左衛門尉範行を先として、二千余騎にて押し寄せたり、多治見は、終夜の酒に飲み酔ひて、前後も知らず臥したりけるが、時の声に驚いて、「これは何事ぞ」と周章て騒ぐ。傍に臥したる遊君、物馴れたる女なりければ、枕なる鎧を取つて打ち着せ、上帯を強くしめさせて、なほ寝入りたる者どもをぞ、忍びやかに引き起こしける。
[現代語訳②]
時綱は、わざと敵を広い庭に誘き出して、隙があったら生け捕ろうとして、打ち払っては退き、相手の攻めを受け流しては飛び退き、人交ぜもせずに戦って、後ろをきっと見返すと、後陣のおおよそ一千騎が第二の門から入り込んで、同時にどっと鬨の声を上げた。土岐十郎はこれを見て、生け捕られる訳にはいかないと思ったのだろう、元の自分の寝床へ走り帰って、腹を十文字に掻き切り、頭を北に向けて死んだのであった。中門の辺りで寝ていた若党達も、皆思い思いに討死して、逃げた者は一人もいなかったので、(土岐十郎の)首を取って鋒で貫き、時綱は六波羅へと帰っていった。
多治見の宿所へは、小串三郎左衛門範行を先頭にして、二千騎余りで襲撃した。多治見は、夜更けまで酒に耽り、前後不覚のまま寝ていたのだが、(六波羅方の)鬨の声が上がったのに驚いて、「これは何事か」と慌てふためいた。傍で寝ていた遊女は世事に通じていたので、枕元にあった鎧を取って多治見に着せ、上帯を強く締めてやり、まだ寝ていた者をこっそり起こした。
[原文③]
小笠原孫六、傾城に驚かされて、太刀ばかりを取つて中門に走り出でて、目をすり開けて、四方をきつと見たれば、車の輪の旗二流れ、築地の上より見えたれば、孫六、内へ走り入つて、「六波羅より討手の向かうて候ひけるぞや。この間の御謀叛、早や顕れたりと覚え候ふ。面々思ひ切らせ給へ」とて、腹巻取つて肩に投げ懸け、二十五差いたる胡籙と、繁籐の弓とを提げて、門の上なる櫓へ走り登り、中差取つて打ち番ひ、狭間の板を八文字に押し開いて、「あな事々しの大勢や。討手の大将には、誰と云ふ人の向かはれ候ふぞ。近づいて矢一筋受けて御覧候へ」と云ふままに、十二束三伏、忘るるばかり引きしぼりて、ちゃうど放つ。
真前に進んだりける狩野下野前司が若党に、衣摺助房が甲の真向より鉢付の板まで、矢先白く射通して、馬より倒に射落とす。これを始めとして、鎧の袖、草摺、兜の鉢とも云はず、指し下ろして思ふやうに射ける間、面に立つたる兵二十四人、矢の下に射て落とす。今一筋胡籙に残つたる矢を引き抜いて、胡籙をば櫓より下へからりと投げ落とし、「この矢一つをば、冥途の旅の用心に持つべし」と云つて、「日本一の剛の者の、謀叛起こして自害する有様、見置いて人に語れ」と高声に呼ばはつて、太刀の鋒を口にくはへ、櫓より倒に飛び落ちて、貫かれてぞ死ににける。
この間に、多治見を始めとして、一族若党二十余人の者ども、物具ひしひしとし堅め、大庭に跳り出でて、門の閑の木を差して待ちかけたり。寄手、雲霞の如くなれども、思ひ切つたる者どもが、死に狂ひせんと引き籠もりたるが強さに、内へ切つて入らんとする者もなかりける処に、伊藤彦次郎父子兄弟四人、門の扉の少し破れたる所より、這うて内へぞ入りたりける。
志の程は武けれども、待ち受けたる敵の中へ、這うて抜け入りたる事なれば、敵に打ち違ふるまでもなくて、皆門の脇にて討たれにけり。
[現代語訳③]
小笠原孫六は遊女に起こされて、太刀だけ取って中門に走り出て、目を擦って目前の景色を見ると、車の輪の(家紋が入った)旗が二つ流れ、築地の上から見えたので、孫六は中に走り戻って、「六波羅からの討手が来ております!この間の御謀叛がもう露顕したかと思われます!各々、覚悟を決めなさい!」と言って後、腹巻を取って肩に投げかけて、(矢が)二十五本入った胡籙と、繁籐の弓を引っ提げて、門の上にある櫓へ走り登り、中差を弓に番えて、櫓の小窓をばっと押し開き、「こりゃまた大層な手勢だ。討手の大将は一体誰がやっているのだろうか。近づきなされ、矢一筋をご覧に入れましょう」と言うままに、十二束三伏である事を忘れる程に弓を引き絞り、ばんっと放った。
(討手の)先頭を進んでいた狩野下野前司の若い従者である衣摺助房の兜の正面から鉢付の板まで、白い矢先が射通し、(助房は)馬から逆様に射落とされた。これを端緒に、鎧の袖、草摺り、兜の鉢と、櫓の小窓から思うがままに矢を射かける間に、正面に立っていた討手の兵二十四人を矢によって射殺した。胡籙に残っていた最後の矢を引き抜き、胡籙を櫓から下へからりと投げ落として孫六は言った。
「この一本の矢を、冥途への旅路の用心に持っていこう」そして、
「日本一の剛の者が、謀叛を起こして自害するその有様を、とくと目に焼き付けて人に語れ!」
と声高に叫んで、太刀の切っ先を口に加え、櫓から逆様に飛び降りて、(その太刀に)貫かれて死んだ。
この間、多治見をはじめとして、一族・若い従者二十人余りの者達は、鎧をしっかりと身に着け、大庭に踊り出て、門にかんぬきを差して待ち構えた。寄せ手は雲霞の如き大軍だったが、死の覚悟を決めた者たちが、まさに死に物狂いで抵抗するべく引き籠っている事に恐れて、中に切り込もうとする者がいなかった所に、伊藤彦次郎父子兄弟四人が、門の扉が少し壊れて出来た隙間から這って中へと入っていった。
その志は見上げた忠勇だったが、待ち受けていた敵の中に這って侵入してしまったので、敵に切りかかるまでもなく、四人とも門の脇で討たれた。
[原文④]
寄手、これを見て、いよいよ近づく者もなかりける間、内より門の扉を押し開いて、「討手を承る程の人達の、きたなうも見えられ候ふものかな。早やこれへ御入り候へ。われらが首ども、引出物に進せ候はん」と、恥ぢしめてこそ立つたりけれ。寄手の兵ども、これを聞いて、五百余人、馬を踏み放ち歩立になり、喚いて庭へ込み入る。多治見四郎、とても遁れじと思ひ切つたる事なれば、いづくへか一足も引くべき、二十余人の者ども、大勢の中へ面も振らず切つて廻るに、前懸の寄手五百余人、散々に切り立てられて、また門より外へさつと引く。されども、寄手大勢なれば、前陣引けば、二陣の荒手また喚いて懸け入る。懸け入れば追ひ出だし、追ひ出だせば懸け入り、辰刻の始めより午時の終りまで、火出づる程こそ戦うたれ。
かやうに大手の軍強かりければ、佐々木判官が手の者、千余騎後ろへ廻つて、錦小路より在家を打ち破つて乱れ入る。多治見、今はこれまでと思ひければ、門の関の木を差し、中門に並み居て、二十二人の者ども、互ひに差し違へ差し違へ、算を散らせる如くにぞ臥したりける。大手の寄手どもが門を打ち破りけるその間に、搦手の勢ども乱れ入り、首を取つて、六波羅へ馳せ帰る。二時ばかりの合戦に、手負、死人の着到、二百七十三人なり。
[現代語訳④]
寄せ手の者達はこれを見て、いよいよ近づこうとする者もいなくなってしまったが、そんな中で中から門が押し開けられて、「討手を任された者どもの割には、卑怯にも思われるような有様だな。早くこちらへ入って来なさい。我らの首を贈り物にして差し上げよう」と嘲りながら立っていた。寄せ手の兵たち五百人余りは、馬を捨てて徒歩になり、喚きながら庭へと踏み入った。多治見四郎はとても(討手から)逃れる事は出来ないと思って、どこに退くべき所があるだろうかと考え、二十人余りの者が大勢の(討手の)中に脇目も振らずに切って回り、寄せ手の先鋒の五百人余りは散々に切りかかられ、また門の外へと撤退した。しかし、寄せ手は大勢だったので、第一陣が引けば第二陣、第二陣が引けば第三陣......と二陣の新手がまた喚いて中へと駆け行った。駆け行っては追い出し、追い出されてはまた駆け入り、辰刻から午刻まで四時間ほども、火花が散るほど激しく戦った。
このように正面での戦いが大変激しかったので、佐々木判官の部下千騎余りが(多治見宿所の)後ろへ回って、錦小路から民家を打ち破って乱入した。多治見ももはやこれまでと思ったので、門のかんぬきを差し、中門の辺りに並んで、二十二人の者達が互いに差し違え差し違え、算木を散らしたかのようにして死んだ。大手の寄せ手が門を打ち破ったその時、佐々木判官の部下達も中へ乱入し、(多治見らの)首を取って六波羅へと帰っていった。
四時間ほどの合戦で、帳簿に記された死傷者の数は合わせて二百七十三人であった。
[解説]
さて、長い記事になったが、今節で土岐・多治見両名は、六波羅探題=鎌倉幕府が差し向けた「討手」によってあえなく討たれた。相手が大規模な勢力で無かった事を差し置いても、六波羅探題の命令に応じてこれだけの討手が集まり、そして指示に従って謀叛人を攻撃出来るというのは、この当時においてはまだ鎌倉幕府による統制が一定程度効いていた事を示唆するだろう。勿論、軍勢の数には誇張があると考えられ(名簿などを見る立場に筆者は無かったはずであり、もし見られたとしても現在のように正確な人数を記録する事は困難であったと思われる。とはいえ、死傷者の数は一の位まで具体的であり、あながち当てずっぽうでも無さそうな記述なのが興味深い)、合戦の経過もこのような物かどうかは疑問が残るが、しかし『太平記』は「物語」であり文学作品なので、その書き筋について見ていきたい。
まず「十二束三伏」だが、これは弓の長さを表すもので、ある調査によればそれは約88cmであるという。今の、いわゆる弓道部が使っている「和弓」の標準は約2m20cmほどだと言うから、その3分の1より少し大きいくらいの大きさだ。室町期の男性の平均身長は約157cmで、今の男性の平均身長は約170cmと言うから、現代人にとっては少し小さめに感じるような弓を使っていたのだろう。ただ、乗馬した状態で弓を扱うとなればある程度小回りが効いた方が良いというのは一般的に理解しやすいと思われる。ただ、岩波文庫版『太平記』によれば標準は「十二束」(約84cm)だとしているので、僅かながら大きい弓になっている事が分かるだろう。
そしてもう一つ問題にしたいのは、小笠原孫六の死に様である。少し日本の古典文学、とりわけ『平家物語』に触れた事がある方は、なんとなく記憶の中に似た表現を見るかもしれない。
それは正しい。実際、『平家物語』にはほぼ同様のシーンがある。かの有名な源義仲の忠臣である今井兼平が、自分の大将である義仲が討たれた報を聞いてこのように言う。
「今は誰を覆はんとて、軍をばすべき。これ見給へ東國の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本よ。」
そして、
太刀のきつさきを口に含み、馬より逆さまに飛び落ち、貫かつてぞ失せにける。
このように、宣言・太刀のきっさきを口に含む事・逆様に飛び落ちて死ぬ事と、大半が同じ行動を取っている。実際に同様の死に方を孫六・そして兼平がしたのかは、今となっては確認しようもないが、『平家物語』の記述が『太平記』に影響を与えた事は十分に考えられるし、当時の武家社会の中で、兼平の立派な死に様が語り草になっていた可能性は0では無かろう。
では、今回はここまでとしよう。それではまた。
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